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真珠のコルヌコピア  作者: 猫目石琥珀
野良犬の序幕譚
4/6

4話 狂犬は酔いどれたちに牙を剥く


 村人たちの眼差しが、俺に突き刺さっていた。

「おいおい、黙れって聞こえたが、旅人がどういう了見ででかいツラしてんだ?」

「耳障りだ」

「は、なんだてめぇ!」

 胸倉に掴みかかってきた腕を鷲掴み、そのまま壁へと投げつけた。

 他の連中も頭に血が上ったのだろう。俺に飛び掛かってくるが、だらしない動きだ。背の高い方の顎には肘鉄を食らわせ、低い方は股間を蹴り飛ばした。

 背が高くも低くも無い男は及び腰だったが、俺は椅子を蹴り上げ、そいつにぶつける。

「ちょいと、にいちゃん、やめとくれ。そいつはもう3ペックは下がっ(はなっぱしらがおれ)ているじゃないか」

 離れたところから女主人の声が飛ぶ。

 土間に転がっている背の高い方が、なにやら悪態をついて起き上がろうとした。立ち上がる前に顎を蹴り、手近の椅子で頭を殴りつける。呻きの隙間から、男の折れた歯が飛ぶ。

 ああ、許しがたい。

 だが最も許しがたいのは、俺ではないか。

 俺が清らかさを剥ぎ取ったせいで、嘲笑の礫にマーガレットさまが晒されている。

 どうして俺は男だったのだ。

 マーガレットさまに捧げる地位も名誉も持たぬならば、ただの一匹の小鳥でいたかった。あの方の美しさに夏は囀り、冬の寒さで死に、あの方の手で埋められる小鳥でありたかった!


「どうして俺は小鳥ではないのだ!」


 男が殴りかかってきた。ふらついた拳を躱して、鳩尾を殴った。短い呻きと共に、崩れ落ちる男。

 それでもなおこの身から噴き上がる憤激は、冷めぬ。尽きぬ。終わらぬのだ。

 拳を握り、振りかざす。

 幾度も、幾度も。


 そうして、いつの間にか、静かになった。


 掠れた呼吸音や苦し気な呻きが地を這っているが、それでもましになっている。

 扉が開かれる。どやどやと居酒屋に素面の男たちが入ってきた。

 真面目そうな中年男が、辺りを見回す。頭痛を堪えるように額を撫でた。

「あたまのおかしい男が暴れてるって聞いたが、酔っ払いと旅人のケンカかね……この横暴漢どもを、ひとりで叩き伏せたのか」

 俺の足元にはいつの間にか、五人が呻きながら転がっていた。

 歯や鼻血が撒き散らされている。

 頭に血がのぼって、全員を過剰に叩き伏せてしまったらしい。

「ああ、迷惑をかけて申し訳ない」

 女主人に謝ると、小さな悲鳴を返されてしまった。

 中年の男は、ため息を漏らす。

「素手での流血沙汰か」

 暴力沙汰の刑罰は、指を木枠で絞めたまま跪く。

「指締めさらし台の枠に入れる指が少ないが、構わないか」

「腕っぷしが強いと思ったら、スコットランド帰りの猛者か」

 俺の欠けた指に、納得の頷きを返す。 

「ここらへんじゃ罰金が慣習になってる。おそらく5ペンスから8ペンスの罰金だが、ここの荘園主はさきほど、亡くなった。荘園裁判所(ホール・モウト)が開廷できる家令が多忙になる。ことが落ち着くまで修道院預かりになりそうだ」 

 つまり俺の今夜、いや、しばらくの間は修道院の懲罰室ということか。

 俺は文無しだ。懲罰室で横たわり、労働で罰金を購う。

 だが暖炉を床にして、火傷を纏ったマーガレットさまを想えば、石畳の幾夜など楽園に等しかった。 




 

