24話 引き絞られた矢の如く
開墾中の森に入っていく。
雨は強くならないが終わりもせず、世界を霧雨のヴェールに包んでいた。俺の黒髪は濡れそぼち、まつ毛には雨水がたまる。
大きな切り株に、ナイフで切り込みを入れて目印にした。誰か俺を追ってくるかもしれないし、帰り道……もし俺が無事に戻れるとすれば、帰路の導が必要だ。
奥へと進めば、折り重なったこずえのおかげであまり雨に降られておらず、地面が踏み固められてきた。
もう足跡は無い。
踏まれたばかりの草や、折られたばかりの梢を追う。かなり暗くなってきたが、それでも追えた。人が通ったばかりの道は、踏まれたり折られたりした匂いが漂っている。
開けた場所に、小屋があった。
炭焼き小屋、だろうか?
煮炊きの明かりと匂いが、窓の隙間から漏れている。
耳をすませば、男たちの話声。何を話しているか聞き取るには遠い上に、訛りが強すぎる。なんとなく下品な抑揚だ。
これから夜が更ける。雨も降っている。山賊たちは炭焼き小屋で、冷たさと暗さをやり過ごす腹積もりか。
炭焼きの出入り口はどこだ。
俺自身の物音や気配を悟られないように、大きく周りこむ。漏れている煮炊きの明かりで、扉の輪郭は掴めた。
木の根が張った岩棚を登れる。折り重なった梢のおかげで、うまい具合に雨風が避けられた。扉も見張れる。
革水筒の麦酒で喉を潤し、雨のせいで冷えた四肢と関節を按摩する。
寒いときにペトロニアが施してくれた按摩だった。首や指も何度もほぐして、弦を絞れるようにしておく。
雨の宵をひとりで過ごす。
きっと足跡はもうふやけて流れてしまっただろう。
今、ここで食い止めなければ、聖具がどこかへ売られてしまう。いつも礼拝堂を厳かにしていた燭台や香合、あの輝きが失われる。
……俺だけなんだ。
俺が食い止めなければ。
濡れた弓矢を握る。
いままで鍛錬ばかりだった。
だが、これで初めて人を殺すかもしれない。
訪れるであろう一瞬を、無心にひたすら待った。
夜明けを待たずに、雨は終わった。
重く湿った空気は、暁闇さえ重々しくしている。
微かに小屋から声が聞こえた。半ば獣じみた声がいくつか飛び、物音がする。
扉が、開いた。
上背のある男が大きな荷物を抱え、痩せた男が松明を掲げて出てきた。
ふたりとも声を潜め、ちらちらと小屋の奥を伺いながら、驢馬を引き、大きな荷物や小さな樽を括りつけている。
盗賊の頭ではない。
あの身振り手振りは、厳しい荘園主の顔色を伺う農奴だ。
驢馬に荷物は括りつけられ、立派な筋肉の男が出てきた。作業していた男ふたりは、指示を待つように構える。
あれが盗賊の頭だ。
刹那、俺の四肢は直感に従う。反射的に矢を番え、弦を絞り、放った。
矢は重い空気を貫く。
ひゅうと、盗賊の頭らしき男の肩を射抜いた。
喉を狙ったつもりだったが、思ったより空気の重さが矢羽根に圧し掛かったか。
「Dalwch! Pwy yw e?」
「Dwi ddim yn deall!」
「Mae'n elyn!」
イングランド語ではない言葉が飛び交っている。
俺は矢継ぎ早に、男たちを射た。狙いは、太い血管。あるいは抜きにくい箇所。
最後の一本で松明も射る。
泥に落ちる炎。
誰もが光を求める瞬間、俺は岩棚から茂み飛び降りた。がさがさと音は響いたが、構わず走り、距離を詰める。
驢馬の近くにいた痩せ男に、回し蹴りを喰らわせる。
上背のある男の腕が伸びてきた。
咄嗟にイチイの弓を振って、顔を打擲する。たとえ暗闇でも目を打ち付けられると、人間は怯む。その隙に身を屈め、股間を蹴り上げた。
それでも腕を乱暴に振り回して迫ってくる。なかなか豪胆だ。
地べたで呻いている痩せ男の襟首を掴み、迫って来る男にぶち当てた。
