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真珠のコルヌコピア  作者: 猫目石琥珀
飼い犬の回想譚
26/43

21話 樫の大樹でさえ老いて朽ちる


 宴の幕も夜の帳も下ろされて、大広間に漂う香りは香辛料と葡萄酒。これは宴という果実の残り香だ。円やかに熟して喰われた宴が残したもの。

「残り香だけで溺れそうだな」

 俺の独り言ちを、レナルドが聞きつけていた。うんうんと頷く。

「ジョンも幸せ者だな」

「ああ。これほどの宴で見送ってもらえるとは、望外の喜びだ」

「ああ。これでデレク卿の部下たちに、ご領主さまの財力と愛情を示せた。どれだけジョンが大切に扱われているか見せつけられたら、遥かな遠方に預けられてもジョン・フイッツライオネルは軽く扱われないさ」

「盛大な酒宴は………デレク卿の騎士らに、ジョンの後見の強さを知らせるためか」

「そうだよ。家禽も仔羊もあらかた潰して、ホロホロ鳥まで供したんだ。ヨーロッパから取り寄せた葡萄酒に、城で醸した最高級の蜜酒まで大盤振る舞い。残り香まで豪華な宴。ジョンのためとはいえ、ご領主さまも奮発したよな」

「ありがたい話だ」

 ジョンの行く末を案じていたが、少し気持ちが軽くなり、暖かくなった。

 ご領主さまの心遣いがありがたい。

 残り香を泳ぐように、俺たちはテーブルから皿用のパン(トレンチャー)を集めていく。

 肉汁と香辛料の染み渡った皿パン。これは明日、乞食に配られるのだ。

「慈善係に引き渡してくる」

「頼む。おれはテーブルを片付けたら、休むよ」

 皿用のパン(トレンチャー)を犬に取られぬように、礼拝堂へと向かう。

 慈善係に引き渡して戻ってこれば、大広間のテーブルは片付けられていた。床のイグサと香草からは、汚れた箇所が取り除かれている。

 仕事が終わったと思えば、あくびのひとつも零れてきた。

 あてがわれた寝床に戻るか。

「ジェイデン」

 不意に声をかけてきたのは、ご領主さまであった。

 慌てて畏まる。

「畏まらずともよい。そなたに問いがあるだけだ」

 ご領主さまから、問い?

 何をお尋ねになるのか想像もつかぬ。

「この狩猟館はそなたから見ても、良き場所であろうか。何か問題があるならば忌憚なく申すがよい」

「いえ、土地は豊かで、使用人たちも親切で、たいへん素晴らしい荘園です」

 何をお考えなのだろう。

 土地の良しあしなど、農奴に判断できようはずがない。

 ただ畑の畔は整えられており、追いはぎが出ぬよう街道の不要な木々は掃われていた。使用人たちの働きぶりも際立っている。何より母さんやジョンが蔑ろにされず心地よい。

「この地はわしの母が、婚姻により持参した荘園だ」

 ご領主さまの母君。

 エドガーさまが生まれてから、ほどなくして亡くなった貴婦人だ。お目にかかったことはない。

 ただ占星術が出来ない医者に跡取りを診せられぬと、ペトロニラを信頼していなかった点だけは、しっかり覚えている。

 それがどうかしたのだろうか。

 俺が呑み込めずにいると、ご領主さまが言葉を継ぐ。

「つまりだ、ジェイデン。この荘園はいまだ限嗣相続(エンティル)に入っておらぬ」

 限嗣相続(エンティル)

 跡取りだけが受け継ぐ土地。

 これは指定したら永遠に取り消せず、跡取りただひとりが受け継いでいく。

 だがその範囲にこの館が入っていない。ご領主さまがどう扱おうと自由なのだ。

「わしはこの荘園を、エドガーに相続させるつもりだ」

「エドガーさまはここを気に入っておられました。大変、お喜びになりましょう!」

 我が事のように嬉しさがこみ上げる。

「そうか。では騎士として面目が立つだけの資産を残してやらねばな。デレクと相談したのだが、森をさらに開墾し麦畑を増やし、風車を建てることにした。大街道方面を整備して橋も架ければ、通行税が安定して得られる。綿羊や名馬を買い足してやっても、維持できる税収が見込めるだろう」

