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真珠のコルヌコピア  作者: 猫目石琥珀
飼い犬の回想譚
24/43

19話 真珠の傷に口づけを



 俺が一晩ぐっすり寝ているうちに、運ばれていた荷が解かれていた。

 調度や銀食器やフランドル産のタペストリー、携帯祭壇とリモージュ焼きの祭具、書架と書物。貴重品はすべて運ばれてきた。それぞれの職掌たちが、厳密に決められた梱包を解いていく。

 革覆い(ヴァハット)を外して櫃を開け、タペストリーを広げていった。

 宝石やタペストリーよりも高価な宝は、鉄帯櫃の奥で藁で厳重に包まれている。


 窓硝子だ。


 窓硝子を大広間へと運ぶ。

 大広間には害虫除けに立麝香草(タイム)が焚き染められていた。

 窓枠に嵌っていた板を外せば、めいっぱい風と日差しが差し込んでくる。残り香はすべて流されて、森からの空気が満ちた。

 風を通して空ぶきした後、男たちが声を合わせて枠へ窓硝子を填め込んでいった。丸い硝子が連なる窓硝子は、風景と日光を、無限に取り入れてくれる。

 まさに神の目。

 この世にあるどんな宝石より貴い。

 広間や寝室の窓。そこに硝子が填め込まれば、館に光は満ちた。

 女たちが摘んできた柳薄荷(ヒソップ)や、南から取り寄せた木立薄荷ウィンター・サヴォリーが床に散らされて、香りも満ちる。館に命が吹き込まれたんだ。

 心地よさにひたっていたいけど、雑用はまだまだ山積みだ。

 今度は厩が騒がしい。

 ロジャーや馬丁たちが、荷馬や驢馬を引っ張りだしていた。

「また何か運ぶの?」

「いや、こいつらを村に回すんだよ。ご領主さまたちがいらっしゃったら、騎士たちの馬でいっぱいになっちまうからな。村中の厩に分散させるんだ」

 狩猟館の厩も立派だけど、城より劣る。全部の馬を養うには足りない。

 俺はロジャーについていって、近隣の村へ荷馬たちを預けに行った。預けられた家では飼い葉代として城への賦役が免除されるから、一戸洩らさずに書記に報告していく。

「ジェイデン、あっちが兄貴の家でな。おれはあっちから通いだ。使用人も馬と一緒で、館に入り切らねェなら村へ割り振りだ。だいたい地元の連中がお供だから、実家や親類に泊めてもらう」

「ここから通いって大変じゃないか?」

「館でぎゅうぎゅう詰めより、ちっとばかし歩いた方が気楽だな」

 ロジャーは荷馬たちの監督がてら村に残り、俺は書記と連れ立って狩猟館へと戻る。

 馬車行列の響きが届いた。

 ご領主さまご一家、それから母とジョンも到着したんだ。

 エドガーさまとジョンが馬車から飛び降り、俺に真っすぐ駆けよる。ふたりとも頬は薔薇色で、生き生きとした笑顔だ。

 微笑ましくて抱きしめたくなるが、礼節は守らねば。

 ご領主さまは早々に館の執事と話をはじめ、母もそっと付き添う。マーガレットさまの旅支度を解くのは、侍女のリチェンダの役目だ。

 俺はエドガーさまとジョンの世話をしなくてはいけない。

「長旅でお疲れでしょう。すぐに洗い水を……」

「ううん。全然、疲れてない! だって最高なんだよ! 兄上いないし!」

「結局、エドマンドさまはいらっしゃらなかったのですか」

 シャルウッドベリの城は大掛かりな葺き替えをする。職人の出入りで騒々しくなり、作業の騒音は居住区まで響くはずだ。

 お身体弱ければなおのこと、森に取り囲まれた狩猟館でお過ごしなった方が安らかだろうに。

「姉上の侍女で随行のお許しがあったのは、リチェンダだけだから。アミーリアが一緒じゃないと、兄上もこないよ。あの赤毛と膠でくっつけたみたいに、べったりしている」

 自分の眉間に皺が寄るのが分かる。

「エドガーさま。高貴なお血筋に相応しくない言い回しは、衛兵たちから覚えたんですか?」

「みんな言ってる」

 エドガーさまの呟きに、ジョンも頷く。

 子供が指すみんなの人数など、多かろうともせいぜい二、三人なのだが、この事実に限っては本当に城中で囁かれていた。

 アミーリアはエドマンドさまのチェスのお相手をして、指弾琴(プサルテリウム)をかき鳴らし、詩歌を諳んじている。そこまでならまだ罪はないのだが、夜を専らにしているとまで噂されていた。

