22話 異端のまどろみ
翌日、ミサが終われば、ご領主さまはデレク卿と騎士たちを引き連れ、森で宴を催す。
狩猟の宴だ。
狩猟に出るには幼いエドガーさまとジョンと、まだ仔犬の狩猟犬は館で遊ぶ。さっそくいつも騎士ごっこに興じ始めた。
小さな中庭を大きな世界にして、ふたりは騎士を演じる。
アミとアミルの物語。
「おお、アミよ。遠方にいるはずのそなたが、どうしてこの宮中に」
「あなたが苦しんでいる夢を授かったゆえ、馬の脾臓が爆ぜんばかりに駆けつけたのです。あなたの苦しみは如何なることです」
「おれは決闘裁判をせねばならぬのだ」
「ああ、アミル。気高き騎士! あなたに正義あらば敗北はあり得ぬというに、まさか不義を犯したというのですか」
「不義! この愛を不義というならばそうであろう! おれは王女を愛し、王女もおれを愛してくれた。だが王の許し頂かず、悦びを交わしてしまったのだ!」
……意味を分かっているのだろうか。
「それを同輩に嗅ぎつけられ、王に訴えられたのだ。王女のために無実を訴えたが、潔白か否か皆に知らしめるため、決闘せねばならぬ! 決闘に挑んでも、愛ゆえの罪あるおれは負けてしまう。この身の破滅は恐ろしくないが、残された王女を想うと心痛む」
「アミルよ。ぼくとあなたは瓜二つ、ぼくが代わりに挑みましょう。潔白たるぼくに敗北はあり得ぬゆえに」
「しかし神を欺く振る舞い! 必ずや罰が下るであろう」
「我が半身を窮地から救うに、誰が臆しましょうか」
ふたりは滔々と台詞を交わしていた。
エドガーさまは話の流れの中、適当に語っている。それにジョンが合わせていた。
「騎士ごっこは熱心ですね」
涼やかな声が降ってきた。
マーガレットさまだ。
しかもお独りでいらっしゃる。
「侍女は?」
「リチェンダでしたら、昨日破れたストッキングを繕っております。メアリとレナルドがいるから、大丈夫だと思って参ったのですが」
「レナルドは狩猟の宴へ。母は虫よけ軟膏を煎じております」
「そう、なのですか」
マーガレットさまは腰を下ろす。俺のすぐ傍らに。
チュニックの裳裾から、ちらりと爪先が覗いていた。昨日とは違う靴だ。紫色の布地に金糸刺繍がされ、スラッシュ飾りが施されている。
小さな足を包む靴。
「ジェイデン、怪我が気になります?」
「いえ、母が手当したのでしょう。もう安心です。俺が気にかけることはありません」
あの後、母さんが薬を塗布したんだ。だから俺がしゃしゃり出る必要は無い。
俺はエドガーさまたちへ視線を移す。
ジョンが高らかに腕を上げていた。
「我が名はアミル、潔白を証明せん!」
ジョンが俺の腹に突撃してきた。
「ぅぐっ」
鳩尾に頭突きが決まって、吐き気と共に倒れる。
今回はかなりの不意打ちだった。いや、流れから目を離していた俺が悪い。
しかし頭突きの一撃で俺を倒すとは、ジョンは大きくなったな。
「兄さん、倒れてないで早く王さまやってよ」
感慨にひたっていると、理不尽な矢が鼓膜に刺さる。
「……ぅ、アミルの潔白は証明された」
それだけ告げて、俺は倒れる。
アミは王と神を欺き、決闘に勝利した。
だがアミには天罰が下り、忌むべき病に冒されてしまう。故郷を離れ、野を流れ、辿り着いたのはアミルの屋敷。
皮膚が爛れる病だが、アミの持つ杯は変わらぬ輝きで、身元を知らしめた。
「ああ、その杯! そなたはアミか! 我が半身! 病に冒されしは神の罰か!」
