18話 夏の旅路
旅立ちに相応しいのは夏だ。
秋はぬか雨でぬかるみが続く。
冬は凍てつくか雪に閉ざされる。
春は食糧が乏しい。
やはり夏こそ門出の季節だ。
ご領主さまご一家は、もう昨日にご出立された。
騎士らを引き連れ、領臣の荘園で裁判を片付け、修道院でミサを挙げて宿坊に泊まり、街道や橋の整備具合を視察しながら明るいうちだけゆるりゆるりと進まれる。
だが荷運びは、一日で狩猟館まで辿り着かねばならぬ。
太陽はまだ眠っている。
藍の空に、黒く陰った裏門。花盛りニワトコの白さだけがぼんやりと灯っていた。いつもは目立たぬニワトコも、夏を知らせるときだけは可憐に咲き誇っている。
空が目覚めぬうちに荷運びの一団は下庭に馬を引き連れ、荷馬車を出していく。手元が暗くて、俺はまごまごしてしまったが、慣れた人間が支度を勧めていった。
「無理すんじゃないよ、ジェイデン」
ペトロニラは見送りに相応しくない厳めしい顔になっていた。
素焼きの小瓶を渡してきた。
「腹を下したら、これを煎じて飲ませな。切り傷の軟膏はこっちの貝殻に、蛇に噛まれたらこの瓶だからね。間違えんじゃないよ」
「匂いで分かるよ」
みんなのための薬を渡される。
合切袋はずっしりと重いが、いざとなったときの安心と思えば担いでいける。
母さんは俺のために出立前に聖ヨハネのベルトを編んでくれた。夏至に摘んだよもぎを腰に巻いて、矢筒を背負い、弓を携えれば旅支度は整った。
「ペトロニラは独りで大丈夫?」
「馬鹿だね。城の五分の一はご領主さまと出立なさるんだ。そんくらいの人数、なんとかできないペトロニラ婆ァじゃないよ」
俺は荷運びだけど、母さんはご領主さまに随行している。エドガーさまとジョンの乳母役として。
だから調薬小屋にいるのは、ペトロニラ独りだけ。
「でも葺き替え職人が増えてるじゃないか」
「大した人数じゃないね」
結構な人数だ。
ご領主さまご一家がご不在の間、城代の指揮で屋根の葺き替えがされる。もう下庭では一昨日から、膝に当て革した葺き替え職人たちがやってきて、縄や銅板、足場木材を運び込んでいた。
大掛かりな作業。
起きる事故。
ペトロニラが忙しくなる。
俺の顔から出ていた不安を、金壺眼が突き刺してきた。
「馬鹿。このペトロニラ婆ぁの心配より、自分の心配するんだね。あんた、遠距離を旅するのは初めてだろ。体力があるからって配分を間違えるんじゃないよ。ほら行きな」
ペトロニラに押し出されるように、俺は夜明けの城を発つ。
何台もの荷馬車を御し、領主館を目指した。
先導する騎士。
その傍らにはレナルドもいた。
今年の夏に念願の盾持ちなったレナルドは、鼻穴を膨らませて焦げ茶の乗用馬に跨っている。銀の拍車をこれ見よがしに、かしゃかしゃ鳴らしていた。
しんがりでは、弓兵長のロジャーが雑役夫たちをまとめていた。
俺は初めての旅だけど、ロジャーは手慣れたものだ。荷運びがひとつも外れないよう、意識を行き届かせている。
「ジェイデン。兵士を目指すなら、荷運びを学べ。ご領主さまが遠征された時、食糧や矢を無事に届けるのも大事な任務だ。特に戦争なんかしてりゃ、どこで横から矢が降ってくるか分かりゃしねぇ」
ロジャーの采配をすぐ横で聞く。
旅は順調に進み、太陽は南天に座してきた。
弟切草が黄色く咲いている道が続く。傷の軟膏に使う花だ。いくらあっても足りない植物だから摘みたいけど、そんな余裕はない。
「ジェイデン。あのでっけェ樫から、狩猟館の荘園に入る」
街道沿いを下っていけば、大きな樫が聳えている。
木陰のあたりは、八重葎となって川の水が届いていた。灌木や葎の緑陰に守られているためか、せせらぎは思いもよらぬほど澄んでいる。驢馬や馬に水を飲ませ、蹄に怪我がないか確認しながら泥を掻き出す。
それからやっと休息だ。
みんなは昼餉の代わりにくるみを齧り、大きな革水筒から湯冷ましを回し飲みする。
