30話 運命は犬の鎖を喰い千切る
城の天守塔には近づかぬように努めた。
マーガレットさまに会わなければよいのだ。
俺の内側にある嫉妬の渇きや、恋慕の潤いで、マーガレットさまを傷つけなければいい。そのうち遠くの領地へと嫁ぐ。
冬籠りながら死を待つ獣のように、マーガレットさまが巣立たれる悲しみを待った。
「ペトロニラ。エール粕をもらってきたよ。いちばんいいやつ」
そう言って、調薬小屋の扉を閉める。
ぱたんと扉が閉まってしまえば、薬草の匂いが満ちる。ペトロニラが大量の薬草を刻んでいるから、肺腑までが清々しい香気で飽和した。
呼吸が安らいでいく。
「ありがとさん。遅かったけど、麦醸女に絡まれたのかい?」
「……見てたの?」
ペトロニラが釜の火元から離れるはずがない。見られているわけないのに、馬鹿なことを聞いてしまう。
また馬鹿にされると思ったけど、返っていたのは嘆息だった。
「想像つくさ。ま、あんたがすれっからしの女に引っかかるとは思わないけど、縋られんようにね」
「レナルドにも似たようなこと言われたな。ちょいちょい見張ってくれる」
「いい友達じゃないか」
「………レナルドは騎士の家柄だよ」
貧しい小荘園って言ってるけど、それでもやっぱり格式がある家の跡取りだ。
「馬鹿だね。とっくに友達やってんのに、んな冷たいこと言うんじゃないよ。あんただって自由民になるんだから、レナルドと友達になったって悪い事ないだろ」
珍しく優しい口ぶりだった。
「……自由民か」
不思議な感覚だ。
結婚も引っ越しも、己の意思のままになるなんて。
「自由民になったからって、今までと生活が変わるわけじゃないけど」
途端に金壺眼が鋭くなる。
「なんて恩知らずな。ご領主さまはメアリとあんたのために、書記と司祭できちんとした書類をしたためさせてるってのにさ」
「そ、それは聞いてる」
「やっぱり口約束だけじゃ、まぜっかえされちまうからね。きちんとしとくに越したことはないよ。不吉な話をしちまうけど、ご領主さまが何かあっても反故されないように」
ペトロニラはその名を言わなかったが、俺は憎悪色の瞳を思い出してしまった。
もしご領主さまの身に何かあれば、跡を継ぐのはエドマンドさま。その時に正しき書類がなくば、俺や母さんがどうなるのか。想像より恐ろしいことになりかねない。
「城代官に夏咳が居座ってるせいで滞ってるけど、書類が処分されちまわないよう、修道院長にも手紙を出させるらしいよ。書類のやり取りの手紙が向こうに残っていれば、裁判に持ち込まれようが勝てるからね」
「そこまで手をかけて頂いて、ありがたいと思っているよ」
「そもそもご領主さまがあの若君を甘やかし過ぎたせいだけどね」
ペトロニラは俺に対しても厳しいけど、ご領主さまにも容赦ない。全方向に辛辣だ。
「ひ弱だろうがとっとと親戚に預ければ、あんな甘ったれに育たなかったんだよ。親は子が生きてくれてさえいりゃ満足さ。けどねえ、世間や他人は親じゃないんだよ。世間に出そうと思うなら、尻を叩き上げて育てなきゃいけなかったろうに」