「アミルよ、迷惑はかけませぬ。ですが呪われた姿では、物乞いさえできませぬ。どうかパンをお恵み下さい」
「どうしてパンのひと欠片で、そなたの友情の篤きに報えよう。おれの半身、いつまでもおれの寝台にいておくれ」
ふたりとも日陰で寝転がった。
神の啓示で、アミの病を癒す方法を授かるのだが………
ジョンが起きて、ちらっちらっと俺を睨む。
ああ、啓示は俺がやれということか。
「ぁー……アミルのふたりの子供の首を切り、その鮮血をアミへ注げは神の罰は終わるであろう」
ふたりは同時にむくりと起きる。
「アミルよ、なんたる残酷な神の啓示!」
「王女との愛の結晶を供物にせよと! ああ、ああ、しかし我が半身への友情と献身に報いるためならば、おれはどんな犠牲も払う所存!」
エドガーさまはすっくと立ちあがり、猟犬二匹へ足早に向かう。
「やあ!」
ぺちぺちと猟犬の頭を叩いた。
二頭は幼くも優れた猟犬ではあったが、叱咤の拳でもなく、賞賛の愛撫でもない所作を理解できない。不思議そうな瞳になっていた。
「アミよ、我が子の鮮血だ」
「おお、病が癒えていく……」
「悔いはない。しかしこのような悲しみを愛する王女に齎した以上、もはやおれはここにはいられぬ。我が子たちのミサを盛大に挙げ、死して帰らぬ巡礼の旅に出よう」
「アミルよ、ぼくも共に巡礼に参りましょう」
ふたりはお互いの手を握り、肩を落とす。
演技だというのに、猟犬が慰めに来た。小さな鳴き声は問いかけの形だった。
「ああ、なんたる奇蹟! 我が子たちが蘇るとは」
「まさに神の慈悲」
ふたりは小さな猟犬をだっこする。
「神よ! 奇蹟に報いるため、神のために戦おう」
エドガーさまが万感の思いを込めて台詞を語り、ジョンがちらっちらっと俺に目配せする。
語り入れろという合図だ。
「そうしてアミとアミルは神のために戦い、同じ日、同じ戦場で、名誉の戦死を遂げたのでした」
マーガレットさまが拍手する。
……これはめでたしめでたしなのだろうか。
昨晩、聞いていたご領主さまや騎士さまたちは、この結末を受け入れていた。
この物語に感銘を受けぬのは、俺の魂に信心と正義が足りぬのかもしれない。
名誉の戦死ごっこをしていたふたりから、しばらくもしないうちに台詞ではなく、寝息が聞こえてくる。相変わらず寝つきの良い子たちだ。
マーガレットさまが小さく笑う。
「愛くるしいこと。わたくし、結婚したら女の子をたくさん授かりたいと思っておりましたけど、男の子でも可愛らしいのですね」
「ええ。やんちゃですけど、可愛らしいですよ。マーガレットさまのご子息ならば、ご夫君の心に叶う嫡子となるに違いありません」
俺がそう申し上げれば、マーガレットさまは僅かに眉を顰めて項垂れた。
子供のことは考えられても、まだご夫君を具体的に考えられないのかもしれない。
寝息を見守っていると、エドガーさまのまつげが動く。
夢見心地のまま微かに瞳を開き、ジョンのおなかを撫でる。
「ジョン………いつまでもおれのところにいればいいのに。病気になったって、乞食になったって、戦死したって……また離れるのいやだな」
また?
産まれた瞬間から、ずっと手の届く距離にいた。
引き離されたことなんてないのに。
その言い回しに疑問を持ったのは俺だけでない。マーガレットさまも首を傾げておられる。
「ずっと一緒ではなかったのですか?」
「母上のおなかの中………ふたり一緒だとみんな死んじゃうから、ひとりさよならしたんだよ」
胎児の頃?
