3話 誰が死を齎したのか
もう一歩、倒れた老商人に近づく。
脈を取ってみたが鼓動は感じられず、皮膚は硬く、体温もとうに失せ、呼吸も絶えていた。老人が神の身元へ昇ったのは、医学の徒でなくとも明らかだった。
一見して傷は見当たらない。エジプト綿の寝間着にも汚れは無い。
心臓の発作でも起こしたのか。
硝子越しに映る空は、黒から紺へと移り変わっていた。
朝焼けが訪れれば奉公人たちが目覚め、働きだす。
ああ、早く立ち去らねばならない。
己の成した罪以外で裁かれるわけにはいかない。
俺はバルコニーから屋根へ移り、地面へと着地した。
暁から背を向けて逃げるように、街道を進む。
夜露の湿り気が空気を落ち着かせてくれたおかげで、干からびた喉でも呼吸するのが楽になってきた。
太陽が昇り切って、南天に座し、そして下りゆく頃、やっと街道沿いの村に辿り着いた。
俺の視線を引きつけたのは、灌木の枝を飾った居酒屋だ。旅人を歓迎する木陰のように、あるいは財布に根付いて毟り取るように、灌木の葉はそよいでいた。
膝が動かせなくなる前に、俺は居酒屋に踏み入る。
土間を踏み固めた空間に、変えられたばかりの藁が敷き詰められていた。刈りたての香草も混ざっている。中央の囲炉裏の傍らには、熾火蓋がひとつ。上出来とは言い難いテーブルと、椅子がいくつか点在していた。
寝床とカーテンは無いから、売春宿に間違って入ったわけではない。居酒屋に入る前は警戒してしまう。
「はいはい、いらっしゃい。見ない顔だねぇ、巡礼者でもなさそうだ」
愛想よく話しかけてきたのは、酒場の女主人だった。腕まくりして太い腕を見せつけ、洗いざらしたエプロンをつけている。
「戦場から故郷に戻る帰路だ。長旅で手持ちは2ペンスしかない。どうか休む場所と一杯のエールを」
残った最後の硬貨を差し出せば、酒場の女主人は丸っこい顔に愛嬌をたっぷりと浮かべた。
「あら、正直なお兄さんだこと。どこの戦場だったんだい」
「スコットランドだった」
右手を見せれば、女主人は痛ましそうに眉を顰めた。
「じゃあ死んだ旦那の戦友ってやつかねえ。旦那も弓を引くのが上手でねぇ。ああ、遠い旅路だ、スコットランドなんて本当に遠い。うんざりするよ。景気づけに、ちっとばかりサービスしておきますよ」
陶器のジョッキに、なみなみとエールが注がれる。
空っぽだった腹に麦の恵みを満たした。
やや日が経って酸味を帯びているが、飲めないわけではない。
喉を湿らせ、胃を膨らませ一息つく。
あの老人は死んでいた。
なんのことはない。神の思し召しなのだ。
俺などが刃を携えずとも、ふたりは神の恩寵によって解放されるのだ。あるいは神の正義か。
婚姻の秘跡によって掛けられていた軛が、マーガレットさまから外された。そしてジャスパーからも。
未亡人ともなれば寡婦産を得て、不自由のない生活ができるだろう。まだ幼いジャスパーはどうなるのか気がかりだが、賢くて行動力がある。親と資産があれば何とでもなるだろう。
それが知れただけでも、俺の心は軽くなった。
ここから遠く去ろう。
二度と会えぬと思えば寂しくもあるが、愛すべき方々が自由なれたなら俺の至福。
ほっとした途端、俺の身体は鉛のように重くなった。いや、鉛どころか痛みのない釘に、手足を打ち付けられたように動かせない。
気の緩みで疲れが出たのだろう。
重い瞼を閉じれば、眠ってしまうのも無理なからぬことだった。
目覚めの最中でも、眠りの底に沈んでも、いつもあの方を想う。
遥か過去の夢。
懐かしい思い出。
マーガレットさまは金髪を惜しげも無く垂らし、空色の裾を引いていた。豊かに波打つ金髪は、どんな黄金細工より繊細な輝きを宿している。ほっそりとした腰には、白鞣しされた帯提げ書とロザリオを下げておられる。
御年、12歳。貴族であれば、とうに嫁ぎ先をお決めになっているお年だった。
内々に決まっていたお相手はいたそうだが、お亡くなりになったらしい。それほど珍しい話ではない。流行り病や落馬で、人間は容易く神の身元に昇る。
マーガレットさまは並外れて聡明でお美しく育ち、ご領主は求婚者たちを値踏みできる立場だった。手中の珠たる一人娘を、最高の騎士に嫁がせたいと願っていた。
夏にはイングランドの若い騎士を何人か招き、城で狩りと宴を開くのだ。何日も続く宴席だ。もし近くの修道院長が馬上槍試合を嫌っていなければ、大々的な試合を開催したかっただろう。
