23話 聖ペテロと聖パウロ
聖ペテロと聖パウロの日。
神々しいほどの朝焼けを迎えた佳き日に、聖人のための盛大なミサが上げられた。
ミサが終われば、エドガーさまとジョンは旅支度を整えられる。お揃いの羽根付き帽と、お揃いのマントを纏っておられた。
そして揃いのマント留め。
宝石と銀細工で拵えられたどんぐりだ。紅褐色のルビーで実を模し、青灰色のサファイアで葉を形どっている。
ふたりは偉大なる樫のどんぐりだ。
これからひとりずつ庇護の枝から落ち、風に吹かれて大地を旅し、力強き根を張るのだ。
「お揃いだな。この世にふたつきり、おれとジョンの宝」
「えへへ。エドガーさまとお揃い」
エドガーさまとジョンは、揃いの至宝に嬉しそうだ。お可愛らしいご様子だ。
ご領主さまはしばらく言葉に詰まっていたが、出立の刻は迫っている。見送らねばならぬのだ。
大樹の枝の如き腕が、ふたりの小さな肩を抱く。
「努々、弛むでないぞ。貴族は騎士に発し、騎士に帰するのだ」
「承知しました、父上」
「畏まりました、ご領主さま」
餞の言葉を受け取り、別々の修行先に旅立った。
何よりも大切なふたつの宝石。
この世に産声を上げた時から、いや、産まれる前から愛していた俺の弟。そして忠義を捧げるべき若君。そのふたりが手の届かないところへ行ってしまったのだ。
手から離れてしまえば、もはや祈るしかない。
喜ばしいのに、涙が溢れてきた。
ご領主さまはマーガレットさまと母さんを連れて、ゆるりと城へ帰還なさる。シャルウッドベリの城の屋根の吹き替えが終わるまでは、他の荘園や街道を視察していかれる。
俺は狩猟館で荷物をまとめを手伝い、村々に養われていた荷馬や驢馬を連れてくる。
聖ペテロと聖パウロの日の翌日、俺たちは出立した。
聖人の加護は通り過ぎてしまったのか、狩猟館を経ってほどなく、雲行きは怪しく翳ってきた。
エドカーさまとジョンの旅は順調だろうか。
今頃どのあたりを旅していらっしゃるのだろうか。
そんなことばかり頭に過ってくる。
暗雲が旅を覆ってきた。たちまち雨粒も。視界が悪くなって、足元がぬかるむが、それでも荷を運ぶ速度を緩めるわけにはいかない。息を切らし、進む。
街道に聳える大樹の木陰で、馬たちに水を飲ませる。
「うわっ」
レナルドが叫ぶ。
足に蛇が纏わりついていた。
草を掃って、蛇が飛び出してきたのか。
俺は蛇のしっぽを鷲掴みにして、力いっぱい頭を地面にたたきつけた。蛇の頭が吹き飛んだ。蛇の死骸を捨て、レナルドの足を掴む。
「噛まれたんですか、傷跡を見せて下さい」
靴を脱がせれば、足首に浅く噛み跡がある。
「あれは毒のない蛇ですし、このくらいなら塗り薬でなんとかなります」
「ほんとに毒無しだった?」
俺は千切れた蛇の頭を拾って、レナルドの眼前に差し出す。
「この牙のところが……」
「分かった。そいつは毒のない蛇!」
「飲み水でまず拭きますよ」
革水筒の水で傷口を洗っていく。
煎じ液を落とす。ヘンルーダとセージの煎じ液だ。
これは蜂や蜘蛛、蛇に咬まれた傷に染み込ませるのだ。
垂れないよう清潔なリネンを圧し当てる。
ロジャーがやってきた。
「ジェイデン。手当に時間がかるなら、おれらは先に出立する。お前さんらは後で追いついてきてくれ」
「こんくらい大丈夫」
レナルドは本気でそう言っていたが、俺は首を横に振った。
「毒のない蛇でも、足の腫れが長引くと厄介です。休息を先払いできるなら、そうした方がいい」
先に出立といっても、雨に阻まれて馬車も櫃もそれほど進まないだろう。荷物を持ってない俺とレナルドなら、距離を詰めるのは容易い。
大樹の木陰で休むのは、俺とレナルド、それから焦げ茶の乗用馬。
体格は痩せ気味だが、賢そうな馬だ。茶色い瞳は穏やかで、レナルドの茶髪に鼻面を寄せた。
「悪いな、10ポンド」
レナルドは愛情を込めて囁きながら、乗用馬の鼻面を撫でる。
「10ポンド?」
「ほんとは買値1ポンドだったけど、こいつは10ポンドくらい将来性がありそうだろう! だから10ポンドって名付けた」
……名づけの感性が独特だな。
普通は茶とか………いや、他人の名づけに口を挟むのも見苦しいか。
レナルドは素足を投げ出し、大樹に凭れかかった。
これ見よがしに大きなため息が、雨音に波紋する。
「あーあ、不注意だった。飲み水と薬を無駄にするなんて、馬鹿みたいだな。かっこ悪い」
「蛇のせいですよ」
「でも蛇がいそうな草むらだったし。気を付けりゃよかったんだ。絶対にリチェンダさんにカッコ悪いって思われる」
リチェンダ?