ご領主さまの方針に異を唱えるつもりはないが、ペトロニラの意見にも納得してしまったので、俺から返す言葉はなかった。
ペトロニラと向かい合って、蜂蜜を濾していく。薬草蜜酒の仕込みだ。
城代官の病んだ喉も、薬草蜜酒で癒えるだろう。
トネリコ薪がシューシュー鳴って、とろ火に掛けられた鍋がぐつぐつ鳴っている。
秋の鍋や火はお喋りだった。人ならぬものたちのお喋りに耳を傾けながら、蜂蜜から浮くアクを取っていく。たまに時間を測るために、俺は小声で聖歌を口ずさむ。
いつの間にか手元に、夕暮れの朱が差し込んでいた。その朱を握り込む。
「ペトロニラ、今日もここで休んでいいかな。今日は夜番じゃないから……」
「またかい? 構やしないけど、小部屋の方が居心地いいだろうに」
「そもそもあそこはジョンに与えられた部屋で、俺の部屋じゃない」
………何より、あそこはマーガレットさまのお部屋に近すぎる。
金壺眼は鋭く細められた。
「ふん。そういう遠慮されても誰も嬉しくないだろうにね。ま、ここで寝起きしたいなら好きにしな」
蜂蜜のアクは取り切った。
鍋を火から下ろすと、扉が蹴られる音がした。
誰か急病か、怪我か。
「婆さま、薬師の婆さま。とある方が痔の痛みがひどいと仰せです。いつもよりひどい痛みで、腰まで痛むと」
ハーワードの声だった。
「ゴドフリーのじじぃだろ、ひどい痔は。なにが『とある方』だよ。じじいのくせに恥じらってんのかい」
ご身分高い老騎士さまを一蹴する。
「恥じらうというより、騎士として馬に乗れぬのを知られたくないのでは」
「ふん。治療の前じゃ、いらん矜持だね」
ペトロニラは嫌そうに顔を顰め、ぶつくさ言いながらも、軟膏壺や水薬、煮沸した布を抱えていく。
「俺も手伝うよ」
「大した治療じゃない。あんたは蜂蜜に薬草を入れて、搾りたての牛乳の温度まで冷めたら、湯冷ましとエール粕を入れておいてくれ。あとは火の始末をして先に休みな」
早口で言い残し、ハーワードに荷物を持たせて行ってしまった。
ペトロニラの指示通り、刻んでいた薬草を蜂蜜に投じた。冷めてきた蜂蜜に湯冷ましと、エール粕を入れる。
火掻き棒で炎を突き、火消し壺に入れる。薪の量は問題ない。
歯磨きをして寝るか。その前に、水も取り替えておこう。
壺を抱えて、調薬小屋から出る。
歯磨きを終え、ついでに顔も洗う。涼しすぎる風が頬を撫でた。
そろそろりんごが実っている。どれほど熟しただろうか。
ペトロニラは果樹園のりんごをもぐ権利はあるし、弓兵長のロジャーはたまにくすねてきてくれた。だから夏が終われば、りんごをよく間食したものだ。
なんとなく果樹園へと足を向ける。
そこに、いるはずのない方が立っていた。
「マーガレットさま!」
「来てしまいました」
馨しい微笑みを浮かべ、俺のもとへと駆けよられた。
「ど、どうやって!」
「エドガーから聞いたとおりに。大広間の廊下から炊事塔を下り、導水路の橋を渡って」
「リチェンダは? まさかお独りで? 不埒な者に見つかったらいかがなさいますか!」
背筋は凍り、心臓が灼ける。
大広間や炊事塔の隅では、部屋を持たぬ下位の奉公人が寝起きしている。そんなところを独りで歩いてきた?
