32話 楽園追放
なぜ、赤毛のアミーリアが城内にいる?
実家に追い返されたはずだ。ご領主さまにあれだけの無礼をして、誰が城に入れるというのだ。
戸惑っているうちに、アミーリアはチュニックを大きく翻して、厩へ続く門と踵を返す。
「エドマンドさま! エドマンドさま!」
甲高い声を響かせた。
まさかエドマンドさまがアミーリアを連れて帰ったのか?
馬車からエドマンドさまが下り立つ。纏っている袖なし外套の汚れもそのままで、到着したばかりだった。
「エドマンドさま、どうかおふたりを許してあげて。ジェイデンは城内の誰よりきれいで逞しいもの。マーガレットさまが恋しても許して差し上げるべきよ」
赤毛の猫なで声は相も変らぬ。
その猫なで声を聞いているのか、聞こえていないのか、エドマンドさまは俺を凝視していた。射殺せるほどに。
「不埒者が……! 僭上の振舞いも極まったものだな」
青い眼差しの憎悪は、今まで以上の陰鬱さだった。
縁談のまとまりかけている妹姫に手を出したのだ。たったひとりの妹。飢えるまで晒し物にされても、八つ裂きにされようとも、俺に不服はない。
「さっさと投獄しておけば……! 誰ぞ!」
エドマンドさまの命令に動いたのは、鍛冶屋のオズヴェンだった。火傷痕をいくつも持った熊のような大男だ。ケモノみたいな剛毛の髭を掻き、気が進まなそうに足を進めてくる。一番弟子のラルフや、厩番のアダムとニコラスも。
マーガレットさまがエドマンドさまへ駆け寄る。
「兄上、ジェイデンを牢につなぐとおっしゃるなら、わたくしも参ります」
「黙れっ、淫売が!」
細い腕一振りで、マーガレットさまを突き飛ばす。
白い姿が倒れ、泥に塗れた。
「きゃっ……」
「マーガレットさまっ」
駆けた俺の前に、鍛冶屋のオズヴェンが立ちふさがる。火の粉と鉄を扱う巨体は、ほとんど石壁のようだった。
「ジェイデン、抑えんかい。われの所業のせいじゃろがい」
恫喝めいた口調で、俺の服を握る。厩番のふたりも俺を抑え込んだ。
その間にもエドマンドさまは激昂していた。マーガレットさまの豊かな金髪を、刈り取る麦の如く掴む。
「恥知らずな! お前の纏う絹や宝石は、己自身の虚飾のためか!」
怒りながらマーガレットさまのチュニックまで手をかけた。
「いやっ……兄上っ!」
「返せ! 我が家に返せ! 農奴の慰めになる汚らわしい女に、絹など不釣り合いだ! 何も纏わず城門で物乞いをするがいい!」
眼窩に血が煮え、熱くなる。
俺を抑えていた厩番ふたりを振り払う。
大きく拳を振りかぶった勢いで、前へと踏み出す。オズヴェンの脇腹へ鉄拳をめり込ませた。以前、モブフットで折ったあばら、その位置に拳を叩き込んだ。めり込ませ、捩じる。古傷をこじ開けるように。
「ふぐっ……」
巨体は揺らめく。
そのまま顎を殴り抜けた。
背後から掴もうとしてきた厩番たちを避ける。
厩番のアダムは何年もの前のモブフットで、前歯を無くしている。顎に響くように掌底を叩きこむ。
振り向きざま、厩番のニコラスの足を狙って踏み込む。厩仕事で捻った足首はまだ完治していない。俺が手当てした箇所だ。どれほど踏み込めば壊れるか分かる。
小柄なラルフは蹴りの一撃で、壁まで吹き飛び、叩きつけられた。
弓兵や衛兵が集まってくる。
邪魔なものは潰さないと。
何度も何度も拳を振るっているのに、マーガレットさまのもとへたどり着けない。悪夢だ。
ああ、いっそすべて悪夢であれば。
マーガレットさまの名誉も純潔も、昨日のままであったなら。
「何をぐずぐすしている、あの農奴を袋叩きにしろ! ゴドフリーはどこだ! 旗騎士でありながらこんな騒ぎに出てこぬとは怠慢な! あとで罰してやる!」
癇癪の甲高さで、居丈高に命じている。
あれを黙らせなければ。
「落ち着け、ジェイデン!」
俺の前に立ちふさがったのは、レナルドだった。
抜き身の剣を俺に向けている。微かな震えを伴う切っ先だった。
「リチェンダさんが来た。マーガレットさまをお守りしている! もう無体はない、だから、頼む!」
それがどうしたというのだ。
マーガレットさまを辱めた男がそこにいるのだ。
「なあ、頼むからっ、引いてくれっ! あれでも……主家の跡取りだぞ!」
許しがたい事実だ。
振るわれた剣を搔い潜り、がら空きになった胴体へ肘鉄を食らわす。
ふらついた瞬間、足払いをかけた。
まっすぐ悪漢のもとに行く。
貴族の皮を被って、マーガレットさまを辱めた男。その男の横っ面を殴り飛ばした。渾身の力を込めて。
口から血を吐きながら倒れる。
倒れる直前に金髪の頭を鷲掴み、地べたに額を叩きつけた。噴き出す鮮血と悲鳴。
「やめろ、頼む、ジェイデン!」
レナルドが羽交い絞めにしてきた。俺は地面を軽く蹴り、全体重でレナルドの足へ踏み込んだ。バランスが崩れた瞬間、身体を捩じってほどく。振り向きざま、鼻っ柱に拳をめり込ませた。
衛兵たちが俺を阻もうとしていたが、腕の一振りすれば黙ってくれる。
だが一番黙らせねばならぬのは、足元で呻く男だ。
冒涜も暴行も、二度と許さない。
二度と。
太陽が訪れた世界は、静寂していた。
誰もが押し黙り、呻きや衣擦れひとつもない。大聖堂めいた静寂だった。
足元にレナルドが縋りついている。瞼を腫らして、鼻血を流していた。顔は傷だらけで泥だらけだった。
ああ、手当をしなければ。湯冷ましで洗って、それから軟膏を………
「お前を止められなくて、ごめんな」
真っすぐ俺を見据えてくる。
茶色い瞳が潤み、涙が溢れる。泥や鼻血と混ざって、怪我を濡らしていった。
「ジェイデン!」
沈黙を打ち破り、マーガレットさまが駆け寄ってくる。鞍と手綱をつけた葦毛を引いて。
美しい葦毛は、マーガレットさまの愛馬だ。女鞍ではなく騎士の鞍を掛けられている。
「ここまで仕出かしてしまえば、そなたは厳しく罰されます。メアリとジョンは任せて、今はお逃げなさい。わたくしが父上に取りなします」
「罰を受けます」
「そなたに罰を受けさせるなど、わたくしが許さない!」
「あなたさまをお独りにするなど、そんなこと………」
言いかけた俺を、レナルドとリチェンダが強引に鞍に押し上げてきた。手綱を握らせてくる。
レナルドが葦毛の尻を叩く。
嘶き、駆ける馬。
「……お行きなさい、早く、早く、遠く、遠くへ」
マーガレットさまの祈りを受けたように、葦毛は駆けていった。門を飛び越えて、坂を下っていく。
暁が追いつけないほどの速さで。
たしかに俺は暁が届くことを拒んでいたが、ただひとりで逃れたいわけではなかった。
俺が暮らした城は、遠く遠く、遥か遠くへと遠ざかっていった。