 役人に連れられて、水車小屋を越えて導水路の橋を渡る。

 麦の刈り入れが終わった平地の彼方、果樹園に取り巻かれるように石造りの修道院が聳えていた。建物はさして大きいわけではないが、なだらかな畑や果樹園は豊かだった。

 修道院も一日最後のお勤めが終わったというのに、身元の定かでない旅人を引き渡されて、さぞ難儀だろう。

 静寂を課せられていると思っていたが、修道院からは話し声がしていた。厩からも聞こえる。

 亡くなったサースタン・ウォーターズの弔いに関してだろうか。

 急逝すれば、司祭たちも動揺するだろう。

 居酒屋の村人たちの雰囲気からして、あの商人は真面目にミサに出席する御仁ではなかった。最後の告解はいつだったのか、教区司祭さえ分からぬほどかもしれない。

 死者の魂の平穏がどうであったのか司祭が気に病むのも、無理なからぬ事態だ。

 修道院の前庭に入る。

 厩へと引き立てられていく馬や、マントを纏った男らがいた。あの商人の奉公人だろうか。

 群れているマントたちから、ひときわ小柄な人物が飛び出す。


「ジェイデン! やっぱりあなたジェイデンじゃないの。生きていたのね、よかったわ!」


 チュニックを翻して駆け寄ってきたのは、赤毛の女だった。

 俺と同じ年のはずだが、どこか幼さを残した愛らしい顔で、溢れんばかりの笑顔を湛える。

 赤毛のアミーリア。


 死ぬほど嫌いな女だった。

 

 何故、この女がここにいる?

 城で奉公していたはずだ。

 横っ面を張り倒したい衝動を堪えていると、このお喋り女はぺらぺらと軽々しく舌を回す。

「ほんとに心配したのよ! ああ、マーガレットさまにお会いしにきたのね? あいにくだけどマーガレットさまは、こちらにはいらっしゃらないの」

「黙れ」

 怒鳴った瞬間、背後から誰かに押さえつけられた。

 俺は地べたに倒されて、背中から肺を圧倒的な力で押しつぶされる。

「赤毛のお嬢さん。詳しく話してくれないか」

 俺を押し潰している男が、アミーリアに語りかける。

 低く深みあるその声は穏やかだったが、逆らい難い威厳がある。

 誰だ。

 俺をここにつれてきた役人の声ではないし、修道士にこんな腕力はない。

「ジェイデンは城でいちばん勇敢で弓の名手だったわ。悪漢が盗んだ聖具を取り戻すために崖を登って、親玉が砦から顔を出すまで三日も隠れていたのよ。現れたところを弓で射抜いて! マーガレットさまのためだったら、なんでも成し遂げるのよ。どうしてこんな身分の卑しさで、気高い魂を持っているのか不思議ね!」 

 この女は変わらない!

 十年経とうが、最悪のタイミングで最悪なことを喋りちからす!

 口止めしてやりたいが、俺の背に圧し掛かる重さが言葉どころか呼吸を奪う。

「マーガレットはサースタンの妻だったな。この男は横恋慕していたのか?」

「いいえ! マーガレットさまとわりない仲だったのよ。マーガレットさまはただならぬお身体になって、商人に嫁がれることになってしまったけど……でもマーガレットさまはずっとジェイデンを想っていたわ。こんな素敵な恋物語、吟遊詩人が歌うべきじゃないかしら」

「なるほど」

 俺の背中から重圧が取れる。

 やっと呼吸ができて、地面から立ち上がる。

 俺の背中を押しつぶしていたのは、規格外の大男だった。整えきれていない蓬髪と髭は、イバラのように威圧的だ。だが粗野ではなく、威厳を備えている。

 筋の通った鼻梁の肉付きは薄く、それが妙に猛禽の嘴を思わせた。 

「国王陛下からこの州を預かっている州長官(シャイアリーヴ)ギルス・ファウラーだ。お前さんを城に連行させてもらう」 

 鷹のような大男は、マントを翼の如く翻して、そう名乗った。



 もはや俺の身柄は、荘園(マナー)ひとつで収まらない。

 州長官の座す州裁判所に引っ立てられることになった。





 地下牢に叩きこまれ、重い扉が閉められた時、スコットランドで捕虜になった記憶が蘇る。

 薄暗い死臭の底で、「イェット閉めろ」とスコットランド兵が叫べば、鉄格子が降りた。行き場の無くなった死臭が、鼻腔に入り込み肺腑を蝕む。

 すでに無いはずの指が痛い。

 触れることも掴むことも番えることもできぬくせに、痛みだけが残っている。こびりついた痛みを抱き締めて、俺は座り込んだ。

 石の地下牢では、湿り気と冷たさが凝っていた。高い天井近くに明かり取りの窓がひとつ、そして逆側の天井付近には「流し目」と呼ばれる小さな覗き窓があった。看守が踊り場から囚人を監視するための窓だ。

 商人殺しの犯人として、拷問が始まるだろうか。

 拷問による自白は裁判で認められないが、法律の抜け道はある。拷問をたっぷり味合わせてから休ませ、自発的な告白を促すのだ。そこで自白しなければ拷問が再開される。

 俺が老商人を殺そうと屋敷に踏み入ったのは、事実。殺意を抱いて刃を携えていた。

 それはいかほどの罪に値するのだろうか。

 



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