16話 聖なる権利を掴むのだ
復活祭も過ぎて春もたけなわになってきた。
腕白なふたりは、陽だまりで遊びたがる。
今日は手押し車にエドガーさまを乗せ、ジョンを肩車して、中庭を駆け巡る。
「進め!」
エドガーさまが修練槍を振り回して命じれば、俺は全力で手押し車を走らせた。
風を切るほど速く速く。
「海を目指し、疾く進め! 港に我らの船があり!」
「畏まりました」
導水路の橋を渡り、池まで進む。
断食日の魚を飼っている池は清らな水を湛え、風まで水気を孕んでいる。吹き抜ける風は、汗ばんだ俺に心地よかった。
「われらの船に乗り込むぞ」
「はい」
肩車されていたジョンが、俺の頭の上をでんぐり返しして手押し車に飛び乗る。
首がもげるかと思った。
「聖地エルサレムに出航!」
俺は養魚池の周りで、手押し車を押し続ける。
「サラセンどもの異教徒に、ふふふんふふふ~、屍に屍を八重二十重~、鮮血四方を朱に染めて~、鎖帷子、籠手までも~駿馬の胸まで染めりけり~ふふふんふふふー、ふふふんふー」
エドガーさまとジョンが上機嫌で合唱する。
気分は帆船に乗りこむ十字軍騎士なのだろう。勇ましいことだ。
しかしふたりとも大きくなってきたから、手押し車を押すのも一苦労だ。正直、手首が痛い上、二の腕は腫れそうで、背中まで歪みそうだった。
腕が爆ぜないうちに飽きてくれないだろうか。
願いもむなしく、エドガーさまは楽しそうに修練槍を振り回している。
中庭の扉が開く。
外側へと続く扉を開いたのは、厩番のニコラスだった。馬に蹴られた古傷が顔についている男だ。
手には豚の膀胱。
「あっ! おれのボール!」
「やっぱりエドガーさまのボールですか、鍛冶場まで流れてきてたんスよ」
「鍛冶場? ペトロニラの家の前でどっかいっちゃったのに?」
「養魚池の水って外壁の下を通って、鍛冶場んとこの濠まで水が流れているんスよ」
そうなっているのか。
俺は濠を浚う賦役に参加していないから、構造は知らなかった。
本来だったら農奴である俺も真冬に濠浚いをするべきなのだが、若君とジョンのお守り役として、賦役は免じられていた。かなりきつい賦役だと聞いたことがある。
エドガーさまとジョンの視線が、養魚地に注がれていた。
「いけませんよ、危ない」
水に潜りたそうにしていたふたりを押しとどめる。
開いた扉から、蹄の響きが聞こえてきた。砂利を潰すような重々しさからして、屈強な軍馬だろう。
城内で軍馬に跨るのはただ一人、老騎士ゴドフリー殿だけだ。
「我が盾持ちよ、あれなるはなんの響きぞ」
ボールを抱きかかえたまま、きりっと問うエドガーさま。
「サラセンの君主ではありませぬか」
きりっと受け答えするジョン。
「では偵察に参ろう」
俺は手押し車を押して、扉をくぐり、いちばん外に近い中庭へと進んだ。
池のほとりと馬の近く、どっちも危ないが、厩番のニコラスがいるならまだ厩の方がマシだった。
藁が香る厩に入り込む。
駿馬や儀仗馬たちの鼻先を抜けていけば、大柄な人影が視界に入る。
ゴドフリー殿だ。若い騎士らと話していた。
「その日は毎年晴れておりますゆえ、若君が騎士修行に出立する日にも相応しかろうかと」
「デレク卿とパウルズ伯へ使者をお送りして……」
騎士修行。
その単語に、エドガーさまは手押し車から身を乗り出した。
車体のバランスが崩れて慌てて支える。
間一髪転ばなかったが、エドガーさまを制止させられなかった。ボールを投げだし、矢のようにゴドフリー殿の元へ駆けていく。
「決まったの! おれの修行!」
「これはこれは、若君。ご機嫌麗しゅう。若君の修行先であるパウルズ伯からお返事が届きました」