にわかに信じがたい話だった。
息を飲んでいると、エドガーさまは話を続ける。
「ジョンは戻ってくるねって誓ってくれて………おれはずっと哀しくて辛くて寂しくて、ジョンを探していたんだ。やっと見つかったのに、また離れたくない」
古い記憶が掘り起こされる。
たしかにエドガーさまはお産まれになられてから夜泣きばかりで、ろくに乳も吸わなかった。
エドガーさまが健康になったのは、ジョンと会わせてからだ。
「まあ、エドガー。そうでしたの」
マーガレットさまが蕩けんばかりに優しく呟く。
「とても神秘的なお話ですね。それはみなさんがご存じなの?」
「ううん……普段は思い出せない。うとうとしてる時だけ、思い出すから………」
「では秘匿しておきましょう。恩寵は尊いがゆえに、吹聴するものではないからです」
「そうするよ、姉上……」
呟いて目を瞑る。
しばらくすると寝息が聞こえてきた。ふたりともほんとうに深く熟睡している。
「不思議な話でしたね」
「異端です」
マーガレットさまの声の響きは、普段と違って堅い。
異端という単語の重みが、一拍遅れて俺の臓腑に伸し掛かってきた。
それが宣告されれば、社会から爪弾きになる。
「人はみな、死すれば天に昇るのです。赤子も同様に。ふたたびこの世に戻ってくるなど、それは異端『カタリ派』の言い分です」
「………カタリ派」
唇が悍ましさで震える。
聖王ルイによって殲滅された異端だ。たとえ死しても墓を掘り起こされ、火刑に処される。
どうしてそんな思想を、エドガーさまがお持ちなのだ?
「誰が吹き込んだのか、あるいは思いついたのか知りませんが………ジェイデン」
蒼い瞳が俺を真っ直ぐ見つめる。
「このことはけして他者に言わぬよう。そして忘れなさい。よいですね」
「畏まりました」
マーガレットさまは花びらほどの吐息を落として、俺に寄り添う。
柔らかな馨しさが鼻腔をくすぐる。
畏れ多い距離だ。
離れようとしたが、それより前にマーガレットさまが俺の膝へ手を置く。柔らかく滑らかで、そして微かに震えていた。
「ジェイデン。聞いていたのがそなたで良かった。兄上なら異端と騒ぎ立て、エドガーを貶めていたでしょう。兄上は殊更に、非や過ちを許さぬ方」
「エドマンドさまとて、そこまで無慈悲ではないでしょう。実の弟ですよ」
「そなたはジョンを愛しているから分からぬのです。兄上は他人の過ちを非難することで、何ひとつ出来ぬ罪悪感を埋めているのです。幼い弟とて例外ではありません。哀れな兄上……たとえ他者が堕ちようとも、兄上が跡取りとして何も成してない事実を埋められようはずもないのに」
マーガレットさまは憂いのヴェールに包まれておられた。淡くも深い憂鬱は、純白の膚を蒼褪めさせて、蒼の瞳を翳らせる。
俺の右腕は何故か、その華奢なお身体を抱き締めていた。己の動きに驚き、離れようとしたその刹那、マーガレットさまの身体が委ねられた。
軽やかな重みが、俺の胸に凭れかかってくる。
時間が停まったような感覚。
これを永遠と呼ぶのだろうか。
「………マーガレットさま」
納屋の方がにわかに活気づき、日常の音が押し寄せてきた。俺が永遠だと感じたものは儚く散る。
まだご領主さまがお帰りになる時刻ではないはずだ。
わいわいとした会話がこっちにも届く。
「狩場でパウルズ伯のご使者と鉢合わせたらしい。歓待に湯殿を支度せよと」
「また篤い持て成しだな」
使用人たちが走って、仕事に取り掛かっていた。
「マーガレットさま。手伝いに参ります、リチェンダに声をかけてこちらに向かわせますので、しばしご容赦を」
「………はい」
離れていく白い手。
名残惜しい所作だと思うのは、俺の浅はかな思い込みだろうか。