くるみを噛みながら、俺だけこっそりと干した棗椰子を味わった。
舌の根元まで滲む甘さ。まるでペトロニラのシロップが果実として結ばれたようではないか。聖地から齎された甘露を、今頃はマーガレットさまもお召しになっているのだろうか。
オルガンを奏でる指先で抓み、真理を語る唇で、聖地の果実を食む。
マーガレットさまを想うと、胸郭の裏側から落ち着かない気分が沸き上がって来る。
陽射しに乾くような、あるいはせせらぎに潤うような、不思議な心地。
「おい、ジェイデン! 出立だぞ」
「ごめん」
狩猟館は遠い。
休憩も驢馬や荷馬のためであって、俺たちのためじゃない。
坂道や隘路だと荷車を押したり留めたりしたが、地べたが程よく乾いているから踏ん張りがきいた。もしも濡れていれば泥に囚われ、乾きすぎていれば土埃が目や鼻に入る。
天気も地面も風さえも、旅に最適だ。
「良い日よりだね」
「あァ、馬の呑み水が浅いが、遠回りして水場探すってほどじゃねェな。水が枯れてなけりゃ日暮れには到着する」
弓兵長のロジャーが、俺の独白に相槌を打つ。
「街道沿いの川が干上がっちまったら、馬の水飲みにとんでもねぇ遠回りしてるところだからな」
「詳しいね。狩猟館には何度も行ったの?」
「つーか、オレの故郷だ。土地勘のあるやつが供回りするもんだからなァ。供回りの半分くらいは地元の連中だ」
「じゃあ懐かしい光景なんだね」
浅い川の向こうには、なだらかな畑が続く。
刈り込まれた牧草畑に、刈り込みを待つ麦畑だ。白く重たげな麦穂は豊かに揺れる。
「いやあ、懐かしいってのは無ェなあ。開拓されちまったからな。オレのじいさまがガキの頃はここ全部、森だったんだ」
「この畑ぜんぶ?」
見渡す限りどこまでも畑が続いている。
地平の彼方には喬木が点在しているけど、ここが森だったなんて信じられない。
「ああ、けどなァ城を増築するために、そりゃもうすげェ大開拓されたんだ」
「お城って増築したの?」
「鍛冶場と厩に壁を巡らせたんだよ。あそこはずぅっと昔、中庭じゃなくて下庭だったんだ」
「そこを中庭にするために、森ひとつ無くなったの?」
「ああ。木材は梁だの扉だのだけじゃねぇ。城の普請にゃでかい栗鼠の回り籠が欠かねぇだろう。足場もな。大量の木材がいるのよ。だからオレのガキの頃は寒くなってきたら、朝早くから木こりがカーンカーンって甲高い音を鳴らして、製材師が枠のこぎりをふたりがかりで挽くんだ。オヤジは製材していてな、盆の窪から鼻の穴まで木くずまみれで毎日かえってきた………」
ロジャーは語りながら、遠くを見射る。
焦点が合っていない。眼差しの先は今ここじゃなくて、過去の思い出なんだろうか。
「森はまっ平になっちまって、今じゃ行けども行けども畑ばかりだ」
風が通り抜けていく。
斧の甲高い鳴き声も、のこぎりの低い唸りも、もう聞こえない。あるのは麦のさえずりだけ。
「寂しい?」
「ちっとばかりなァ。だが狼が減ったのはいいこった。羊が飼いやすい」
他愛ない話を交わしながら、旅路を進んだ。
日暮れが迫ってきたころに、森へと足を踏み入れる。喬木も灌木も生い茂る深い森だ。
「無法者とか狼がいそうだね」
街道と違って隠れる場所が多い。
こういう場所は、追いはぎが潜んでいるものだ。
「緊張すんな。こっちの人数が多けりゃ、追いはぎだって襲ってこねェよ。だが足場を常に意識しろよ。城と違って木の根っこや草が邪魔だ。草むらから蛇の不意打ちもある。足を滑らすと矢が明後日に行っちまうからな」
「うん」
森の地面は苔だの泥だので滑りやすくなっていた。それに藪も多い。
気を付けて歩いても、茜が途切れればさらに覚束ない。難儀しながら進めば、ようやく踏み固められた道に辿り着いた。
遠くに火の光。
やっと館だ。
先発隊はすでに清掃を終えて待っていた。
