4話 狂犬は酔いどれたちに牙を剥く
村人たちの眼差しが、俺に突き刺さっていた。
「おいおい、黙れって聞こえたが、旅人がどういう了見ででかいツラしてんだ?」
「耳障りだ」
「は、なんだてめぇ!」
胸倉に掴みかかってきた腕を鷲掴み、そのまま壁へと投げつけた。
他の連中も頭に血が上ったのだろう。俺に飛び掛かってくるが、だらしない動きだ。背の高い方の顎には肘鉄を食らわせ、低い方は股間を蹴り飛ばした。
背が高くも低くも無い男は及び腰だったが、俺は椅子を蹴り上げ、そいつにぶつける。
「ちょいと、にいちゃん、やめとくれ。そいつはもう3ペックは下がっているじゃないか」
離れたところから女主人の声が飛ぶ。
土間に転がっている背の高い方が、なにやら悪態をついて起き上がろうとした。立ち上がる前に顎を蹴り、手近の椅子で頭を殴りつける。呻きの隙間から、男の折れた歯が飛ぶ。
ああ、許しがたい。
だが最も許しがたいのは、俺ではないか。
俺が清らかさを剥ぎ取ったせいで、嘲笑の礫にマーガレットさまが晒されている。
どうして俺は男だったのだ。
マーガレットさまに捧げる地位も名誉も持たぬならば、ただの一匹の小鳥でいたかった。あの方の美しさに夏は囀り、冬の寒さで死に、あの方の手で埋められる小鳥でありたかった!
「どうして俺は小鳥ではないのだ!」
男が殴りかかってきた。ふらついた拳を躱して、鳩尾を殴った。短い呻きと共に、崩れ落ちる男。
それでもなおこの身から噴き上がる憤激は、冷めぬ。尽きぬ。終わらぬのだ。
拳を握り、振りかざす。
幾度も、幾度も。
そうして、いつの間にか、静かになった。
掠れた呼吸音や苦し気な呻きが地を這っているが、それでもましになっている。
扉が開かれる。どやどやと居酒屋に素面の男たちが入ってきた。
真面目そうな中年男が、辺りを見回す。頭痛を堪えるように額を撫でた。
「あたまのおかしい男が暴れてるって聞いたが、酔っ払いと旅人のケンカかね……この横暴漢どもを、ひとりで叩き伏せたのか」
俺の足元にはいつの間にか、五人が呻きながら転がっていた。
歯や鼻血が撒き散らされている。
頭に血がのぼって、全員を過剰に叩き伏せてしまったらしい。
「ああ、迷惑をかけて申し訳ない」
女主人に謝ると、小さな悲鳴を返されてしまった。
中年の男は、ため息を漏らす。
「素手での流血沙汰か」
暴力沙汰の刑罰は、指を木枠で絞めたまま跪く。
「指締めさらし台の枠に入れる指が少ないが、構わないか」
「腕っぷしが強いと思ったら、スコットランド帰りの猛者か」
俺の欠けた指に、納得の頷きを返す。
「ここらへんじゃ罰金が慣習になってる。おそらく5ペンスから8ペンスの罰金だが、ここの荘園主はさきほど、亡くなった。荘園裁判所が開廷できる家令が多忙になる。ことが落ち着くまで修道院預かりになりそうだ」
つまり俺の今夜、いや、しばらくの間は修道院の懲罰室ということか。
俺は文無しだ。懲罰室で横たわり、労働で罰金を購う。
だが暖炉を床にして、火傷を纏ったマーガレットさまを想えば、石畳の幾夜など楽園に等しかった。
役人に連れられて、水車小屋を越えて導水路の橋を渡る。
麦の刈り入れが終わった平地の彼方、果樹園に取り巻かれるように石造りの修道院が聳えていた。建物はさして大きいわけではないが、なだらかな畑や果樹園は豊かだった。
修道院も一日最後のお勤めが終わったというのに、身元の定かでない旅人を引き渡されて、さぞ難儀だろう。
静寂を課せられていると思っていたが、修道院からは話し声がしていた。厩からも聞こえる。
亡くなったサースタン・ウォーターズの弔いに関してだろうか。
急逝すれば、司祭たちも動揺するだろう。
居酒屋の村人たちの雰囲気からして、あの商人は真面目にミサに出席する御仁ではなかった。最後の告解はいつだったのか、教区司祭さえ分からぬほどかもしれない。
死者の魂の平穏がどうであったのか司祭が気に病むのも、無理なからぬ事態だ。
修道院の前庭に入る。
厩へと引き立てられていく馬や、マントを纏った男らがいた。あの商人の奉公人だろうか。
群れているマントたちから、ひときわ小柄な人物が飛び出す。
「ジェイデン! やっぱりあなたジェイデンじゃないの。生きていたのね、よかったわ!」
チュニックを翻して駆け寄ってきたのは、赤毛の女だった。
俺と同じ年のはずだが、どこか幼さを残した愛らしい顔で、溢れんばかりの笑顔を湛える。
赤毛のアミーリア。
死ぬほど嫌いな女だった。
何故、この女がここにいる?
