1話 罪を諳んじる
過去の微睡から醒める。
孔雀の羽根のように長い夢だった。
シャルウッドベリの城から追い立てられて、逃げて、ただ駆けて駆けて………いつの間にかスコットランドとの戦争に巻き込まれ、傭兵となった。弓兵として戦い、捕虜となり、指を潰されて、放たれ、彷徨い、行き倒れ………
今、俺がいるのは湿った地下牢。
老商人サースタン・ウォーターズ殺害の嫌疑で、投獄されたのだ。
マーガレットさまは俺との子を孕んだため、老商人に娶せられ……俺は老商人を殺そうとしたが、先に神の身元に旅立っていた。
「……ジャスパー」
息子の名を呼ぶ。
返事はない。
こだまはしじまに溶けていく。
石の牢獄から、いつの間にかジャスパーはいなくなっていた。
指も痛みも消え失せている。
スコットランドの捕虜時代に潰された指はいつも痛むのに、今は楽だ。ジャスパーが痛みを剥がしてくれたのだろうか。
『流し目』が開かれる音がした。
看守か。
息を飲み、顔を上げる。
『流し目』から蝋燭に照らされて、懐かしい顔が覗いていた。
「ペトロニラ!」
浅黒い肌には繋がった太い眉毛、ぎょろっとした金壺眼の老婆だ。
十年前より皺が増えて、深くなった。ただ眼光の強さだけは、一切の衰えが無い。
金壺眼で俺を見下ろす。
「あんたよくもこんなところに! まったくあんたのせいで、マーガレットさまがいったいどれだけ苦労をしたと思っているんだい!」
雷鳴じみた声が、地下深くまで貫く。
ネズミの悲鳴までも聞こえてくる。
「老い先短い老人、数年も我慢すればどうせ寝たきりさ。そのうち気楽な未亡人暮らしできる。なのにマーガレットさまは……あんなおいたわしい無茶をなさって!」
「まことにあの真珠の肌を、枯れ枝の如く暖炉に投げ込んだのか」
「その通りさ! 臥所を共にしないよう……そう、あんたへの操を守るために、己であの膚を焼きなさった!」
ペトロニラから聞かされれば、事実は重く俺に圧し掛かる。
「ジェイデン。あんた、その噂を喋っていた村人ぶん殴って、とっ捕まったんだってねえ。あんたはすぐ頭に血がのぼる馬鹿だから、どうしようもないよ」
「あの方を悪しざまに言われて怒らぬわけがない」
「ちぃとばっかしの我慢や立ち回りを覚えろって言ってるんだよ、この大馬鹿が!」
ペトロニラのさらなる怒声が、地下牢いっぱいに響き渡る。
石に反響して、幽霊も耳を塞ぎたくなるほどだった。
「マーガレットさまとの密会に踏み込まれた時だって、あんたはそうだった。若君がマーガレットさまをひどい言い回しで侮辱して、あんたときたら若君を殴ろうとして。そいつはいいんだよ、あんたが殴り掛からなかったら、あたしが引っぱたきに行ってたからねえ。でもそれを止めた弓兵仲間まで、容赦なく耳や鼻から血が出るまで殴り飛ばしただろう」
「そ、そうだったか……?」
あまり記憶に無い。
「覚えてないのかい! あんたの馬鹿さ加減をご披露したって、投げ銭くるわけじゃないんだからいい加減やめとくれ。あんたが殴り飛ばして動けなくなった連中は、あたしゃしっかり覚えているよ。ええ、ええ、このペトロニラ婆ァはねぇ、恨みがましいんだ。弓兵のトマスとトロルド、ベネット、ジョージ。衛兵のトムにワット。準騎士のレナルド。騎士のユースタス。鷹匠のファルクに、厩番のアダムとニコラス。鍛冶のオズウェンと弟子のラルフ。それからなんだい、ロバートだ。あいつにも薬を煎じてやったんだ。あたしが痛み止めなり軟膏なり作ってやらなかったら、誰もかれも藁寝床から起き上がれなかったんだよ。ファルクは鼓膜が破れたし、ああ、特にラルフなんて蹴り飛ばされたせいで、鎖骨にヒビが入っちまってひどい有り様だった! 城は上へ下への大騒動になっちまって、筵編みから洗濯女にまで知れ渡る始末さ!」
