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真珠のコルヌコピア  作者: 猫目石琥珀
飼い犬の回想譚
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27話 黄昏に溺れる




 俺は誰にも行先を告げず、出かけた。

 調薬小屋から果樹園へ回り、炊事塔に赴く。炊事の塔は、料理を天守塔(キープ)の大広間へ運ぶ直通の通路がある。食事の前後は騒がしいが、時間帯によっては閑散としていた。

 大広間では筵編みたちが、床の香草や藁を集めて片づけていた。俺が通ったところで顔を上げたりしない。敷き藁に落ちた皿パンのくずや、脂身のかけらを口に運んでいる。

 階段を下り、薔薇たちの庭へ。

 薔薇園では孔雀が飼われていた。テリンガーナ王国からはるばる運ばれてきたという孔雀は、宝石細工めいた尾羽を広げ、銀の嘴を開き、キャーキャーと鳴いていた。

 孔雀は警戒心が強い。だが俺と母はたまに薔薇園の世話も手伝っているせいか、孔雀は騒ぎ立てたりしなかった。

 咲き誇る花陰と、さざめく池のほとり。

 マーガレットさまがおひとりでいらっしゃった。長く濃くなった陰に、俺は身を潜める。

 俺はもうエドガーさまの世話役ではない。高貴な方々に関わることもなくなった。マーガレットさまと話す機会もない。話す必要もないのだ。

「ジェイデン、来てくれたのですね」

 俺の存在を察されてしまった。

 しぶしぶ陰から姿を現す。

「マーガレットさま。内緒でお会いするのは、なにやら悪事を働いているようで……」

「悪事ではありません。侍女たちはわたくしに花嫁の心得ばかりを教えて、気詰まりなのですよ。そなたと無邪気に言葉交わす癒しを、わたくしから取り上げないで下さい。ささやかな息抜きではありませんか」

 そう言われてしまえば、俺は否と言えない。

 マーガレットさまは俺を兄のように慕ってくれている。

 嫁入り前の妹のおねだり。この密会はそういうものだ。そう、それ以外なんだというのだ。

「ジェイデン。見つかることを案じているのですか? リチェンダには繕い物を頼みました。針と糸に没頭していれば、そなたには気づかないでしょう」

「……レナルドが横にいるそうですよ」

 俺が出した名前に青い瞳は丸くなり、そして薔薇の唇は微笑みを描いた。

「ではますます大丈夫でしょう」

「気が合うのですか?」

「この前も盛り上がっていましたよ。夏季の塩の高騰における、冬季保存食の食費に関して」

 盛り上がる話題なのか、それは……

 大切な話題だが、恋する相手と交わす内容なのか首をひねってしまう。

 マーガレットさまはのびのびと腕を伸ばし、チュニックを帯提げ書(ガードルブック)の帯に挟ませて、たくし上げた。軽やかに踊る。帯に挟まれたチュニックが膨らみ、翻り、足首まで見えてしまう。

