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真珠のコルヌコピア  作者: 猫目石琥珀
飼い犬の回想譚
36/43

31話 半聖域に至る道


 真夜中の果樹園。

 俺はりんごの根本のしとねで、マーガレットさまを抱きしめていた。

 マーガレットさまは齧られたりんごの如く白い膚を晒しておられる。乱れたチュニックの上から、俺のチュニックを掛けているが、風よけには心もとない。

 マーガレットさまは養魚地からの風のせいでお寒いのだろう。俺に寄り添って、体温をひとつにしている。

 ………なんという不忠と不孝だろう。

 美しいりんごを眺めるだけなら、嗅ぐだけならば、誰が罪に問えようか。だが、りんごに歯を立て齧り、味わってしまえば、もはや楽園にいる資格を失うのだ。

 それでもマーガレットさまが腕の中にいるのは、代え難い甘やかさだった。

 小さな玉響(おと)が鳴る。

 マーガレットさまの帯飾りだ。

「そなたがまことに悪しき竜であれば、わたくしをさらってくれたでしょうか」

 幼いころのままごと遊び。

 俺は悪いドラゴンで、マーガレットさまは聖なる乙女だった。そんな戯れをした罪のない日々が懐かしく、遠い。

 遠ざかってしまった思い出は、もう夢のようだ。

「ジェイデン。いっそこのままふたりで遠くへ行きましょうか……」

 マーガレットさまは夢の続きを囀る小鳥だった。

 その美しい旋律に、身を委ねてしまいたくなる。

「遠く……ロンドン?」

「もっと遠くへ。わたくしが母から受け継いだ宝飾が、いくばかりかあります。当座は宝飾を売って凌ぎ、ロンドンから船で大陸まで参りましょう。パリでしたら大都市です。溢れんばかりの人の中、誰がわたくしたちを見つけましょう? いっそフランドルのヘントにでも…」

 異国の地名が語られる。

 フランドルからは織物やタペストリーが運ばれてくるが、想像もつかない。ロンドンでさえ遥か果てなのに。

「そなたは薬師としても見事ですし、わたくしは写本ができます。大都市は書記工房があるものです。サン・セヴラン聖堂通りでも、写本職人や書籍商が犇めいていましたもの。どこぞで糧を得られましょう。まだ若いため信用は得られぬかもしれませんが、それでもふたりで支え合って、働き、子を成して、育てて……」

 夢の続きへと翔ける羽ばたきのなんと麗しきよ。

 もしも俺が天涯孤独だったなら、マーガレットさまのお望みを叶えた。

 我が身ひとつであれば、なんなりと従おう。

 この恋を天秤にかければ、我が身より重いのだから。

 だが俺がマーガレットさまを盗めば、母さんやジョンはどうなるのだ。俺という汚点のせいで、ご領主さまからの庇護も、輝かしい未来も、すべてを失ってしまう。

 俺の顔色を読んだのか、マーガレットさまは項垂れた。

「……承知しております。そなたにはかけがえのない母と弟がおりますもの。独りではないのですから」

「世俗の崇拝は、あなたさまに捧げております」

「承知の上です。そなたの想いも、その想いを肉親と天秤にかけてならぬということも」

 マーガレットさまは夢の続きを囀るのをやめ、俺の首筋にキスをしてくれた。頬にも、そして唇にも。

 チュニックがするりと落ち、膨らみかけた乳房が露になった。

「わたくしの乳房も腹も、そなた以外の殿方で膨らませはしません。わたくしは半聖域(ベギナージュ)に参ります」

半聖域(ベギナージュ)……?」

「パリやフランドルにあるのです。既婚や修道女以外でありながら、尊敬を失わぬ婦人の生き方が」

 女の身で、結婚と誓願以外の道で尊敬を失わぬ?

 欠けた満月めいて、奇妙で……そして魅惑的な矛盾を宿していた。

「ベギン会。女子修道院と似てはいますが非なるものです」

「聞いたことのない宗派です」

「宗派ではないのですよ。修道院的な生活ですが、修道院ではないため自分の財産を持ちえ、結婚して脱会も可能です。そこでは寡婦や乙女だけで支え合って暮らすのですよ。夫や父の庇護に囚われず、己の才覚のみで商売や執筆、施療や教育を営むのです」

 夢物語めいていた。

 疑うわけではないが信じがたい。

「そんな世界が存在するのですか」

「ええ。叔母さまの侍女や、従姉妹の乳母もフランドル伯爵夫人が建てたベギン会の出身です。もともとは十字軍の未亡人や娘の相互扶助だったのですよ。ブルージュのベギン会での暮らしを伺いました」

 頬を上気させながら語る。

「誰にも申せませんでしたが、幼いころからずっと半聖域(ベギナージュ)に憧れておりました。そこで写本や翻訳に携われるのでしたら、わたくしの人生は満ち足ります。このような仕儀に至ったのであれば、いっそ幼き夢を叶えたいのです」

 女性ばかりの領地で、静かに文字を綴るマーガレットさま。その文字は瑠璃や金箔に彩られて、末永く残るのだ。

 誰かの奥方となるより、神の修道女となるより、ずっと俺の心に馴染んだ。この世にマーガレットさまに釣り合う騎士などいないのだから、半聖域で豊かに清らかに過ごされたらよいのだ。

