29話 秋に熟す恋の果実
「お前が熱を出すなんて、よほどの乱闘でもしたのかと思ったけど………」
母さんは不思議そうに俺の身体を按摩する。
俺はどこも怪我をしていないし、腹を下したわけでもない。
ただ熱に朦朧としていた。
昨日から小部屋で寝付いている。
眠りにつくのも起き上がるのも、これほど腹に力を込めねば成せぬ行いだったのだろうか。
「ジェイデン。汗だけ落としましょうか」
藁布団から身を起こせば、湯を含んだ海綿で肌を清め、肌着を着替えさせてくれた。ジョンがいなくなった分まで甘やかされているみたいだ。
気恥ずかしいけど、やっぱりありがたい。
ペトロニラがどかどかと入ってくる。
熱さましの薬湯の匂いに顔を上げると、ペトロニラの金壺眼と目が合った。
悪魔でも怯える金壺眼にじろじろ見つめられる。
「ふん。おおかた恋煩いか知恵熱だろうよ。元気が有り余っている年頃の男が寝付くなら、そのふたつだろうさ」
知恵熱。
ペトロニラの診察はいつでも正しい。そうか、知恵熱だったのか。
「ジョンとエドガーさまへの手紙を綴っているんだけど、やっぱり頑張りすぎたかな」
「お前、読み書きは苦手と言っていたのに……」
「だってエドガーさまとジョンの臣下になるんだから、人並み以上に出来ないと。足手まといになりたくないんだ」
「……いい心がけだけど、熱を出すほど頑張らなくてもよいのよ」
母さんは俺を支えて、薬湯を飲ませてくれる。
口直しには、花の香りのシロップ。
甘さと香しさの癒しが、じんわりと染みていく。指先やふくらはぎがほぐれるようだった。
「ジェイデン。ご領主さまがパウエル伯のお招きに預かったの。鷹狩りの宴で、親戚や近隣の領主はもちろん、デレク卿もいらっしゃるそうよ」
「ではジョンとエドガーさまは、ご領主さまとお会いできるんだ」
「わたしも供回りのひとりとして加えさせて頂けるわ。お前も行くと思っていたけど……」
「俺は……」
あのふたりに会いたい。
俺が真心を捧ぐべき若君と弟。
だがマーガレットさまもご同行なさるだろう。あの麗しいお姿を目にすると、俺は詮無い考えばかり巡るのだ。糸の掛からない糸車のように。からからと。
「今回は長旅を控えた方がいいかしらね」
「みんなに迷惑かけたくないから、きちんと養生するよ」
「そうね……ジョンは残念がるでしょうけど、でも、また降誕祭には里帰りする予定だもの」
母さんは優しく囁いて、俺のひたいにキスをしてくれた。
夏が終わらぬうちに、ご領主さまはパウエル伯の領地へご出立した。
俺はある程度は回復できた。藁布団から起きて、また日常へと戻る。
「……静かだな」
城に暮らす騎士や書記たち、吟遊詩人や料理頭もご領主さまに付き従って旅立ったため、いつもの声や音が聞こえてこない。壁として積み上げられた石たちまで静かだ。
そしてほんのり薄暗い。窓硝子もほとんど運ばれていき、城の窓は蝋引きの羊皮紙に塞がれていた。
調薬小屋へ向かう。
中庭にレナルドがいた。馬丁たちと共に、残った馬たちを運動させている。
「レナルド? ご領主さまとご一緒しなかったのか?」
「だってリチェンダさんも残るし」
「……何故、リチェンダが残っている?」
「何故ってそりゃ……え? ジェイデン、お前、マーガレットさまが城に残られたの、知らないのか?」
マーガレットさまが城に残られた。
思ってもみない言葉に、俺は固まったまま震えた。なぜこんな震えが走るのか分からない。ただもう指も唇も震えてしまう。
「パウエル伯の宴に、行かれなかったのか?」
亡きお母上のご実家で、エドガーさまがいらっしゃる。
当然、行かれるはずだ。
「エドマンドさまに贈る写本の手伝いで、写字室に詰めていらっしゃるよ。ま、妹姫の真心が伝わるような若君であれば、お仕えし甲斐がいるんだけどな」
「……そう、か」
なんという偶然だろうか。
運命と呼ぶには自惚れが過ぎる。
ともあれマーガレットさまにお目にかかる時間が増え、俺の心は焼けながら乾き、だが涙としてこみ上げてきそうなほどに潤っていった。
果樹園はりんごの実を結びだした。
城に吹き抜ける風や落ちる影に、秋めいた気配が満ちていく。
もう聖ミカエル祭まで、指折り数えるほどだった。
「ジェイデン! 聖ミカエル祭、楽しみだな」
レナルドは生き生きとしていた。
「そうだな、生姜が食べられる」
旬の生姜の入ったケーキが振る舞われる。生姜の馨しさは素晴らしいが、やはり旬の香気は格別だった。
楽しみにしていると、レナルドは力無く首を横に振った。
「違う、違う……」
「ああ。大学が始まるな。エドマンドさまが勉学に励まれておられればよいのだが……」
「違う! 給料日だぞ、給料日! 己の財布が肥える日だ!」
思いっきり叫ばれてしまった。
三ヶ月に一度の給料日が待ち遠しいのか、レナルドはそのまま踊りだしそうな上機嫌さだ。
「定期市で何買う? 今年はイタリアの諸都市から、商人がやってくるらしいぞ。絶対、掘り出し物があるよな。好きな女に、手袋……なんて贈り物はまだ早いか。でも刺繍糸か薔薇油くらい贈らないとな」
「リチェンダとうまくいっているようで何よりだ」
「ふふん」
鼻穴広げて自慢げだ。
リチェンダとは家格が釣り合っており、主家も同じで年も近い。気が合うならば、手袋を捧げて求婚する日も近いだろう。
羨ましい。
僅かばかりの給金は溜めてあるが、マーガレットさまにふさわしい贈り物など購えやしないのだ。
マーガレットさまに……
「……」
「でも手袋を贈るために、金を貯めておきたいって気持ちもあるんだよな。刺繍がついて香料を染みこませた手袋。でもリチェンダさんだったら、刺繍を自分で好きにした方がいいだろうか? マーガレットさまの裾や袖を彩れる腕前なら、とびきりの刺繍糸と無地の手袋が最良かもしれない」
滔々と語るレナルド。
流れていく言葉を聞き流し、俺は己の心と向き合う。
俺はマーガレットさまに贈りたいのか?
恋する女性に、捧げものをするように。
罪深い。
世俗においては主家の姫君であり、神の眼差しの下では兄妹ではないか。
恋など、大罪ではないか。