 ご領主さまの後ろ盾で、さらにこの荘園が富むのか。

 エドガーさまの将来は安泰だ。

「ジェイデン、そなたを自由民として解放したら、この荘園で働いてはもらえぬだろうか?」 

 不意打ちのお言葉に固まってしまう。

「俺が自由民に……? 俺が!」

 驚きに声が裏返る。

 自由民。

 結婚も職業も引っ越しも自由になり、裁判で法廷料を支払わずともよい。

 農奴から自由民になろうとすれば、莫大な上納金か、すべてを捨てて都市で一年と一日を過ごすかの二択だ。ご領主さまは俺の上納金を肩代わりしてくれるのか。

「何を驚く? 当然だ。盾持ち(エクスワイア)の母と兄が農奴では、ジョンに差し障りもあろう」

 ジョンの将来を考えれば、ご尤もな話だった。

 血縁が農奴ではなく自由民ならば、ジョンも周囲に侮られずに済む。

「メアリのために老齢年金(コローディ)を購おうとしたのだが、身に余ると拒まれた。そなたに盤石な立場を与え、メアリを養ってもらえば角が立たぬ」

 重い荷を背負っているような吐息が零れた。

 ご領主さまは母さんの老後まで案じておられたのか。

「無論、そなたがもし街で働きたいのであれば……」

「エドガーさまの元で働けるのは、俺自身の願いでもあります。将来、この荘園でジョンと共にエドガーさまを盛り立て、母さんを養っていけるなら、これ以上の幸せはありません」

 ほんの一瞬、マーガレットさまのお姿が過る。

 俺が夢見た未来には、マーガレットさまはおられない。

 当然だ。

 あの方はどこかの貴族に嫁がれる。

 なのにどうしてか、胸の奥が重く押し潰れてしまった。呼吸が一瞬できなくなるほどに。

「エドカーへの忠義ありがたく思う。ただ自由民とするのは、いましばらく待ってはもらえぬか」

「ご領主さまの御心のままに」

「……恥じ入るばかりよ」

 ご領主さまのお声から温度が抜ける。

 これは自嘲だろうか。

「そなたらを解放すれば、エドマンドはまたいらぬ懊悩に打ちひしがれるだろう」

 そうかもしれない。

 俺が解放されようがエドマンドさまに関わりないはずなのに、なぜか憎悪を滾らせるだろう。

「あの子は領臣領民の期待に応えられん。高貴な血潮が流れておきながら、肉と魂のなんたる弱きこと」

 ご領主さまは拳を握る。関節が白くなるほど握っても、震えが抑えられていなかった。

「………それでもこのわしを最初に父親にしてくれた息子だ。どうして愛さずにおられようか」

 溜息が句点になる。

 俺がどう答えても間違っている気がして、夜と同じくらい沈黙した。

「あれの預け先を考えねばならぬ。弱くとも跡取りなのだ、この領地すべてを守り、諍いを宥める大領主にならねばならぬ」

 苦悩するように項垂れ、拳を開き、皺だらけの手で顔を覆う。

 樫色の髪が揺れる。

 薄くなった髪や眉には、霜めいた白さが混ざっていた。

 白髪だ。

 樫の大樹エバーグリーン・オークのようなお方だと思っていたが、ご領主さまでも老いるのだ。

 考えてみればご領主さまは、四十路も半ばを過ぎておられる。

 今は健康であらせられるとはいえ、いつ重い患いを得てしまうか分からぬ年齢だ。

 樫の大樹でさえ老いて朽ちる。

 そんな当たり前の摂理を、俺は今更、痛感した。



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