「長旅ご苦労さんだけど、もうひと踏ん張りだ。大鍋や樽は厨房小屋に下ろしておくれ。銀器だの陶器だのは、執事が立ち会うまで荷は解かず待機だ」
采配されるがままに、荷物を下ろせば、夜もどっぷり暮れていた。
体力は絞り切られて、もう一滴も残っていない。
納屋の土間で、みんなぐったりと伏す。
「さあさ、苦労さん」
狩猟館の奉公人たちが、俺たちにエールを配り、手洗い足洗いとして盥に水を満たしてくれている。汲みたての水で聖ヨハネのベルトを煎じて足を浸せば、疲れが和らいだ。
一日歩き詰めで乾いた喉と疲れた足には、まったくありがたい恵みだった。
ロジャーも気持ちよさそうな声を出す。
旅の埃を洗い流しているうちに、館の使用人たちがポタージュを配り始めた。
遅い夕食は悪徳だけど、長旅の夜は特別みたいだ。
ポタージュにはえんどう豆やひよこ豆がたっぷり、塩漬け豚のきれっばしが入っていた。添えには種無しパン。ポタージュの強い塩気が、疲れた四肢へ染みる。種無しパンで椀をぬぐって、ぜんぶ腹に詰め込んだ。
濃厚なポタージュは、糊のようにどっしりと腹に溜まってくれる。
食事が済めば、みんなすぐに藁布団に直行した。
雑談を交わしている人もいるけど、そんな気力も体力も残っていない。夜明けから夕暮れまでずっと歩き詰めだったから、俺だって同じだ。
でも夜中に目が冴えてしまった。
歯磨きだ。
子供の頃はペトロニラに言われていやいやしていたけど、最近は一日に一回は歯を磨かないと気持ち悪い。
合切袋を握り、納屋の勝手口から外へ抜け出し、井戸まで行く。角の磨き粉入れはどこにやっただろう。明かりひとつ無いので目が慣れるまで待つ。
暗闇の手探りで歯を磨いていると、納屋から誰かやってきた。不揃いな足音はロジャーだ。
「ジェイデンか? なにこそこそやってんだ?」
口を濯ぐ。
「歯磨きだよ」
「おいおい。貴婦人じゃあるまいし、んなことしてどうすんだ?」
「瘴気が生じないようにするんだよ。口の残った滓が瘴気になって、何年もほったらかしにしていると歯とか歯茎が蝕まれるんだ」
「ペトロニラのお説教か。わけのわからんババァだな」
大仰に肩を竦められ、俺はちょっとむっとした。
口さがないとか怒りっぽいって悪口なら否定できないけど、薬師の腕前は侮られたくない。ペトロニラは比類ない癒し手だ。
「分かると思う。歯磨きしてたら虫歯にもならないって」
そう言うと、ロジャーはやたら眉を顰めた。
「怪しいもんだが、それが事実としてだな、ジェイデン。人間生きてりゃ、死ぬ。老いりゃ虫歯になるもんさ。それは自然の摂理だろう」
自然の摂理。
そうなのだろうか。マーガレットさまが語る摂理とは何か違う気がしたけど、どう言えばいいのか俺には分からない。
黙っていると、ロジャーは言葉を継ぐ。
「考えてもみろよ、年寄りがずっと歯がぴかぴかで物が食えるって、そりゃみっともないし罰当たりってもんさ。虫歯は暴食を抑える神さまからの祝福だ。嫌だからって逃げていいわけじゃない」
「じゃあどうして抜歯屋がいるの」
「暴飲暴食の罪の贖いから逃げてるんだよ。お前さんも賢いからそのうち分かるさ。虫歯だって、神さまが与えてくれる贖罪のひとつだってことは」
真剣な嘯きを残して、ロジャーは厩の方へと行ってしまった。見回りしていたのか。
俺の胸郭に言語化できない靄が渦巻く。
うまく言えないけど、歯磨きはした方がいい。
虫歯になったり、抜歯屋の厄介になって奥歯が無くなったら、弓が絞れなくなってしまう。そしたらエドガーさまとジョンを守れない。
それは嫌だ。
ロジャーはいつも頼りになって優しかった。俺の呑み込みが良かったかもしれないけど、弓を教えてくれる時に罵声や拳骨は飛んでこなかった。
だけど分かってもらえないこともあるんだ。
世の中、完璧に信じられる大人って、そういやしないのかもしれない。




