2話 犬好きの州長官
拷問が始まるのだろうか。
息を飲んでいると、重い扉が軋みながら開く。
ひょこりと入ってきたのは、二匹のライマー犬だった。垂れ耳で垂れ尾、毛並みは滑らかに手入れされ、大型ではないが見事なまでの筋肉質だ。
続いて若い看守がひとり、空っぽの樽のように転がり込んでくる。
脚衣がない素足が、石床に打ち付けられた。
猟犬と、素足の看守。
そして最後に大男が入ってきた。
ギルス・ファウラー州長官だ。憤怒の形相で皺が歪んでいるが、その眼差しの向かう先は俺ではなく、樽みたいに転がった看守だった。
何故、囚人ではなく看守が睨まれているんだ。
呆然としていると、州長官が看守に怒鳴りつける。
「てめぇ、どういう了見で、死刑囚の女を孕ませようとしてんだ」
「州長官さま! いいえ、あの女は無罪だと訴えたのです。時がくれば誤解が解けると、時間があればと………」
若い看守は蒼褪めつつ、弁解に走る。
事情はうっすら把握できた。
たとえ死刑が命じられても、妊婦は処刑されない。
無辜の赤ん坊を巻き添えにできないからだ。
死の宣告から逃れるため、妊婦だと偽称したり、看守を誘惑する女は少なくない。俺が生まれ育った領地では、密漁しても妊婦だけは釈放される。
ペトロニラも、牢屋で孕んでいると訴える女の真偽を確かめるため、ごくたまに陰鬱な地下へ降りるはめになった。
「だったら無罪の証拠か証言でも集める努力しろや!」
州長官とは思えぬ粗野な罵声を食らわす。
「そりゃ妊婦は縛り首にならねぇが、それを狙って孕もうとするのはな、法律にしょんべん引っ掛けるもんだ。傷つけなきゃいいってしょんべん引っ掛けるのはなあ、チンピラと売女のやり口なんだよ」
闇をも震わす獅子吼に、看守は縮こまった。弁解どころか謝罪すら口に出せないほど震えあがっている。
猛禽じみた眼差しが、俺へと向けられる。
「さて、尋問させてもらうぜ。ジェイデン」
どう好意的に取っても、拷問の隠語としか思えなかった。
「そう身構えるなって。尋問だ、尋問。おれぁ拷問は嫌いでな。拷問しくさって自発的に告白を待つってぇやり口は、虫唾が走るんだよ」
気を緩めさせてから拷問するつもりだろうか。
人当たりが良いように見せかければ、心を折りやすい。
「拷問の隙間に自白させて、裁判に持ち込もうとする看守。妊娠すれば死刑にならねぇからって、看守を誘惑する女。法律にしょんべん引っ掛ける真似は嫌いでな」
憤懣やるかたないと言わんばかりの口調だった。
遵法精神と正義感は強いようだが、王から治安を預かる州長官としてはいささか品位に欠く。
「おっと、口が悪いな。おれもそう身分の高い出じゃないんでな」
気安い態度で語る。
「おれは貧乏な平騎士の四男だ。ろくすっぽラテン語もできねぇよ。フランス語さえたどたどしい。公文書は書記がなんとかしてくれている。ガキの頃に一旗揚げようと十字軍に密航して、戦功を上官に認めてもらってな」
十字軍か。
マーガレットさまの祖父も、今の国王陛下と共に戦った。
もう三十年も昔の話だ。参戦したというこの州長官は、若く見積もっても四十路の半ば。
そう思えないほど若々しい。皺はあるのだが、胴回りも動き方も、騎士になりたての男のようではないか。
「運よくこの地位を賜っている」
普通、成り上がった男は驕って不愉快な振る舞いをするが、彼はただ自信に満ちて、嫌な印象は受けなかった。
おそらく自身を認めてくれた上官に対しての敬意と、巡り合わせてくれた神への感謝があり、謙虚さも持ち合わせているからだろう。
粗野さはあるが、下劣ではない。
「州長官らしくしねぇとな。もっと高貴に言い直すか、ああ……法律にしょんべん引っ掛けんなって、もちっとマシな」
「イングランドは正義と司法を売らぬ、イングランドは正義と司法を遅延せしめぬ」
「そう、そういうこった」
俺の言葉に大きく頷き、猟犬たちを撫でる。
「このクソ看守ぶちこんでおくから、お前さんはこっちにこいや。尋問してぇが、こんな湿り切った場所じゃ犬も嫌がる」
いいのか、地下牢を出ても?
とはいえ俺は州長官に従うしかない。
看守が地下牢にぶち込まれ、俺は犬に混ざって州長官についていく。あべこべで奇妙だ。
「んで、お前さんは弓兵か。スコットランドから戻ってきたそうだが、カーライル城からロンドンへ行った口か? ぶっ通しで敵将を市中引き回ししていたらしいな。どんなんだった?」
「いや、その少し前に辞した。ダンバートンの反旗で捕虜から解放され………」
記憶を手繰れば、また失われた指が痛む。
顔を大きく顰めてしまった。
「その腕っぷしならまだ兵士として役立ちそうだが、戦場が怖くなったか?」
「少し違うな。死ねずに、絶望した」
「死にたかったのか」
「ずっと」
マーガレットさまと引き離されて、家族の汚点となり下がった俺に、生きる望みなど無かった。
いっそ俺の存在を消してしまいたかった。
俺は死ぬためにスコットランドへ行ったのだ。
……ああ、何をそこまで喋っているんだ。うっかり口が軽くなっている。
「砒素って持ってっか?」
やけに唐突な質問だった。
砒素?
「持ってないが、それはなんだ?」
「なるほど、なるほど。そのツラからして、砒素は知らんか」
一人で何やら合点していた。
「じゃあお前さん、濡れ衣だな」