 下世話極まりない。幼い方々の耳に入れて許される話題ではない。

「さ、足を洗いに行きましょう」

 旅の埃を掃うついでに、卑しい噂も掃えればいいのに。

 煮沸した湯に煎じ液を入れて、ふたりの顔を洗い、手足を洗いながす。如雨露(シャンテプレール)で手足を濯がれるのが殊の外お好きなので、何度も浴びせた。

「おれ、こんな長旅初めて! いい香りの森だね。お城と空気がぜんぜん違う。小鹿も見たんだよ、ぴょんって跳ねてた。あと駒鳥も。それから羊の群れ! 地面に夏の雲が降りてきたみたいだった!」

 エドガーさまのお喋りは止まることを知らぬ。

 次から次へと旅の光景を語ってくれた。

「ここでしばらく過ごせるんだよね?」

「ええ、数日は。パウルズ伯のご使者とデレク卿が揃えば歓待の宴を催し、それから念願の騎士修行に入れますよ」

 



 



 翌日からご領主さまは騎士らを伴われ、視察へと回られた。

 近隣の森や畑、橋や河川が荒れていないかご覧になられるのだ。

 無法者たちが占拠していれば騎士を派遣し、荘園では収まりきらぬ諍いの判決を下す。近隣の郷士らを狩猟の宴に招いて、人品を見定め、争い種が芽吹いてないか心砕いていた。

 


 一方、エドガーさまとジョンは日課と礼節から解放された勢いで、狩猟館を元気いっぱい歩き回る。

 この館は防衛のためではなく、狩猟のための造りだ。窓が大きく作られて、外の新鮮な空気が行き交っている。木々の枝も茂って空気が香る。吹き抜けていく風の心地良さは格別だ。

「ジェイデン。森に行ってもいいでしょ」

「ええ、俺の目の届く場所にいてくださいよ」

「姉上もお誘いしよう」

 マーガレットさまも侍女のリチェンダを伴って、森の散策に加わった。荷物持ちの俺と乳母役の母さん、それから盾持ちのレナルドも護衛として同行する。猟犬も連れてくため、少し離れて猟犬係もついてくる。

 午後の森は清々しい。

 最初に訪れた時は夕暮れの中だったから不気味だったけど、太陽がまばらに差し込む森は美しかった。網膜に映る緑に、肺腑に吸い込む空気、踏む苔の感触さえ瑞々しく心地よい。ときおり囀りが天から降る。

「どんぐり!」

 エドガーさまが大きなどんぐりを見つけた。

「穴が開いていたら、虫が入っていますよ」

「ふーん。じゃあ兄上の寝床に入れておいて」

 無邪気な提案を窘めたのは、マーガレットさまであった。

「駄目ですよ。そんないたずらしては」

「だって兄上はいつもジェイデンいじめるから」

「ならば正々堂々と立ち向かうのです。さもなければけして発覚せぬよう、計画を練って報復しなさい。もし寝床に虫入りの新しいどんぐりがあれば、森から帰ってきた者が疑われましょう」

 マーガレットさまの笑顔は、あくまでも高貴で慈悲深い。

 だけど、何か、怖いことをおっしゃった気がする。

 エドガーさまは納得なさったのか、穴あきは捨てた。綺麗などんぐりだけ拾う。

「姉上、きれいな花! 絶対にあれは姉上のために咲いてたんだよ」

 エドガーさまは得意満面に可憐な花を捧げる。

 木々が開けたところは草が刈ってあり、青々とした匂いに満ちていた。おそらく前日に、森番が整えてくれたのだろう。

 樫の老樹が聳えていた。

 なんたる巨大な幹だろう。小屋ひとつより大きいのではないか。街道で見かけたどんな巨樹より立派だ。他の木々がないため樹冠は伸び伸びと広がり、天然の城のように威風堂々としている。

