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真珠のコルヌコピア  作者: 猫目石琥珀
野良犬の序幕譚
5/8

5話 牢獄の野良犬



 ひたすら時間が経過する。

 荷物と靴は取り上げられてしまったが、上着を奪われなくてよかった。ここの看守は囚人を追いはぎするほど悪辣ではないらしい。

 統制されているのだ。

 あの規格外の大男、州長官(シャイアリーヴ)ギルス・ファウラー。

 規律という手綱を御せているのか。

 ずっと項垂れていると、不意に温かみが触れた。親指と人差し指(うしなったゆび)に。

「父さま」

 一瞬、夢かと疑ったが、本当にジャスパーがいた。

 そばかす顔に、満面の笑みを浮かべる。ここが地下牢だと忘れさせる明るさだ。

「ジャスパー………どうやってここに?」

「こっそり忍び込んだんですよ。看守が居眠りしている隙に鍵をくすねました。ぼく、かくれんぼは得意なんです」

 なんという無茶をする子だ。そしてなんと勇敢なのだ。

 自分の城の地下牢さえ怯むものだが、知らぬ城の地下牢に入り、看守から鍵を奪うとは。

 この行動力と勇気があれば、立派な騎士になるだろう。

「ごめんなさい。神さまのお裁きを待てばよかったのです。ぼくが父さまに余計な罪を吹き込んだせいで、父さまが捕まって………でも、だったら神さまはもっと早く裁いてくれればよかったのに」

 不貞腐れた物言いだった。

「神を疑うのはよすんだ、ジャスパー。もしかしたら神の慈悲で、老人が死ぬが早まったかもしれない。俺に罪を犯させないために」

「でも父さまは捕まってしまいました」

「たとえ世俗で縛り首になろうとも、まことに罪を犯していなくば神の国に昇れる」

 ジャスパーは俺に抱き着いた。

 子供特有の暖かさが、俺を包んでくれた。

「だめです、そんなの」

「そうだな。俺が罪人だと見做されてしまえば、マーガレットさまも猜疑の瞳で見られよう、耳障りな噂も立とう。あの方にもう苦しみを与えてはいけない」

「母さまが疑われるなんて。でもあの強欲商人の血筋から、訴えられたら……母さまが遺産を手に入れられなくするために」

 ジャスパーは小さく震える。

 俺の手のひらで慰められるか分からないが、背中を撫でる。

「マーガレットさまが裁きの場に引きずり出されるなど、シャルウッドベリの親類が阻むだろう。サースタン・ウォーターズの身内にどれほど支払っても、あるいは如何なる手段を使っても」

「今、シャルウッドベリの城でふんぞり返っているのは、母さまの兄ですよ。老商人に嫁がせた元凶が、母さまの窮地を助けてくれるとは思えません」

「この件はシャルウッドベリの窮地そのものだ。マーガレットさまが夫殺しで告訴されたとして、有罪になれば遺産は老商人の身内に戻る。そして無罪になったとしても、問題がある」

 語りながら、例の法律の名を、記憶の奥底から引きずり出す。 

「クラレンドン法だ」

「古い法律ですよ。神明裁判なんて百年も前に禁止されています」

「神明裁判は廃止されても、クラレンドン法における、『王は法律によって無罪となった者が、極めて評判の悪い持ち主だった場合、王の土地を放棄させるべきと望む』……この点は慣習法として生きているはずだ」

「でも、それは、母さまの評判がそこまで……」

 ジャスパーは否定は尤もだ。

 あの方の慈悲と聡明は、傍にいれば伝わってくる。だが近しくないものにとっては、そうではないのだ。

「夫のふしどを拒絶した狂女。はらわた煮えくりかえるが、荘園の人間たちからの評判が良いとは言えないだろう。陪審員の解釈次第では、クラレンドン法が適応されかねん」 

 国王直下の陪審員たちは、国庫を豊かにするために貴族の財布に指を突っ込む隙を狙っている。

 マーガレットさまが告訴されたのち無罪を勝ち取っても、古き法律によって財産没収される可能性が無くはない。

 陪審員がどう法解釈するのか、頭が痛い。

 狂女に対して、クラレンドン法が適応された先例はあっただろうか。

 いや、たとえ先例がなくとも、戦費に悩む宮廷が、この好機を逃すだろうか?