 だが。

「ご領主さまは………きっとお認めにならない」

 せめてエドマンドさまが馬上で剣を振れればよいのだが、まったくの望み薄だった。

 エドガーさまは有望であるが、頼りにするには幼すぎる。

 マーガレットさまが素晴らしい騎士に嫁ぐことが、領主さまから領民に至るまでの願いなのだ。

「半聖域で領地の運営と世界の経済を学び、エドガーの後見としてつくのもこの領地を栄えさせる方法のひとつです。婚姻によるつながりは分かりやすく、強いものですが、それだけではありません。わたくしは婚姻以外の方法で、この地に殉じます」

 言わんとすることは伝わる。

 マーガレットさまの知性と気力であれば、半聖域での学びを領地へと糧にできる。

「納得して頂けるでしょうか……」

「説得致します。わたくしは欺瞞に生きたくはありません。そなたと離れ離れになろうとも、この一夜の契りをまことにしたいのです」

 凛とした眼差しに、俺は屈した。

 今夜の喜びは、神や主君を欺く行為だった。

 だがマーガレットさまが半聖の身になれば、これ以上の罪を重ねずに済む。

「あなたさまが半聖の道を望むなら、俺は俺の出来る限りを致します」

 楽園に住まう資格を失っても、半聖域に送り届けよう。

 俺に何が出来るか分からない。

 それでも、俺はマーガレットさまの望みを叶えるのだ。

「ジェイデン、そなただけがわたくしの夫です。たとえこの夜限りでも」

 体温を分かち合うように肌を寄せ合う。

 どれほど吐息と肌を重ねて交えても、己の輪郭は己のまま。ひとつに融けることはない。それが物悲しい。

 物悲しくとも、俺はマーガレットさまを求めずにいられなかった。

 いつの間にか空に瞬いていた星たちは吹き消されて、夜の漆黒は紺へと移り変わっていった。

 ああ、もうすぐ朝が訪れるのだ。雄鶏が鳴き、雲がたなびく朝が。

 なんと恨めしい暁か!

 どれほど朝日が恨めしかろうとも、矢も刃も通じず、逃げられもせぬ。ただ頭を下げるだけ。

「……マーガレットさま。みなが目を覚ます前に、居間(ソーラー)へ帰りましょう」

「はい」

 帰らねばならない。

 そう繰り返し嘯きながらも、俺とマーガレットさまは離れられなかった。

 重なった衣ひとつ離すのさえ、身を切られるに等しい。


 不意に、外壁が震えた。


 人々の眠りを覚ます地響きに、俺の四肢は強張る。

 鋼の振動だ。

 城の正門が開く音だと?

「夜明け前だというのに……なぜ。誰が許した?」

 こんな許可を出せるのは、老騎士ゴドフリー殿か城代官くらいだ。国王の勅使が来たとしてもおかしい。

 厩が俄然、騒がしくなった。火事でも起こったかという騒ぎだった。

 石造りの彼方から、厩番たちの怒声が響いてくる。何を喋っているか掴めないが、慌ただしい事態らしい。

 いったい何が起きている?

 マーガレットさまを抱きしめたまま、果樹園の外壁へと近づく。

 厩番の喚き声が聞こえてきた。

「いいから、起きろ、起きろ。若君がお戻りになられた! エドマンドさまだ」

「んなバカな! 先ぶれも無しに?」

 その名に身体が冷えてくる。

 エドマンドさまはオックスフォードで、大学の入学準備をしているはずだ。

「戻りましょう、マーガレットさま」

 だが不意の帰還は、城内の眠りを剥いでいく。兵士や奉公人たちがあちらこちらから飛び起き、逆に雄鶏を起こす始末だった。

 天守塔(キープ)へ戻るための通路も、誰かが行き交っていた。

 薬師のペトロニラであれば天守塔(キープ)までマーガレットさまをお連れしても、誰も咎め立てないだろう。問われても言い訳できる。肺のために外の空気を吸わせるなり、なんなりと。

 いっそペトロニラを待ち、何もかも正直に告白し、マーガレットさまをお連れ願うか。

 だが治療が手こずっているのか、あるいはゴドフリー殿に付き従っているのか、戻ってくる気配はなかった。

 暁の指先は、東の城壁を愛撫していた。

 迷う暇はもうなかった。俺自身が居間(ソーラー)までお連れするしかない。

 だが振り払われてしまった。

「ジェイデン。そなたが見咎められる方が問題です。わたくしが独りで帰ります」

「しかし……!」

「愛する者に危険な橋を渡らせたくないと願うのは、わたくしも同じです」

「危険がなんだとおっしゃいますか。わが身はあなたさまに捧ぐためにあるのに!」  

「わたくしはここに参ったのは、わたくし自身の軽はずみ。そなたに責を負ってもらおうと思いません。マーガレット・オヴ・シャルウッドベリは己の行動の責を、己の矜持で引き受けます」

 立ち上がろうとしたマーガレットさまがふらつく。

 下肢に力が入らないのだ。

 歩くのもままならないご様子だった。

「やはり俺がお連れ致します」

 言い合ううちに、人の気配が近づいてきた。

 誰だ?

 厩番がこちらに来たのか?

 

「まあ、なんて切ない恋物語」


 赤毛のアミーリアが、差し込む黎明を辿って訪れる。

 忌まわしき暁そのものだった。




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