 まさに王者の風格だ。

「ドラゴンっぽい!」

 エドガーさまは最上級の歓喜を上げ、全力で老樹に駆けていく。

 古びた幹には、深い洞があった。

 エドガーさまとジョンがふたりで入るには、ちょうどいい隠れ場所だ。秘密の隠れ家を見つけたように出たり入ったりする。

「すごい! 涼しい! こんな良い場所、どうして内緒にしていたの? おれ、もっとここで遊びたかったな。兄上いないし」

 エドガーさまの歓声にジョンも頷く。

 夢中になって遊ぶふたり。

 俺は敷布を敷いて、合切袋や水筒を下ろす。

 マーガレットさまは敷物に腰を下ろしたが、微かに物憂げだった。

 侍女のリチェンダが目ざとく寄りそう。

「日差しが強いのでしたら、ヴェールがございます」

「ありがとう、歩き慣れない道で疲れただけです。それよりエドガーから貰った花、水をあげねば萎れてしまいます。悪いのですが、館に戻って水差しに飾っておいてくれます? それと帰ったらロベージの葉が入った足湯をしたいので、用意して下さい。レナルドを連れていけば危なくもないでしょう」

「畏まりました。ご用意が出来ましたら、葦毛を連れてまいります」

「そうね、そうしてちょうだい」

 リチェンダがレナルドに声を掛けて、館へと向かう。

「今度はメアリの花だ。騎士たるもの、ご婦人に捧げる花がいる」

「うん。母さんはちっちゃくて香りが良い花がいいな」

 ふたりは母さんを引っ張って、花を探しにかかる。 

 可愛らしい光景だが、マーガレットさまは顔を曇らせていた。足をさすっていらしゃる。

「………マーガレットさま? もしやお怪我を? 挫いたのですか」

「平気です」

「やはりお怪我されたのですね」

 リチェンダに薬草入りの足湯を命じたのが唐突で、不思議に思っていたのだ。

 痛みがあるのだろう。

「駄目です。せっかくエドガーもジョンも楽しそうなのに、わたくし独り帰るのは………」 

 ああ、独りで安静にせねばならぬと思ったから、黙っておられたのか。

 明日か明後日には、エドガーさまとジョンは旅立つ。

 そしてマーガレットさまは来年か再来年には、嫁ぎ先が決まるだろう。

 この長閑な子供時代は、今日限りかもしれない。

「ジェイデン、本当に大したことはないのです。石を踏んだだけです」

「見せて頂けますか?」

 躊躇いながらも、そっとチュニックの裾を上げる。

 金細工のバックルが付いた革靴だ。甲の刳りが深く、華奢なストラップだけで足を包んでいるようなものだった。宮中ならば相応しい瀟洒さだが、森歩きには不向きだ。

 ストラップの隙間、毛織りのストッキングが切れて、朱が滲んでいた。 

 血だ。

 急いで瀟洒な靴を脱がせる。

「石が食い込んでいるではないですか」

 想像より酷い傷だ。

 このままでは傷口が膿んでしまう。

「失礼」

「えっ………」

 革のガーターを解き、ストッキングを脱がせる。

 やはり小石が柔肌に食い込んでおられた。

 小さなかかとを掴み、傷を吸う。

「………ぁっ」 

 マーガレットさまが微かな喘ぎを漏らした。

「ゃ、ジェイデン……だ、だめです」

「痛いでしょうが、我慢してください」

 俺は狭い傷口に舌を這わせて、小石を吸う。

「あ、ぁ」

 尖った小石を吐き捨てた。

 そのまま口を離せばいいのに、俺の唇と舌は名残惜しいとばかりにマーガレットさまの傷に触れ続けた。いや、傷でないところまでも。

「……ぁ…ジェイデン」

 名を呼ばれ、手を離す。

「………ジェイデン、そなたは、ああ」

 伏しているマーガレットさまから、悩ましげな吐息が零れる。青い瞳は潤んで、チュニックの胸元を握りしめていた。

「母を呼んできます。塗り薬がありますから、館に戻らなくても大丈夫ですよ」

「ジェイデン、その……メアリには大袈裟に伝えないで下さい」

「承知しております」  

 足早に母の元へ向かう。

 


 ああ、マーガレットさまのおみ足は、なんと小さく柔らかったのだろう。俺の手のひらに、すっぽり包まれてしまうほど華奢な足だった。それにあの絹ともパンとも異なる柔らかさ。

 あんな可憐な足で、歩いていらっしゃるのか。

 艶やかな肌の馨しさを、俺の指と舌は覚えてしまった。

 

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