 シャルウッドベリにとって、マーガレットさまが告訴されてしまった時点で遺産は相続不可能になる確率が高い。たとえ遺産を放棄しても、告訴は避けたいだろう。

 利害づくだが、それがマーガレットさまを守ってくれる。

「まだマーガレットさまが召喚されたわけではないのだろう。ジャスパー………お前をここに連れてきたのは誰だ?」

 城の地下牢に忍び込むのは独りでやり遂げたとして、誰かが城まで連れてきたはずだ。

 マーガレットさまではない。ならば誰だ? 俺の知り合っている人物? 俺の母か?

 誰が今、この城にいるんだ?

「………今、ペトロニラ婆さまと州長官さまがお話しています」

「ペトロニラが来ているのか!」

 大声を出してしまった。

 驚きが御せないほど、俺にとっては身近で、恩義のある相手だった。

 城の薬師のペトロニラ。

 マーガレットさまについておられたのか。

 難儀なほど激しい性格だが、薬の煎じから、傷の手当てに至るまで腕は確かだ。産婆としても頼りがいがあり、弱々しい赤子を生かすことも長けている。ジャスパーの出産を助けたのは、ペトロニラなのだろう。

 あの烈女が乳母役を兼ねたのであれば、この子の豪胆さも納得だった。

「はい。あのアミーリアから早馬が来たんです」

 お喋り赤毛を思い出して、苛立ちが蘇ってくる。

 余計なことばかり言いふらして、誰かれ構わず告げ口して、喋りたくる赤毛だが、情報は早い。

「ここの州長官さまは父さまを疑っておられますが、決めつけるほど短慮ではない様子でした」

「ありがとう。心が楽になった」

 楽観視は出来ない。

 とはいえあの状況から決めつけられていないなら、幸運だろう。

「父さま。ぼくと会ったことは、誰にも内緒にしてください。ペトロニラ婆さまにも。どこで看守が聞き耳を立てているか分かりません。もしぼくの存在を知っていれば、母さまと通じていた証明になってしまいます。それでは州長官さまのお疑いが深まるばかりですから」

「ああ、マーガレットさまにご迷惑をおかけしない」

 ジャスパーはほっとしたのか、眉から憂いを開いた。

「ここの床は身体に障る。俺に乗るといい」

 底冷えに蝕まれないように、抱き着いているジャスパーを抱え込んで膝に乗せる。

 夏だから身体はそこまで冷えないが、こんな小さな子供が監獄熱(チフス)になったら手の施しようがない。

 不意にジャスパーの肩が縮こまる。

「父さま……ぼく以外に息子はいませんよね?」

 俺を見つめる緑の瞳は、不安そうに潤んでいた。

「ぼくと母さまの他に、家族がいたら……」

「いない。子供慣れしているか? 若君や異父弟(おとうと)の面倒を見ていたからな」

「ジョン叔父さまたちですか」

 ジャスパーは納得したのか、俺の腕の中で力を抜く。その仕草は異父弟を思い起こさせ、懐かしさと愛しさがこみ上げる。

「お前に優しいか、ジョンは」

「叔父さまたちは遠方で修行中の身で、こちらまでなかなか来られません。でもいつも母さまを気にかけてくれて、文のやり取りをしていらっしゃいます」

 そう言いながら、俺の腕を撫でる。

「父さまの腕、冷たくなってます。右手は痛みませんか」

「正直に言ってしまえば、少し痛む」

 ジャスパーは俺の無くなった指を撫でてくれた。

 そう、無い指に不思議と温かみが伝わってきて、痛みが和らいでくる。

「腕や足を無くすと、たまにそこだけ幽霊になってしまう人がいるって……ペトロニラが言ってました。父さまは指だけ、幽霊になってしまって、そのせいで腕が冷えているんです」