「母さまのご実家だよね。叔父上のところで修行するの?」
「ええ。パウルズ伯も若君が来るのを、心待ちにしておられます。それと若君だけでなくジョンの修行先も決まりましたぞ。めでたいことです」
ゴドフリー殿は髭を揺らして笑う。
だがエドガーさまの白い膚が、さっと青みを帯びる。
「……ジョンの修行先?」
「ジョンが上がるのは、デレク卿の荘園です。覚えておいでですかな? お父上といちばん仲の良い従弟で、馬の扱い長けた騎士であらせられる」
「父上はどこにおわす?」
「法廷館で裁判の支度を……」
言われるが否や、エドガーさまは駆けだしていた。向かっている先は法廷館だ。
俺はジョンを抱え、追いかけた。
法廷の広間では、ご領主と代官が何やら話し合っていた。普段ならけして邪魔などなさらないエドガーさまだったが、今日はわき目も降らず飛びつく。
「父上!」
「どうした、そのように血相を変えて。高貴なるものは容易く狼狽してはならぬと……」
「ジョンはおれと一緒に、叔父上の城に上がるんじゃないの?」
エドガーさまの騎士修行は、お母上のご実家であるパウルズ伯の城で行われる。
騎士として修業するなら、主家筋か母方の親族に預けるのが常だ。
正当なご子息たるエドガーさまなら、母方のお血筋の方々に歓迎される。パウルズ伯のお人柄は知らぬが、ご自身の甥御が立派な騎士になるのは喜ばしきことだろう。
だが庶子であるジョンを預けても、けして良い顔されない。良い顔されないどころか、影で良くない仕打ちを受けるかもしれない。
ご領主さまもご懸念あそばされ、親交深い従弟ぎみにお預けになるとお決めになられた。
それを理解しておられないエドガーさまは、泣きそうな瞳と声で叫んでおられる。
「嘘だよね、父上! 修行するお城が、ジョンと一緒じゃないなんて嘘だよね! ジョンと同じ城で修業したいよ」
「そのことか。わしの勇ましくも佳き息子よ。騎士たらんと欲するならば、独りで故郷遠く離れ、不慣れな場でも毅然と振る舞えんと。戦場に赴くとはそういうことだ。わしも父もそのまた父もその父も、先祖代々、そうして修行してきた」
「いやだ! おれはジョンと一緒にいたい!」
「頑是なく嘆くでない。従弟のデレクはパウルズ伯に忠義を誓っておる。何かの折に会えるだろう」
「………」
数秒後、エドガーさまは頷いた。不服そうな顔のままで。
従者付きで騎士修行する子弟がどこにいよう。それはそれとして理解できても、ジョンと引き離されるなど納得できないのだろう。
エドガーさまはジョンの手を握って、とぼとぼと法廷館を後にする。
ふたりは物心つく前から一緒だ。
切り離されるなど思いもよらぬ事態だったのだ。
俺もついていくだけしか出来ない。どんな慰めを語ればよいのか分からぬ。
ゴドフリー殿が待っていた。
厳めしい老騎士は、エドガーさまの前にかしずく。
「エドガーさま。騎士に叙するは、王や教皇とて出来ぬこと。騎士だけの聖なる権利なのです」
「それが、なに……」
「お父上はジョンを準騎士としてまで支援して下さります。ですがエドガーさまが立派な騎士になれば、ジョンを騎士として叙せるでしょう」
「おれがジョンを騎士にするの?」
不服げだった眉が開かれる。
「ええ、叙任の儀も臣従の儀もできましょうぞ。ただそうなるために若君は賞賛に値する騎士にならねばなりません。誰に騎士にしてもらったかは、誰が親であるかと等しいのです。エドガーさまが誉れ高き騎士となり、ジョンを叙して臣下となせば、誰もがジョン・フィッツライオネルを厚く遇するでしょう」
「ジョンもみんなに尊敬されるんだね」
その瞬間のエドガーさまの笑顔ときたら、ひばり翔ける空ほど目映かった。