執事は奉公人たちに檄を飛ばして、食糧長はイスパニアから砂糖と米をありったけ取り寄せるよう腐心し、お酌頭は酌は芸術だと小姓らに語り、布地係はテーブルクロスが足りぬ足りぬと悲鳴を上げる。
誰もが慌ただしい支度の最中で、俺とマーガレットさまは逢瀬をしていた。
そのころの俺たちは清らかな間柄だったとはいえ、ふたりきりで会うのは後ろめたさがあり、城壁の階段の踊り場にある蜜蜂小屋で隠れながら言葉を交わしていた。蜜蜂の羽根音より静かに、息を潜めて。
「わたくしより侍女たちの方が浮かれています。チュニックの縁飾りに、みなでダイヤモンドを縫い付けているのですよ。とても白くて綺麗で、テリンガーナ王国から運ばれてきたダイヤモンドだと伝えられています」
「テリンガーナ王国?」
聞いたことのない国名だった。
「エルサレムより遥か東の王国だそうですよ」
そう囁き、地面の砂に小枝で地図を描く。
まず世界の中心たる聖地エルサレムを描き、下にイタリア半島、上にバビロン、左にコンスタンティノープル、右にアレクサンドリアを描く。それからアレクサンドリアの下にエーゲ海。左下の隅に小さくぽつりとイングランド。
さらさらと淀みない。
マーガレットさまの白い額には、世界図が宿っておられるのだ。
「このアレクサンドリアからナイル川が流れ、さらにアラビア半島、そこからさらに進んでテリンガーナ王国だそうですよ」
イングランドは左下だが、テリンガーナ王国は右上。
いったいどれほど月日をかければ辿り着くのだろうか。俺の想像を絶する地だ。
「なんとも遠い国ですね」
「ええ。民は米と乳しか食さず、ダイヤモンドまでも乳のように白いと」
「白いダイヤモンド。マーガレットさまにお似合いでしょう。求婚者の心がざわめくほどに」
俺の賞賛に、マーガレットさまは微かに眉を顰めた。
婿探しに緊張されているのだろうか。
「………ジェイデン、そなたは宴の近くに侍るようですね」
「もったいない栄誉です」
盛大な宴だ。
俺も弓兵の末端として隅に控えさせて頂ける。そのために母は新しい脚衣を縫ってくれていた。
「そなたの耳に最も心地よいと思う曲を申しなさい。宴席でその曲を奏で、そなたへ与えましょう」
幼くも威厳湛えた物言いは、ご領主によく似ていらした。
忠実な騎士に褒美を与えるように、マーガレットさまは俺にオルガンの音を与えようとしてくれる。
「マーガレットさまの奏でられる曲で、俺が愛さない曲がありましょうか。どうかあなたさまの好きな音色を奏でて下さい。それに正直なところ、あまり曲の区別がつかないのです」
「ではわたくしの好きな曲を。それをそなたに与えましょう」
夏の麗しさだけが満ちた城の中庭。
瑞々しく薔薇が綻び、四阿が影を描く。孔雀はゆっくりと羽根を広げ、尾羽を揺らす。ひとしずくの水滴が光を受けて、宝石めいてきらきらと散っていた。
だが何より麗しいのは、マーガレットさまだった。
豊かな金髪に、薔薇色の真珠を巻き付けておられる。チュニックの縁飾りに縫われているダイヤモンドは、白みがかった輝きを纏っていた。
ほっそりとした腰には、金の房飾りの揺れるビザンティン風の帯を垂らしていた。
これ以上に豊かな身なりは、女王として難しいだろう。
マーガレットさまは卓上パイプオルガンを膝に乗せ、求婚者たちの前で演奏をする。右手は鍵盤を滑り、左手はふいごを羽ばたかせる。
そのお姿は宗教画の天使のように輝き、音楽は淀みななく流れ、天上の光景が降りてきたようだった。
一曲終えて微笑み浮かべるマーガレットさまに、求婚者たちは己に与えられたものだと小声で言い張っていた。
だがあの音楽も笑顔も、俺に与えられたものなのだ。
この俺に。
「お客さん、あんま寝てると宿代貰いますよ」
女主人の声で目が覚めた。
あの頃と同じ夏だというのに、城の中庭と居酒屋の土間ではずいぶんと違う。
日は落ちて、囲炉裏の炎が目映かった。
男たちが寄り集まって、淀みなく訛った雑談をしている。雑談の合間に、炻器のタンカードで廻し飲み比べに興じていた。
盛り上がってくれば、またひとりふたりと客が入ってくる。
「なあ、お客さん。悪いけどさぁ、そろそろ混んでくるんだよ。金がないなら、教会の宿坊に行きな。ポタージュくらいは啜らせてもらえるよ」
「そうしよう。神に感謝して眠りたい」
「そいつは幸せなこったねえ」
居酒屋を出ようとすれば、誰かが飛び込んできた。
農民だ。
「おい、バストン荘園の旦那が殺されたそうだ! サースタン・ウォーターズの旦那が!」
殺されていた?
