5話 十年ぶりの帰郷
城門前では、年に一度だけ大規模な定期市が開かれる。
近隣の農村から人が集まり、行商人たちが訪れていた。もっと遠方のイタリア諸都市からも。
昔はもっとごった返していた記憶だが、今はなんとなく疎らだ。俺の背丈と年齢が増したせいだろうか。
開けた場所では、大道芸人たちが、曲芸熊を連れていた。派手な身なりの芸人たちが楽器をかき鳴らして、低俗な響きを満たしている。
匂いも満ちていた。行商人の背負っている家禽や獣脂蝋燭の匂い。鞣革の匂いも届く。魚樽を運ぶ荷馬車が大きく跳ねれば、漏れ穴から生臭い水を洩らし、土を泥濘にしていった。
さまざまな獣臭が満ちている。
俺は尾付きフードを深めに被る。
そうしなければ呼吸ひとつで、どんよりとした臭さに肺腑が蝕まれそうだった。
「齲蝕に患いし民草よ! それがしは同輩を痛みから救わんと、占星術を学び、医学を修めてきた。歯の患いに悩むであれば、それがしの元に集うがよい!」
演説している男は、胡散臭さを人間の形にしたらこうであろうという中年だった。
どこがどう胡散臭いか巧く言葉に出来ないのだが、でっぷりと肥えた腹回りや、分厚い瞼の下にある瞳も胡乱だ。取ってつけたくらい整っている髭など、特に胡散臭い。
身なりは悪くない。織り目が細やかなマントに、頑丈そうなアンクルブーツ。くるぶしまでのチュニックは裾を腰のベルトに挟みこんでいた。一振りの剣と革財布、そして人間の歯で作ったロザリオを下げている。
抜歯屋だ。
まともな医者じゃない。大道芸人に近い、大道医というやつだ。
もし州長官ギルス・ファウラーの部下でなければ、絶対に旅の連れ合いにならなかった。これが国家の役人が使っている諜報役とは思えない。
だからこその人選だろう。
怪しまれないどころか、半分くらい悪党の仲間だ。
俺は黙々と驢馬から荷物を下ろして、台に板を架けて、幕を張り、舞台を作っていく。
ああ、嫌だ。詐欺師紛いの大道医の手伝いなど、ペトロニラに顔向けできない。
「それがしの腕前の証明に、助手の歯を御覧じろ」
いきなり尾付きフードを取られた。
舞台に引き上げられ、頬を抓まれ、無理やり口を開かされる。
「揃った前歯に、血色の良い歯茎。これぞそれがしの腕前の証し!」
俺の歯が揃って頑丈なのは、ペトロニラの指導と歯磨き粉のおかげである。こんな詐欺師のお陰じゃない。
とはいえ目的のために反論も出来ず、素直に口を開いていた。
群衆の中から、自由民の男がひとりがやってきて抜歯を頼む。抜歯屋は歯の痛みに苦しむ人間にとっては掴むべき藁だ。
抜歯屋は鉗子を構えた。
「齲蝕を取り除こうぞ! さあ、ジョンくん、押さえていてくれ」
偽名を呼ばれ返事をする。
舞台に上がった患者を、助手として押さえつける。口内を覗く。
見るからに歯茎が腫れていた。
首を押さえれば、かなり筋が強張っている。耳の後ろもだ。
「これは歯が悪いのでなく、歯茎が悪いのでは?」
「ふむふむ」
抜歯屋は患者の肩を叩く。
「きみは幸いにもまだ軽症だ。助手のジョンくんに任せても問題ない」
俺は焼いた塩を小枝にこすりつけ、患者の歯茎を擦る。
思ったとおり歯茎から血が滲んで噴き出してきた。男の喉の奥に小枝を突っ込むと、身をよじって嚥下するが、力づく押さえつける。
「ジョンくん。口許は観衆に向けねばならんぞ」
「見世物じゃあるまいに」
「これは見世物だ」
「………」
俺は患者の口を大衆に向け、歯茎の腫れを削いでいく。
喉から大量の血をたれ流して苦しむ男に、市場の見物客たちはどわっと歓声を上げた。患者の悲鳴が呼び水になって、見物人が増えてくる。
「ほほお、すっげえ血だ! 馬のしょんべんくらい流れてっぞ」
「あの男の顔、おっかしい」
「こっちで口から瀉血してんぞ、見に来いよぉ」
「血しか無ェのか、クソ、歯を抜けよォ、歯を!」
見物人たちが囃し立ててくる。
歯の治療で他人が苦しむ姿が娯楽なのだ。
教養と知性がなくば、刺激を楽しみとするしかない。行きつく先は他人の不幸。
ああ、うんざりする。
俺は見物人の囃し立てを無視した。
それでも若い連中は声を上げている。
「つまんねーなー! せっかく見物に来てんだから、歯のひとつふたつ飛ばしてくれよ!」
野次を張り上げた青年を睨む。
「黙れ! 俺は彼を癒している。またふたたび滋養を噛み、神の恵みに感謝させるため! 見世物の大道芸でない!」
一喝すれば、見物の若者は引き下がった。
だが抜歯屋が俺の袖を引く。
「ジョンくん、未来の客に対して無礼ではないかね?」
「……治癒を軽んじないでください。俺はこれでも薬師さまの元で育ちました」
ペトロニラはいつだって真剣だった。
こんな大道芸の施術は許されるべきじゃない。
「大言を吐いてどうする。我々は痛みを癒すのではなく、痛みを商う大道医。違和感のある目立ち方をするな。顔見知りに見つかるぞ」
正論で刺された。
そもそもここには密使としてやってきたのだ。癒しのためではない。
俺はおとなしく歯の治療をする。
