21話 樫の大樹でさえ老いて朽ちる
宴の幕も夜の帳も下ろされて、大広間に漂う香りは香辛料と葡萄酒。これは宴という果実の残り香だ。円やかに熟して喰われた宴が残したもの。
「残り香だけで溺れそうだな」
俺の独り言ちを、レナルドが聞きつけていた。うんうんと頷く。
「ジョンも幸せ者だな」
「ああ。これほどの宴で見送ってもらえるとは、望外の喜びだ」
「ああ。これでデレク卿の部下たちに、ご領主さまの財力と愛情を示せた。どれだけジョンが大切に扱われているか見せつけられたら、遥かな遠方に預けられてもジョン・フイッツライオネルは軽く扱われないさ」
「盛大な酒宴は………デレク卿の騎士らに、ジョンの後見の強さを知らせるためか」
「そうだよ。家禽も仔羊もあらかた潰して、ホロホロ鳥まで供したんだ。ヨーロッパから取り寄せた葡萄酒に、城で醸した最高級の蜜酒まで大盤振る舞い。残り香まで豪華な宴。ジョンのためとはいえ、ご領主さまも奮発したよな」
「ありがたい話だ」
ジョンの行く末を案じていたが、少し気持ちが軽くなり、暖かくなった。
ご領主さまの心遣いがありがたい。
残り香を泳ぐように、俺たちはテーブルから皿用のパンを集めていく。
肉汁と香辛料の染み渡った皿パン。これは明日、乞食に配られるのだ。
「慈善係に引き渡してくる」
「頼む。おれはテーブルを片付けたら、休むよ」
皿用のパンを犬に取られぬように、礼拝堂へと向かう。
慈善係に引き渡して戻ってこれば、大広間のテーブルは片付けられていた。床のイグサと香草からは、汚れた箇所が取り除かれている。
仕事が終わったと思えば、あくびのひとつも零れてきた。
あてがわれた寝床に戻るか。
「ジェイデン」
不意に声をかけてきたのは、ご領主さまであった。
慌てて畏まる。
「畏まらずともよい。そなたに問いがあるだけだ」
ご領主さまから、問い?
何をお尋ねになるのか想像もつかぬ。
「この狩猟館はそなたから見ても、良き場所であろうか。何か問題があるならば忌憚なく申すがよい」
「いえ、土地は豊かで、使用人たちも親切で、たいへん素晴らしい荘園です」
何をお考えなのだろう。
土地の良しあしなど、農奴に判断できようはずがない。
ただ畑の畔は整えられており、追いはぎが出ぬよう街道の不要な木々は掃われていた。使用人たちの働きぶりも際立っている。何より母さんやジョンが蔑ろにされず心地よい。
「この地はわしの母が、婚姻により持参した荘園だ」
ご領主さまの母君。
エドガーさまが生まれてから、ほどなくして亡くなった貴婦人だ。お目にかかったことはない。
ただ占星術が出来ない医者に跡取りを診せられぬと、ペトロニラを信頼していなかった点だけは、しっかり覚えている。
それがどうかしたのだろうか。
俺が呑み込めずにいると、ご領主さまが言葉を継ぐ。
「つまりだ、ジェイデン。この荘園はいまだ限嗣相続に入っておらぬ」
限嗣相続。
跡取りだけが受け継ぐ土地。
これは指定したら永遠に取り消せず、跡取りただひとりが受け継いでいく。
だがその範囲にこの館が入っていない。ご領主さまがどう扱おうと自由なのだ。
「わしはこの荘園を、エドガーに相続させるつもりだ」
「エドガーさまはここを気に入っておられました。大変、お喜びになりましょう!」
我が事のように嬉しさがこみ上げる。
「そうか。では騎士として面目が立つだけの資産を残してやらねばな。デレクと相談したのだが、森をさらに開墾し麦畑を増やし、風車を建てることにした。大街道方面を整備して橋も架ければ、通行税が安定して得られる。綿羊や名馬を買い足してやっても、維持できる税収が見込めるだろう」
ご領主さまの後ろ盾で、さらにこの荘園が富むのか。
エドガーさまの将来は安泰だ。
「ジェイデン、そなたを自由民として解放したら、この荘園で働いてはもらえぬだろうか?」
不意打ちのお言葉に固まってしまう。
「俺が自由民に……? 俺が!」
驚きに声が裏返る。
自由民。
結婚も職業も引っ越しも自由になり、裁判で法廷料を支払わずともよい。
農奴から自由民になろうとすれば、莫大な上納金か、すべてを捨てて都市で一年と一日を過ごすかの二択だ。ご領主さまは俺の上納金を肩代わりしてくれるのか。
「何を驚く? 当然だ。盾持ちの母と兄が農奴では、ジョンに差し障りもあろう」
ジョンの将来を考えれば、ご尤もな話だった。
血縁が農奴ではなく自由民ならば、ジョンも周囲に侮られずに済む。
「メアリのために老齢年金を購おうとしたのだが、身に余ると拒まれた。そなたに盤石な立場を与え、メアリを養ってもらえば角が立たぬ」
重い荷を背負っているような吐息が零れた。
ご領主さまは母さんの老後まで案じておられたのか。
「無論、そなたがもし街で働きたいのであれば……」
「エドガーさまの元で働けるのは、俺自身の願いでもあります。将来、この荘園でジョンと共にエドガーさまを盛り立て、母さんを養っていけるなら、これ以上の幸せはありません」
ほんの一瞬、マーガレットさまのお姿が過る。
俺が夢見た未来には、マーガレットさまはおられない。
当然だ。
あの方はどこかの貴族に嫁がれる。
なのにどうしてか、胸の奥が重く押し潰れてしまった。呼吸が一瞬できなくなるほどに。
「エドカーへの忠義ありがたく思う。ただ自由民とするのは、いましばらく待ってはもらえぬか」
「ご領主さまの御心のままに」
「……恥じ入るばかりよ」
ご領主さまのお声から温度が抜ける。
これは自嘲だろうか。
「そなたらを解放すれば、エドマンドはまたいらぬ懊悩に打ちひしがれるだろう」
そうかもしれない。
俺が解放されようがエドマンドさまに関わりないはずなのに、なぜか憎悪を滾らせるだろう。
「あの子は領臣領民の期待に応えられん。高貴な血潮が流れておきながら、肉と魂のなんたる弱きこと」
ご領主さまは拳を握る。関節が白くなるほど握っても、震えが抑えられていなかった。
「………それでもこのわしを最初に父親にしてくれた息子だ。どうして愛さずにおられようか」
溜息が句点になる。
俺がどう答えても間違っている気がして、夜と同じくらい沈黙した。
「あれの預け先を考えねばならぬ。弱くとも跡取りなのだ、この領地すべてを守り、諍いを宥める大領主にならねばならぬ」
苦悩するように項垂れ、拳を開き、皺だらけの手で顔を覆う。
樫色の髪が揺れる。
薄くなった髪や眉には、霜めいた白さが混ざっていた。
白髪だ。
樫の大樹のようなお方だと思っていたが、ご領主さまでも老いるのだ。
考えてみればご領主さまは、四十路も半ばを過ぎておられる。
今は健康であらせられるとはいえ、いつ重い患いを得てしまうか分からぬ年齢だ。
樫の大樹でさえ老いて朽ちる。
そんな当たり前の摂理を、俺は今更、痛感した。