苦しそうな表情を浮かべていたが、血の匂いもなく、外傷は見当たらなかった。
とはいえ殴られて死ぬ者は、切られて死ぬ者より少ないわけではないのだ。鎧を纏った騎士が、矢傷なく神の身元に逝くのを俺は何度か目にした。
俺が思案しているうちに、酒場の酔いどれたちが集まった。
「誰にだい?」
「強盗だってさ。自慢していたやつが無いんだよ。ほら、あの黄金の指輪。今、馬丁が州長官さまのところへ馬を走らせている」
指輪?
……黄金の指輪?
俺が去った時には、折れそうな指に古めかしい黄金細工の指輪が輝いていた。
じつはふたつあって、そのひとつが盗まれたのか?
あるいは発見した奉公人がくすねて、強盗だと言い張ったのか。
馬鹿な。
もし指輪を持っているのを見つかれば、強盗だと疑われる。いや、疑われるどころではない。ろくに調べられもせず、主人殺しで吊るし首だ。
そんな危険を冒せるのか?
鍛冶か馬丁なら、金づちを振るって地金にできる。それを換金すればいいが、金が見つかればどのみち疑われる。
「なんにせよ死んじまったんなら、葬儀の振る舞い飯のおこぼれがありつけるか」
村人の口調は明るかった。
不謹慎と咎めるものはいない。
「奥方は遥か遠くだぜ。振る舞い飯なんぞ期待できゃしねぇって。誰が振る舞いを差配すんだよ」
マーガレットさまの話題に四肢が強張った。
「執事か誰か、寄こしてくれるんじゃねぇのか」
「そうさなァ。葬儀には間に合わねぇってのは分かってるが、追悼ミサは盛大にやるだろうさ。大金持ちだぜ?」
もはや話題が葬儀の振る舞い飯のおこぼれだけだった。
あの老商人は、周囲の村々への寄進や慈善を怠っていたらしい。それほど慕われていたわけではなさそうだ。
追悼ミサもマーガレットさまならそつなくこなすだろう。
「そこまでしてくれるかね。年寄りの寝床に横たわるより、暖炉の炎と寝る女だぞ。まともな振る舞いなんざ期待するもんじゃあねぇさ」
「顔と乳房を焼いたって、ほんとうかい」
……今、この村人はなんと言った?
顔と、乳房を、焼いた?
マーガレットさまが?
妻としての責務を拒んだとジャスパーが語っていたが、夫と臥所を共にしないため、顔と乳房を自分で焼いたのか。
美しく気高い顔、膨らみかけた乳房。そのふたつを愛撫した感覚が、俺の指先に戻ってくる。
熟しきらぬりんごめいて堅く、それでいて絞ったばかりの蜜や乳のように甘美だった。
「貧民への振る舞い飯で、お目にかかったことあるさ。そりゃもうひでぇったらねぇよ。どんなアバタ面の売女だって、あの崩れた火傷痕よりマシだね。まぶたなんかよ、こうでろっと垂れててさ」
「そいつはおれも見かけたが、レプラ皮膚病って思ったんだよな」
「レプラじゃねえよ。初夜だかなんだか兎に角さ、でっけぇ暖炉に身体を投げたって、そこの奉公娘から聞いてんだよ。家中に肉が焼ける匂いがしたってさ」
「狂ってんなあ。むしろさ、あっちで祝いの晩餐でも開いてんじゃないか」
「顔を焼くような狂った女だ。夫が死んで祝賀したって不思議じゃねぇわな」
「違いねぇや」
卑下た笑い声が響く。
「黙れ」
俺の呟きに、居酒屋は一瞬だけ静まり返った。