施術がひと段落する。
治療された男は疲弊して、ぜいぜい息を荒げていた。
「寝る前に毎回欠かさず、焼いた塩と薄荷と薬用サルビアをよく歯茎にこすりつけて噛んで、吐き捨て、さらに薬用サルビアの湯で口を濯ぐといい。丁子の湯が最適だが、値が張る」
「う、ううぅ……三日か? それとも十日くらいやらんと治らんか」
「死ぬまでだ」
「藪かよ」
吐き捨てられた呟きに、俺の眉が上がる。
「お前の美食と飽食の罪を、薬草たちが贖ってくれるのだ。お前が死ぬまで断食すると誓うなら、塩と薬草に贖わせずともよい」
ペトロニラみたいな言い草をしてしまった。
きつい物言いだが、患者は納得したらしい。せめて馳走を食べた後くらい、焼き塩で磨いてくれればいいのだが。
「ジョンくん、次の患者だぞ」
また来た。
こんな寄り道をしていないで、ご領主さまにお会いせねばならぬのに。
だが抜歯屋が稼ぎ場である市を見逃すはずない。怪しまれないために、俺は抜歯助手として働いた。
何人か抜歯し、抜歯と歯茎洗浄して、金を稼ぐ。
焼き塩と薬草で歯と歯茎を磨くように忠告したが、何人が守ってくれるだろうか。
日が傾いてきた。
人も少なくなってきて、店じまいを始めている商人もいる。
ちなみに抜歯屋は買い出しに行ってくると言ったきり、なかなか戻ってこない。
俺は舞台を片付け、驢馬に荷物を括る。終わったのを見計らったように、抜歯屋が戻ってきた。
「おう、ジョンくん。飯を食わんか?」
右手にはパイがふたつ、左手には水差し。夕食を買ってきたらしい。
「厩番と話をつけてきた。厩の片隅で寝かせてもらえる。飯代と寝床で馬芹一握りとは吹っ掛けたものだが、今夜は冷えそうだからな」
厩の片隅か。
外庭のひとつ奥が、鍛冶屋と厩。そこから果樹園に入り込める。炊事塔まで行ければ、天守塔へと立ち入れるのだ。ご領主さまにお会いできる。
「早く厩へ……」
「気が早いぞ、ジョンくん。それがしたちは城に不案内だ。厩番の案内を待つしかないのではないかね?」
俺の粗忽さを咎められてしまった。
厩の場所を把握している素振りを悟られたら、不審に思われる。
案内を待ちがてら、夕餉を食べる。不断草のパイだ。早生のりんごとまだ生っぽい干しブドウも入っていた。噛みしめ甲斐のある味わいだった。
「なかなか美味い」
夕餉に意気揚々としていた。
だが周囲の人の行き交いが薄まれば、ふっと口元から喜色を払う。
「しかし聞きしに勝る治安の悪さよ」
「たしかに野次は品性がない……」
「そんな話ではない。城のおひざ元で開かれる定期市だというに、貴重品の商いが皆無だ。飛び交う声にイタリア諸都市の訛りは聞こえず、香辛料や生姜の香りを欠いておって悪臭ばかり鼻についた。生活必需品、かつ安物ばかりだ。歩いている村人の靴も穴あきばかりで、生活に余裕はない」
城の定期市ではイタリアの諸都市から貿易商が訪れて、地元の小売り相手に布や香料を売る。
十年前はそうだった。
「遠方からの商人に見限られているのか」
「あるいはたどり着けんのか」
抜歯屋の呟きは、重たく、ため息よりため息じみていた。
「その上、ダイス詐欺のアンドリューや、巾着切りのハンフリーを見かけた」
「あの蠢く群衆から、犯罪者を見つけたんですか?」
「その程度が出来んで、どうして州長官さまにご報告できよう」
神妙に語る。
「失礼。見くびったわけではありません。ギルス・ファウラー州長官の目に足る方です」
俺の謝罪に対して、抜歯屋は空気を和らげた。
「抜歯をやってると、見物人から掏ろうとする手癖の悪い連中が目に入る。慣れれば難しくないな」
自慢げに整った髭を摘まむ。
「城の目と鼻の先で、常習犯がうろついているのは、芳しくない兆候だ。衛兵は度量衡の違犯で罰金を取るのに熱心で、常習犯には無関心だ。治安が死にかけておる。街道も追いはぎが増えている上に、城までとはな」
「追い剥ぎの気配などありませんでしたが……」
「それがしたちは行商と塊になって移動したからな。だが街道整備が杜撰だった。治安と流通の維持のため、領主が賦役で科すべきだというのに」
たしかに俺の記憶より、木陰と八重葎が広がっていた。
こどもの頃に歩んだ道は、もっと広くて、明るかったはずだ。
母に手を引かれ、ふたりきりで歩けた。危険はなかった。ご領主さまのおかげで、追い剥ぎや獣が厭う道になっていたのだ。
「これほど街道が荒れておれば、悪漢どもが待ち伏せしやすく、逃げやすい。さらに飢えた狼も来るかもしれん。遠からず行商が避けて、流通が滞る。市場の売り上げが減れば、暮らしも悪くなり、税収も減る。さらに街道が荒れる。食い詰めた愚か者が罪を犯す……宜しからずだ」
悪の連鎖と、負の循環。
一刻も早く断ち切らねば、この領地が死ぬ。
「それでも州長官は動けないのか」
「州長官さまとて領主の城壁は越えられぬ」
「ご領主さまからの一筆があれば動けるのだな」
切り札を持ち帰らねば。
マーガレットさまとジャスパーのためにも。