しかも門ひとつ向こうは、厩や鍛冶場だ。
若さや力を持て余した男たちがうろついているのに、こんな可憐な乙女が独りで歩いているなんて。
「早く天守塔へ戻りましょう」
「戻りません」
マーガレットさまは俺に背を向け、足早に果樹園へと向かう。
いくつもの影が折り重なるりんごの果樹園は、夜と夕焼けがまだらに折り重なっていた。
妖しく蕩け合う光と翳。
「ジェイデン。そなたはどうしてわたくしを避けるのです?」
「避けてなど……」
「避けております! わたくし、何かそなたの気に障ることを申しましたか? 何も言わずにどうして会ってくれぬのです?」
マーガレットさまが俺に抱き着く。
「だめです、だめだ……」
「……まさか、どこぞの女と言い交わしているのですか……?」
マーガレットさまは顔を白褪せさせ、瞳の青さを淀ませ、俺に詰め寄ってきた。
爪立てるように俺の腕を掴む。信じられない強さで。
「侍女たちも申しております! そなたの瞳が遠くなり、誰かの名を呟くように唇を震わすと。ペトロニラにも癒せぬ病を患っているからだと!」
「………恋など、そんな」
「正直に申しなさい、ジェイデン! ええ、正直に申すのです。そなたの手枕で睦言を交わす女が、この城にいるのでしょう」
「そうであればよかったのに!」
他の誰か、そう、いっそ誰でもいい。罪にならない相手に恋をすればよかった。
城にはいくらでも女性がいる。
なのに、どうして、よりにもよってマーガレットさまなのだ。
「あなたさまだけなのです、マーガレットさま! ……あなたさまを想うと胸が渇きながら潤う。水を求めながら溺れるがごとく、あなたさまに縋りつきたくなるのです」
ついに醜悪な感情を吐き出す。
「ジェイデン………そのような戯言で誤魔化そうと……」
「あなたさまに嘘偽りなど申せましょうか! あなたさま以外の婦人なら、俺は苦しみなどしなかったのに!」
俺はマーガレットさまの兄役ではいられなかった。おぞましい男に成り下がってしまった。
マーガレットさまの靴に隠された足の感触を忘れられないのだ。こんな卑しい衝動、母の衣を剥ぎ取ろうとしたごろつきと変わらぬではないか。
マーガレットさまはどのようなお顔だろうか。
嫌悪に歪んでいるのか、落胆に項垂れているのか。あるいは軽蔑に冷やかな眼差しをしていらっしゃるのかもしれない。
何にせよ、微睡みめいた幸せは終わるのだ。
「……ジェイデン。わたくしもなのです」
「え……?」
顔を上げる。
マーガレットさまは微笑んでいた。信じがたいことに、サファイアの瞳を星めいて潤ませ、真珠の頬には薔薇を宿し、蜜を唇に含んだように、あえかな微笑みを浮かべていた。
白く小さな手が、俺の背に回された。
「わたくしの渇きと潤いを、そなたの潤いと渇きで癒してほしいのです」
この聡明なお方が、己が紡ぐ言葉を理解していないはずがない。
マーガレットさまも俺と同じことを求めていらっしゃる。
「おやめください。許されない罪です。ご領主さまに……何より、あなたさまの未来のご夫君に顔向けできようはずがない」
「縁談は断ります。そなたに愛されていなくば父に従うべきですが、わたくしはそなたに愛されているのです」
思いもよらぬことをおっしゃられた。
貴族の縁組は、財産と同盟を守るため。己ひとりの気持ちで語るものではない。
「そのような恣意が通るとは思いません」
「いいえ、通します。ジェイデン、そなたに愛された夜の記憶があれば、それだけでよいのです。それを胸に生きてまいります。だからどうか……」
豊かな金髪が、甘い香りが、俺に絡みつく。俺の魂に。
ああ、どうして俺はこの柔らかく華奢なお体を組み敷いているのか。薄い肌着越しに、円やかな輪郭を撫で、唇を寄せているのか。
マーガレットさまはご領主さまの財産のうち、最も価値の高く、そして愛しいもののひとつではないか。
俺はそれを盗むのか。
あれほど俺に目をかけてくれたご領主さまを、裏切るというのか。
俺を慕ってくれるエドガーさまや、ジョン。なにより女手一つで育ててくれた母さんを、裏切るのか。
「……よいのですよ、よいのです、ジェイデン。これがわたくしの望み、わたくしが乞うたもの」
うっとりと歌うかのような囁きだった。
恩義や敬意、友情や家族、俺を取り巻くすべての優しく愛しいもの。
それが壊れる音がした。