「指だけが幽霊か」

 スコットランドで潰された指は、幽霊になって留まっているのか。

 ジャスパーが撫でてくれているうちに、子供の体温が移ってくる。

「父さま。面白おかしい事を考えましょう、その方が痛みも失せます」

「おもしろおかしい事……?」

 脳内で道化師がひょんぴょん飛んでる光景を思い出すが、あまり楽しくはない。

 牢獄の辛気臭い湿り気が、頭の中まで滲んできて、思い出さえも湿らされる。

「父さまが母さまが結婚したら、ぼくに弓を教えて下さい。父さまみたいに上手になりますから」

「教えられるならば、教えたいものだな」

「それとみんなでロンドンに行ってみたいです。ロンドン橋って石橋の上にお店が並んでて壮観だって、行商人が話してましたよ。あと動物園(アニマルコレクション)も見たいです。ロンドン塔(ホワイトタワー)の獅子棟に、北極熊とか象とかいるんでしょう?」

 瞳の緑色を新緑の如く輝かせ、生き生きと語る。

「象ってロンディニウム時代の生き物だって思ってたけど、まだ残っていたんですね。象ってローマといっしょに滅んだって思ってたんです。見ることが出来るなんて思わなかった」

 十字軍の土産として、フランス国王から贈られた象か。

 あれはたしか五十年前の出来事だから、今も象が生きているか分からない。だがそんなつまらぬ水を差して、ジャスパーの瞳の輝きを翳らせたくはなかった。

「象か。賢明で、高潔。かつ徳高い生き物だ。いつか見れるといいな」

「はい! あとライオンも見たいです」

「そうか。ジャスパーは変わった動物が好きなのか?」

 そういえば異父弟たちも、よく仔馬を覗きに行ったり、毛長イタチの小屋に潜り込んでいた。

「動物は好きです。犬も馬も。でも変わった動物がいるなら見に行きたいじゃないですか」

「お前が俺を探していると知っていれば、スコットランドから珍しい動物を土産に抱えてきたのに」

「スコットランドは北極熊がいるんですか」

「いや、北極熊はいなかったが、不思議な海の生き物がいた。獣のようであり、泳ぐことは魚にも似ている。あざらし(シール)だのラッコやカワウソ(オッター)だの……」

 断食日にはそれを食べたと言いかけて止めた。

 話の流れに相応しくない。

「海の獣ですか。不思議な海の獣か、いいな。スコットランドまで行かずとも、帆船に乗れば見れるかな。帆船に乗って、海の獣を父さまに教わるんです」

 語り合ううちに、ありもしない幻想が過る。

 商業都市ロンドン。

 王都ウエストミンスターを呑み込むほどの勢いで発展している都市。

 港には風を孕む帆船によって、世界中から染料(いろ)香辛料(かおり)が運ばれてくる。バグダッドやカマディからはナツメヤシ、タイカンからはアーモンドやピスタチオ、金沙江から肉桂、バスマン王国からはサフラン、アルマレからは麝香、ソコトラ島から龍涎香……

 一呼吸するごとに、遥か彼方から運ばれてきた香りが肺腑に満ちる。

 異国の物だけでなく、異国の人々も行き交っているのだ。

 その目まぐるしい賑わしさの中を、マーガレットさまとジャスパーがそぞろ歩き、俺が見守る。

 なんて甘美で、叶わない夢なのだろう。

 ジャスパーがあまりにも幸せそうに語るから、否定は出来ない。

 その声を聴いているうちに、俺は眠ってしまった。 

 ジャスパーの声は、異父弟(おとうと)に似てる。それからマーガレットさまの弟エドガーさまにも。

 



 懐かしさを覚えながら、眠りゆく意識は過去へ過去へと遡っていた。

 俺がまだジャスパーより幼かった頃に。



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