狂乱している男は仲間と敵を勘違いして、馬乗りで殴っている。
小屋から男たちが出てくる。二人か。
俺は敵の拳を避けながら、身を屈め、燃え尽きた松明を拾う。男をぶん殴る。熱が籠った松明で殴られ、野太い悲鳴が轟く。
敵が怯んでいる隙に倒れた男の喉を踏みつぶし、イチイの弓を振るって牽制。
キリィ……
この微かな軋みは、弩が番えられた音。
反射的に小屋の煮炊きの明かりから身を離し、闇へと転がって距離を取る。
俺のすぐ横を矢が掠めていった。
転がった先に死体がひとつ。
死体の喉から矢を引っこ抜く。血と肉で歪んだ矢じりを、弩の男の眼窩に突き刺した。眼球の水分を含んだ感触が伝わり、全力で捩じる。
悲鳴が轟いた。
そして異国の言葉が絶える。
深い森に朝焼けが訪れた。
なんと素晴らしい薔薇色だろう。淡い薔薇と薄い紫が混ざり合い、朝露を輝かせている。世界を洗礼しているかのように美しい黎明だ。
俺は神に祈る。
驢馬に括られた荷物を解き、聖具を確認する。
美しいリモージュ焼きの聖具だった。朝焼けを浴びるその色彩は、聖母マリアの青そのものの美しさ。
俺は上首尾に終わったことを神に感謝し、城へと急いだ。
「あの農奴が盗賊と結託して、聖具を盗んだに相違ない!」
帰ってきた俺を出迎えたのは、エドマンドさまの憎悪だった。
エドマンドさまは城の大広間の壇上に立ち、憎悪で濃くなった青い瞳を俺へと向けた。
さっきまで満ちていた歓迎の雰囲気は、水にぬれたように萎れてしまう。
城代も戸惑っている。出迎えてくれた兵士も、聖具を受け取りにきた司祭も同じように。
「大方、盗賊との分け前に不満があって、何食わぬ顔で盗んできたのだろう。それを戦って取り戻してきたなどと、よくもそんなウソばかり! 牢へ繋げ!」
わめき散らして、騎士や衛兵に命ずる。
ありもしない罪を幻視するほどに、俺を憎んでおられたとは。
「エドマンドさま。してもいない罪を受け入れられはしません」
「知らぬ顔で取り入るのは上手なことだ。聞いてはおれん、早く牢へとぶち込め!」
エドマンドさまの癇癪に、群衆からレナルドが飛び出した。
レナルドの足に異常はないみたいだ。蛇に噛まれた傷は治ったのか。よかった。
ほっとしていると、レナルドとその従弟のユワードとハーワードが、俺を取り囲んだ。
「おれがジェイデンを牢へと案内します」
「早く行け」
「誤解無きよう。エドマンドさまの告訴に対して、ジェイデンの証人に就くため、おれは牢へと案内するのです!」
被告の証人になると、堂々と宣言した。
エドマンドさまは信じ難いものを見るように、青い瞳をレナルドに向ける。
俺だって信じられない。
レナルドは俺の無実を信じ、そのために法廷に立つと言っているんだ。
「な、なにを、なにを馬鹿らしい……」
「僭越ながら若君へ申し上げます! 被告が盗賊と結託したと訴えるならば、いつ結託したとおっしゃいますか! 帰る家の無い彼が城から出るなど、まずめったにない。被告が常日頃からペトロニアに煎じを教わり、弓兵長ロジャーに師事し、さらに若君と弟の子守をしていたのは周知の事実。もしもジェイデンに不心得ありと仰せならば、いつ盗賊と言葉を交わしたとお疑いですか!」
レナルドの問いかけは、騎士らしい見事なものだった。
「ジェイデンがあのモブフットで己より大柄の男たちに膝をつかせたのは、誰しも知る逸話! まして今のジェイデンは武器を携えております。何十人の悪漢に取り囲まれようが、負けるはずがありません」
いや、何十人もいたらさすがに負けると思う。
「またジェイデン自身の人なりも、おれは保証します。そのふたつの理由をもって、おれは被告の証人になります。ではジェイデン、牢に行こう」
「その必要はない」
朗々と声を上げたのは、ご領主さまであった。




