1話 彼が子犬だった頃
それは俺が五歳、母が二十歳、父が亡くなった時のことだった。
「母さん、お城にいくの?」
「ええ、ご領主の奥方さまは、お身体が弱いでしょう。若君と姫君を産んだ後は、何度もお子を流されて……だからご領主さまは腕利きの薬師を招いたの。でもその薬師の方、仕事に厳しい上に怒りっぽくて、少しの粗相でも許されないから、下働きが長く続かないらしいの。母さんは器用で煎じが得意だから、お城に上がらないかって誘われたの」
ぼさぼさの髪が重くなってしまったみたいに、母は俯いて語る。
母は一家の稼ぎ手が亡くなって、先行きを案じていた。
亡くなった父は頑丈で働き者だったらしいが、血気盛んでどうしようもなかった。
並外れた腕っぷしを畑だけではなく他人に揮い、そのたびに訴えられていた。荘園裁判で六ペンスや十二ペンスと罰金が度重なれば、貯えなどできるはずもない。
最近口に入れたものといえば、イラクサかスイバのポタージュだけだった。食べ物というにも烏滸がましい粗末な汁物。
小屋に葺かれた藁も剥げ、壁の粘土も崩れている。
家畜はいない。老いた雄鶏も痩せた豚さえも。煮炊き壺も底が抜け、靴さえなく、擦り切れた衣服だけが財産だった。それさえも縫い目は荒く、朝に垂れこめる霧が皮膚を突き刺してくる。
登城は渡りに船だった。
母はぼさぼさの黒髪を粗末なぽろ布でまとめ、ピンで留めた。俺も顔や手足、爪までしっかり洗われる。出来る限り身なりを整えた。持ち物はほとんどない。母さんは重い水差し、俺は匙や椀を端切れに包んで、片腕に抱える。
手を引かれ、村から城へと長い道を歩いていく。
遠目から眺めていても大きかった城は、中に入れば村ひとつより広かった。
いったいどこまで続くのか、皆目見当もつかぬほどだ。
「中庭へ行けばいいと聞いていたけど……」
導水路の板橋を越えて、アーチをくぐる。
金臭い空気が押し寄せてきた。
鍛冶の匂いだ。
屈強な職人たちが鉄と火花を散らしている。開けた場所では馬の蹄鉄を作り、軒先では真っ赤に融けた鉄を鋳型に流し込んでいた。武器や蹄鉄、農具も作っているんだ。
奥の壁際には大きな炉。吊るされているのは巨大なふいごだ。雄牛一頭分の革で出来ているんじゃないかってくらい大きい。
「鍛冶屋まであるんだ」
「……こっちじゃないみたいね」
うろうろと歩くが、目的の場所には辿り着かない。
誰かに聞けばいいんだろうけど、母は見知らぬ相手に話しかけられる性格ではなかった。井戸端でも教会でも同じように口を閉ざし、己から沈黙の座に縮こまっている。
俺が行けばいいんだろうか。でも見知らぬ子供が忙しい奉公人に話しかけて、まともに相手してくれるだろうか。追い払われてしまうだけじゃないだろうか
途方に暮れてしまうが、行き交っている洗濯女のひとりが声をかけてくれた。豪快な体格の中年女だ。
「どうしたんだい。知らん顔だね。誰かの女房かね?」
「………いえ、あの、その、村から薬師さまの下働きに参りました。あの、どこへ向かえば…」
「薬師の下働きに。それはそれはまた貧乏クジ引かされたもんさね!」
からからと大笑いする。
「あの薬師のババァは神経質で、わけのわからんことで怒鳴ってんだよ。四六時中、罵声を浴びせられて、だいたいの連中は三日で逃げちまうもんさ。どんだけ続くか見ものだね」
「………逃げません」
母は呟いた。
そよ風に負けて吹き飛んでしまいそうな声量だったけど、不思議にその場を占めた。
「お城なら、この子に食事を与えられる……だから逃げません…」
「そう、かい」
洗濯女から笑いが消えた。
真面目な眼差しで、高い塔へと視線を移す。
「ほら、あの煙が立ち上っている炊事塔。あの横から中庭へ入りゃ、養魚池と果樹園があるんだよ。導水路を辿って二番目の橋板を渡りな。橋板を渡れば薬草園で、木造小屋が建ってる。そこにいるはずさ。気張りな!」
案内に従って歩いていけば、果樹園に迎えられ、薬草の馥郁さが導いてくれた。呼吸するのが楽しくなるくらい清々しい。
繋いでいた母の手が、やっと和らぐ。
「アニスに、セージ、ヘンルーダ……まあ、もうアレコストが咲いているわ」
風に揺れる薬草たちの名を、母が目を細めて呟いていく。
薬草を眺めながらカミモールの小路を進めば、木造の調薬小屋が建っていた。
やっと辿り着いた。
扉を開けば、世界が変わってしまったかのように空気が密になっている。
土間の中心には炉が焚かれて、トネリコの薪がシューシューと音を立てていた。大きな鉄鍋からは、不思議な熱と香りが満ち溢れている。
炎の光に目が慣れてくれば、小屋の様子が隅々まで分かってきた。
小屋の太い梁からは、幾多の薬草や海綿が吊り下げられている。一枚板の作業台には、すり鉢や撹拌棒に白鑞の鉢、木製の大きな匙。それから研がれた包丁がきらきらしていた。物陰には、青銅の壺や素焼きの甕が並んでいる。
なんてたっぷり壺や鉢があるんだろう。
隙間がないくらい物が犇めいているの、初めて目にした。自由民の家だってこんなに雑貨が置かれていないんじゃないかな。
影からぬらりと老婆が現れる。俺たちを見据えた。
「あんたが新しい下働きかい? あたしはペトロニラ、城の薬師さ」
ペトロニラは前以て聞かされた通り、恐ろしい形相の老婆だった。
繋がった太い眉に、ぎらぎらした金壺眼。炉の光を受けて、炎じた輝きを宿している。あの眼差しに射抜かれれば、弓兵どころか騎士でさえ気圧されてしまいそうだった。
「はい、メアリと申します。こちらは息子のジェイデン」
「どっちもけったいな名前だね」
たしかに俺と母の名前は、村どころか隣村、旅芸人や行商、お城のお役人にもいない名前だった。
ペトロニラは悪魔じみた金壺眼で、俺を頭のてっぺんから爪先までじろじろ値踏みする。おまけに耳まで引っ張られた。
「ふん。瘦せっぽちだが、皮膚も爪も健康な色だ。耳や首の後ろも洗ってあるね。襟や袖もまあまあ。背骨も歪んでない。子供の面倒がきちんと見れる女だったら、下働きにしてやる価値はあるだろうよ」
俺に対しての値踏みではなくて、母が俺をどれだけ世話できているかの確認だったらしい。
「ジェイデンって言ったかい? このガキの身体はしゃんとしているけど、おつむの出来はどうだい。こっちの言う事聞ける中身が詰まってりゃ、万々歳だけどね」
その上、歯に衣を着せるという概念を知らぬ。
母さんとふたりで働き始めたけど、ペトロニラが威圧的でなかった日は一日だってない。
正直、仲良くしたい大人じゃなかった。