どうしてマーガレットさまの侍女の名前が出てくるのだろう。
「なあ、ジェイデン。リチェンダ・リトリントンさんだけどさ……その、言い交わした相手がいるかな?」
「いるとは伺っていませんが……」
この話の流れは予想外だった。
「リチェンダさんは物静かでいいよな。立ち振る舞いから何から慎ましくて、仕事ぶりも見てて気持ちいいし。声も高くなくてさ。耳に心地よい低さだよな」
「はぁ……指弾琴より抱えオルガンの方が心地よいという気持ちでしょうか」
「そう。うん、ジェイデンは巧いな。その口説き文句、使わせてくれないか」
「え、ええ。ご自由に」
口説き文句のつもりではなかったのだが。
「うちは瘦せっぽちの小荘園しかない。厩にいる馬だって、年寄りの輓馬に、騎士が跨るには貧相な汎馬ばっかりだ。武具と軍馬をそろえて儀礼したら、うちの三年分の年収が飛ぶ。おれひとり騎士に叙するために、家族みんな切り詰めて働いてるんだ」
小荘園の主なら、よく聞く話だ。
裕福ではない騎士の家では、長男ただひとりを叙してもらうために、他の家族は身を粉にして働く。
「だから騎士として叙任されたら、相続が期待できる令嬢とか、寡婦産どっさり抱え込んだ未亡人を狙うのが正しいんだろう。でもいざ自分の家庭を想像した時、落ち着いて針仕事してるリチェンダさんがしっくりきたんだよ」
「良い組み合わせかと」
「だよな!」
レナルドが鼻穴広げる。
おべっかではなく、本気で良縁だと思う。お仕えする主家が同じなら、政略的に引き裂かれはしないだろう。
年齢はリチェンダの方がいくつか年上だった。とはいえ問題になるほど年の差があるわけではない。
「……ま、うちの家族はいい顔しそうにないけど。持参金は望み薄だし」
「最も得難き財産は、良妻です。リチェンダは真面目で忠義深く、女の罪たるお喋りに耽らない。財産を抱えた悪妻より、理知を宿した賢婦人。そうではありませんか?」
「だよな!」
羨ましい。
………羨ましい?
俺は、いったい何を羨んだのだろうか。
望みの妻を見出したレナルドが羨ましいのか。俺も妻が欲しいのか。
いつかは俺も結婚するだろう。
自由民になって仕事が安定していれば、誰かは嫁いでくれるだろう。そして子供を成して、俺は父になり、母は祖母になる。ジョンはきっと甥や姪を可愛がってくれるだろう。
慎ましい幸福を想像したというのに、何故か口の中は渋く乾き、枯葉をかみ砕いているようだった。
「ジェイデン。そろそろ出発しないと、追いつけないんじゃないか?」
「……そうだな」
雨は途切れてきた。
俺たちは靴を履きなおして、レナルドは愛馬に跨り、雨で緩んだ道を進んだ。
遥か遠方から馬のいななきが、曇天に響く。
うちの馬の声。しかも悲痛さが含まれていた。
まさかぬかるみのせいで足でも挫いたか。
「俺が先に走ります。レナルドはゆっくりと無理せずに!」
泥飛沫の中、走っていく。
肺腑を空っぽにして、丘陵を越える。その彼方、ひときわ雨が溜まってぬかるんだ道に、馬車たちが立ち往生していた。荷が崩れて、古びた縄と石ころが散らばっている。
弓兵のひとりが俺に気づいた。
「ジェイデン! 山賊だ!」
大声を張り上げたのは、弓兵のベネット。額から血を流していた。深く切れて、片目を塗るほどの量だ。止血に急ぐ。
「簡易の血止めします。ロジャーは?」
「ロジャーさんは混乱した馬車馬を御している」
「他に怪我人は……」
「んなもんどうでもいい! それより聖具だ! 聖具がひと抱え、持っていかれた!」
リモージュ七宝の聖具が。
周囲を見回す。窪地から西に下れば、茂みと影の濃い浅瀬があった。あそこに身を潜ませていたのか。
荷馬車がぬかるみで足取りが遅くなり、列が伸びてしまったところを狙われた。他の馬に石を投擲して隊を乱し、高価そうなものをかっさらう。
あまりにも山賊に都合のいい天候と地形。計画的か?
練られた計画ならば、食い詰めた浮浪者でも、逃亡した農奴でもない。
おそらく頭目がいる。分け前を分配する必要があるはずだ。隠れ家に集まる。
荷物を解いて、弓矢と革水筒だけ携えた。
「俺は山賊を追います! レナルドはあと少しで追いつくので頼みます」
「待……ッ! 固まって行かねぇと、危ないだろうが。もし待ち伏せされてたら……」
「雨で足跡が流れてしまう!」
浅瀬は雨のせいで嵩ましている。
それでも強引に突っ切った。
水を含んだ大地には、何人もの足跡が深く刻まれている。聖具を盗んだのだ。罪と荷の重さで、足跡も深くて当然。
雨で打ち流される前に追わなくては。
神と諸聖人に祈りを捧げ、足跡を辿った。