 小さな足が弾んでいた。

 薄革に金糸刺繍が施された靴だ。輝かしい刺繍の内側には、真っ白で、触り心地の良い、蕩けそうなつま先が入っている。

 馨しいつま先の甘美さが、俺の指先や舌に蘇る。

 とっさに口許を押さえ、視線を下げた。

 マーガレットさまが、俺の隣に座りこむ。

「鳥は木の染料を啄みて、黒き足跡残し、賢者を助けて聖なるものとなる」

 不思議な呪文めいた呟きだった。

「古いなぞなぞです」

「鳥が染料を食べる?」

 マーガレットさまは微笑みながら、俺の手を取る。

 弦で硬くなり、インクのしみのついた指先。

「インク………羽根ペン?」

 羽根ペンがインクを吸って、黒い文字を綴り、賢者の助けとなる。

「手紙を書いていたのでしょう? エドガーとジョンへの手紙を見せてください」

「お目汚しにならなければよいのですが………」

 助祭に手伝って綴ったとはいえ、やはり気恥ずかしい。

 マーガレットさまは神秘的にも、声に出さず文字を読む。沈黙を守りながら文字を読むとは、奇跡めいていた。

「きちんと格式に則っていますし、文字も綺麗です。わたくしの手紙も読みますか?」

 目の前で羊皮紙が開かれる。

 俺とは比べ物にならぬほど流麗な綴りであった。文字の払いやコンマから、花の香りさえ感じるほどだ。

「声に出さずに文字を読む練習をしましょう」

「……どうやって」

「声帯と鼓膜ではなく、眼球で文字を読むのですよ」

 マーガレットさまは教えて下さるが、どうにも難しい。

 単語のひとつひとつを声に出し、己の声を聴いて、文章として理解するものだ。目だけでは意味を掴めぬ。

「慣れれば一瞥するだけで文字が読めるようになりますから、速読が捗りますよ」

 すっとマーガレットさまが、俺に凭れかかるように触れた。金髪が肩に触れ、流れて、俺の手首に絡みつく。黄金細工の腕輪のように。

 心臓が跳ねる。

 熱くなった血潮が、俺の喉や耳を焦がしていった。

「あ、あの」

「どうしました、ジェイデン」

「エドマンドさまがオックスフォード大学に行かれると伺いました」

 俺は思ってもないことを口にしてしまった。

 マーガレットさまは微笑みながら、ゆっくりと項垂れる。雲が流れて陽射しが遮られれば、金髪の艶めきも翳った。

「ええ。近々、オックスフォードの遠縁へ預けると……」

 言葉を切り、睫毛を震わせた。

「……羨ましい」

「大学に興味がおありなのですか?」

「今、オックスフォード大学では学寮が立ち、優秀な教師と学徒が集まっているのです。何より自然学が盛んなのですよ。ギリシャやイスラム圏の書物であっても紐解かれて翻訳され、言い伝えだけでなく実験を繰り返しているそうなのです。神の寵愛と奇跡を正しく学べるのですよ。オックスフォード大学の自然学の実験がどのような手法か、興味が尽きません。ああ、わたくしも行ってみたい……!」

 そこまで言い、はっと口許を押さえた。

「姫君らしからぬ望みを口にしてしまいました。はしたない」

「学者らしいお言葉です。マーガレットさまは叡智と摂理を愛しておられる」

「ありがとう、ジェイデン。ですが血気盛んな学徒が集まっているため、治安が悪いという話も漏れ聞こえています。兄上を案じるべきでした、恥ずかしい……」

 縮こまってしまう。

「そう萎縮される必要がどこにありましょう。マーガレットさまが摂理を語るお姿を、俺は尊く愛しく思います」

「ま、まあ……」

 マーガレットさまの頬がたちまち、薔薇園の花たちに勝るほど色づいた。盛りの香り立ち上らせるような色合いだ。

 裾で口元を隠し、慎ましく項垂れた。

 大広間ではあれほど凛と威厳を醸していらっしゃったのに、薔薇園では愛らしい。

「神明裁判を否定した凛々しいお姿が、俺の傷ついた身にどれほど心強く響いたか。お伝え出来ぬ言葉の貧しさに恥じ入っております」

「ジェイデン。あれは父を前にして出過ぎた振る舞いでした。僭越です」

「でも俺は嬉しかったんです。とっさに法令が出てくるとは、類まれに聡明な方」

「そんな。たまたまです。フリードリヒ2世が下した自然科学による判決に興味を持って、第4ラテラーノ公会議の公布を調べていたのです」

「フリードリヒ2世……?」

「神聖ローマ皇帝のフリードリヒ2世で、十字軍を指揮なさった王ですよ。たいへん進歩的な思考をお持ちで、数多くの科学的な実験をなさったそうです。たとえば疑わしきものを清らかな水に沈めれば、無罪なら沈み、罪あらば浮くという神明裁判に対して、『肺腑に空気を吸い込んでいるから、浮くだけ』と断じておられます」

 いきいきと語っておられる。

「肺に空気があるから浮く……」

「豚の膀胱に空気を入れて膨らますと、水に浮くでしょう。あれが胸の内側でも起こっているのです」

 こどもの頃、水死体を見たことがあるが、たしかに胴体が水面に浮いていたな。

 手足や頭は沈んで、胴だけ。

 つまり肺のせい。

 逆にいえば息を吐いた状態で水に飛び込めば、底へと沈むのか………?

「では実験してみましょう」

「ジェイデン?」

 俺は思いっきり息を吐いて、吐いて吐いて、胸郭の奥を空っぽにして池に飛びこんでみた。

 みるみる肉体が沈む。

 マーガレットさまのおっしゃる通り、水に浮くか沈むかは、肺の空気によるものか。

 俺は池の底に立ち、顔を出す。

 思いっきり呼吸すれば、馨しい空気が肺に満ちた。喉に美酒を流し込むのと等しいほどの甘美さだ。

「たしかに息を吐くと沈みますね」

「なんて危険な真似を!」

 マーガレットさまは蒼白になって叫んだ。

 実験をお喜びになると思ったのに……?

「ああ、そなたは武勇と蛮勇をはき違えております。もし足を挫いて、沈んだらどうするのです。浅い水に溺れる者とているのですよ!」

 悲痛な声で叫んでいると、ぱたぱたと足音がやってきた。リチェンダだ。

 俺はとっさに池に沈む。同時に塔の扉が開いた。

「どうされました、マーガレットさま」

「小鳥が飛びこんできて、チュニックを濡らしただけです。リチェンダ、血相変えて駆けつけずとも平気ですよ」

「でしたら宜しゅうございました。お召し変えなさいますか?」

「いえ、すぐ乾くわ。今日はあまり誰かと喋りたくない気分なの。そっとしておいてほしいのです」

 俺の息が続くうちに、リチェンダが帰ってくれないか。

 本気で、祈った。




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