己がそんな無慈悲な所業したとは思えないのだが、昔から頭に血がのぼると記憶が飛ぶ性質だ。大それたことを仕出かしてしまったのかもしれない。
だがレナルドの泣き顔は覚えていた。
涙と泥と鼻血に塗れた顔で、俺を真っすぐ見つめていた。
「あんたのせいだよ」
これ見よがしな溜息を落とす。
地下牢に静寂が戻ってきた。
まやかしの静けさだ。
「ご領主さまは温厚な手段を選ぼうとされたけど、マーガレットさまはあんた以外を夫とするのは姦淫だと言い張った。なよやかにみえて強情なお方だからねぇ」
ジャスパーから聞いた通りだ。
淑やかでありながら、マーガレットさまは戦いを知っている。
己というただひとつの領地を守らんと、口論は厭わないだろう。
「修道院に入るだの純潔の請願を立てるだの、そうこうしているうちにご領主さまは、心労で床について…………」
ペトロニラは絞り出すように呻く。
「エドマンドの若君が威張りだすようになっちまった。最初のうちは空威張りと贅沢だけだったさ。出来の良くない息子が、父親が倒れて好き勝手なんて、よくある話さ。だけどねえ、年寄りの城代官が冬に亡くなって、ゴドフリーのじじいも続いて亡くなった」
城代官と、老騎士ゴドフリー殿。どちらもご領主の信認篤い方々だ。
それが一度に城からおられなくなっただと。
「そこに目をつけられちまったのさ。性悪のごろつき騎士どもが、居候になっちまってからは最悪だよ。本当に最悪だったさ! エドマンドの若君は友人できたと浮かれてるけど、あんなの城の財産に寄生した蚤だよ! 思うがままに飲み散らかして、洗濯女に手を出して! 遠方から葡萄酒だの香辛料だの取り寄せるし、旅芸人はどれだけでも抱え込む。とんでもない散財だよ」
金壺眼を地獄のように燃やして語る。
「商人に借金して橋と市の課税権10年分を譲渡、エドガーさまにお譲りになるはずの土地の売却、マーガレットさまが相続するはずだった宝飾も売り払って、賦役も週三日になった。それでも足りずに重税で工面しようとする。ひどいもんだよ、婚約している間柄でさえ姦淫税を毟り取ってさ。若造なんて付き合ってる女の腹が膨らむか、さもなきゃ相手の父親に殴られない限り、結婚に踏ん切りつかないもんじゃないか……結局、マーガレットさまはエドマンドの若君のしりぬぐいをするハメになった。老商人に嫁ぐことにね。借金は消えるし、エドマンドの若君はゆくゆく入って来るであろう莫大な寡婦産がお目当てなんだよ」
血走った金壺眼から涙が溢れる。
この女が泣くのは、俺の記憶である限り二度目だった。
「御親戚の方々は放置していたのか?」
「馬鹿。ご領主さまは寝台でご存命で、後見って言い訳もできやしない。下手に口を挟めば、領地を狙っていると他の領主から疑われて、戦争の火種だよ。エドマンドの若君はどうしようもない性分だけど、奥方から生まれた正しいご嫡子さまだよ。生前の代替わりって主張されたら、誰が口を挟めるって言うんだい?」
悔しいがペトロニラの言う通りだ。
正当な後継者に他家が口を挟めば、疑心と戦禍が生じかねない。
「それに老商人に嫁ぐ方が、まだ心安らぐような有り様だったよ。ああ、あいつらがマーガレットさまの寝台に乗って、酒宴していた時は殴りにいったよ! 殴られ返されて、なんにも出来なかったのが口惜しい!」
歯ぎしりしながら叫ぶ。
「もう心休まる時は無かったさ。マーガレットさまはとっとと叔母上の城へお逃げになればよかったのに、裁判は滞らせちゃならんと采配を振るわれた。ごろつき騎士どもから守るために、夜はマーガレットさまをあたしの藁寝床に隠して、あたしと侍女のリチェンダが代わりばんこで寝ずの番をしたものさ」