城で奉公していたはずだ。
横っ面を張り倒したい衝動を堪えていると、このお喋り女はぺらぺらと軽々しく舌を回す。
「ほんとに心配したのよ! ああ、マーガレットさまにお会いしにきたのね? あいにくだけどマーガレットさまは、こちらにはいらっしゃらないの」
「黙れ」
怒鳴った瞬間、背後から誰かに押さえつけられた。
俺は地べたに倒されて、背中から肺を圧倒的な力で押しつぶされる。
「赤毛のお嬢さん。詳しく話してくれないか」
俺を押し潰している男が、アミーリアに語りかける。
低く深みあるその声は穏やかだったが、逆らい難い威厳がある。
誰だ。
俺をここにつれてきた役人の声ではないし、修道士にこんな腕力はない。
「ジェイデンは城でいちばん勇敢で弓の名手だったわ。悪漢が盗んだ聖具を取り戻すために崖を登って、親玉が砦から顔を出すまで三日も隠れていたのよ。現れたところを弓で射抜いて! マーガレットさまのためだったら、なんでも成し遂げるのよ。どうしてこんな身分の卑しさで、気高い魂を持っているのか不思議ね!」
この女は変わらない!
十年経とうが、最悪のタイミングで最悪なことを喋りちからす!
口止めしてやりたいが、俺の背に圧し掛かる重さが言葉どころか呼吸を奪う。
「マーガレットはサースタンの妻だったな。この男は横恋慕していたのか?」
「いいえ! マーガレットさまとわりない仲だったのよ。マーガレットさまはただならぬお身体になって、商人に嫁がれることになってしまったけど……でもマーガレットさまはずっとジェイデンを想っていたわ。こんな素敵な恋物語、吟遊詩人が歌うべきじゃないかしら」
「なるほど」
俺の背中から重圧が取れる。
やっと呼吸ができて、地面から立ち上がる。
俺の背中を押しつぶしていたのは、規格外の大男だった。整えきれていない蓬髪と髭は、イバラのように威圧的だ。だが粗野ではなく、威厳を備えている。
筋の通った鼻梁の肉付きは薄く、それが妙に猛禽の嘴を思わせた。
「国王陛下からこの州を預かっている州長官ギルス・ファウラーだ。お前さんを城に連行させてもらう」
鷹のような大男は、マントを翼の如く翻して、そう名乗った。
もはや俺の身柄は、荘園ひとつで収まらない。
州長官の座す州裁判所に引っ立てられることになった。
地下牢に叩きこまれ、重い扉が閉められた時、スコットランドで捕虜になった記憶が蘇る。
薄暗い死臭の底で、「イェット閉めろ」とスコットランド兵が叫べば、鉄格子が降りた。行き場の無くなった死臭が、鼻腔に入り込み肺腑を蝕む。
すでに無いはずの指が痛い。
触れることも掴むことも番えることもできぬくせに、痛みだけが残っている。こびりついた痛みを抱き締めて、俺は座り込んだ。
石の地下牢では、湿り気と冷たさが凝っていた。高い天井近くに明かり取りの窓がひとつ、そして逆側の天井付近には「流し目」と呼ばれる小さな覗き窓があった。看守が踊り場から囚人を監視するための窓だ。
商人殺しの犯人として、拷問が始まるだろうか。
拷問による自白は裁判で認められないが、法律の抜け道はある。拷問をたっぷり味合わせてから休ませ、自発的な告白を促すのだ。そこで自白しなければ拷問が再開される。
俺が老商人を殺そうと屋敷に踏み入ったのは、事実。殺意を抱いて刃を携えていた。
それはいかほどの罪に値するのだろうか。