なんたる境遇だ。
そこまで追い詰められていようとは。
故郷を落とされて亡命した貴婦人のようではないか。
戦で負けたのであれば高貴な者の運命かもしれない。だが血を分けた兄からそのような仕打ちをされるなど、あまりにも残酷ではないか。
「エドガーさまは……」
「ウェールズとのいざこざで、捕虜の身だよ」
捕虜。
その単語に総毛立つが、俺のようないくらでもいる弓兵と違って、エドガーさまは高貴なお血筋。
敵の司令官に囚われたら、丁重に扱われて身代金を待つ身だ。
「……身代金は」
「エドマンドの若君が払うと思うかい? デレク卿とパウルズ伯が工面してくれているけど、あっちも吹っ掛けてきたからね。ご領主さまさえご無事なら、すぐ支払えただろうけど」
「ジョンはエドガーさまと一緒か?」
「馬鹿だね!」
平手打ちより痛い叫びだった。
「あんたが馬鹿やったせいで、ジョンの肩身がどれだけ狭くなったか! デレク卿が気を回して下さって、噂が届かないシャンパーニュで修行しているよ。デレク卿の奥方のご実家があるそうでね。去年、手紙は届いたから恙なくやってるみたいだよ」
エドガーさまはウェールズで捕虜となられ、ジョンはシャンパーニュという遠方だと………
ジャスパーにとって、ほんとうに俺だけが頼りだったのか。生きているのかも分からぬ、顔も知らぬ父親を捜すことだけが、あの幼い子の希望だったのだ。
今更、骨身が軋むほど痛感する。
エドマンドさまは俺を憎んでいた。おそらく息子であるジャスパーとて、憎悪の範囲だったのだろう。
ジョンだって憎んでいた
そして母を憎んでいた。
「母さんは、無事か」
「お黙り! 余計なことに気を回すんじゃあ無い! メアリは手足に傷もついちゃいないし、目玉も見えるし耳も聞こえる!」
ぞっとするほどの叫びだった。
五歳の頃の、川辺の忌まわしい記憶が、吐き気と共に蘇ってくる。口許を押さえても、からっぽの胃から酸味がこみ上げてくる。
何も言えないでいると、ペトロニラは呻いた。かぶりを振って、肩を震わす。
「メアリは、無事さ。でもご領主さまがメアリを連れて城を出るように命じられて、今はマーガレットさまの傍についている。心配するんじゃない」
地下牢にしばらく沈黙が横たわった。
俺は吐き気が収まるまで。
ペトロニラは震えが止まるまで。
ふたりして黙り込んでしまった。
「ああ、いっそご領主さまがお亡くなりなっていれば、まだ後見として国王陛下が口を突っ込めただろうさ」
まったく不謹慎だが、一理ある。
もし領土の跡取りが未成年ならば、国王陛下自ら後見に立つ。
「マーガレットさまのおいたわしい境遇も、爛れた火傷も、あんたのせいだよ」
首絞め縄のように重い叫びだった。
このまま俺の首が絞められてマーガレットさまがお幸せになれるならそれでもいいが、俺の首ひとつ吊るされたところでどうしようもない事態だった。
「マーガレットさまは治るのか」
「そのために薬の材料を探しに来てんだよ。ペトロニラ婆ァの煎じの指を疑うのかい?」
「いや、信じている」
ペトロニラを真っすぐ見上げた。
この老婆がいる場所だけ、流行り病も避けていた。それを見込んでご領主さまが城へと召し、彼女は期待に応えた。
皺だらけの顔面が鼻白んで、金壺眼が逸らされる。
「………で、犯人はあんたじゃないだろうね」
「神に誓って老商人を傷つけていない」
「そうかい、そうかい」
気の抜けた返事だ。
信じているのか、いないのか、どうにも分かりにくい返事だった。
「じゃあ後は州代官さまと話とくれや」




