2話 老いたる商人の断末魔
俺の初陣はダンバー。続いてスターリング、そしてフォルカークの戦火、カラヴァロック攻城戦を生き延びた。
戦場はヒースとあざみの曠野だった。
霧で一寸先さえも覚束なく、にわか雨が降ったかと思えばやみ、虹が架かる北の異郷。
行軍も厳しく、三代持つほどの革靴でさえ三ヶ月で擦り減る。
戦はなおも厳しい。にわか雨と等しく矢が降り、屍は水溜まりに折り重なり、生命の塊たる軍馬も転倒し、立派な鎖帷子の騎士さえも死に呑み込まれていった。
息をすれば、血臭ばかりが肺腑を満たした。川を渡るため友の屍を踏み台にして、骨を見捨て進んだのだ。
カラヴァロック城を攻めれば、石は無限に投げつけられる。騎士や歩兵の兜が割れて、目の前を飛ぶものが石飛礫か血飛沫か区別つかぬほどだった。
そして俺は死神ではなく、スコットランド兵に囚われた。捕虜になり指を潰されて、弓兵として役に立たなくなり、戦場を辞した。
すべてを投げ打って彷徨った。
あの地獄からジャスパーの前へ導かれたのは、地獄に堕ちてもなすべき責務あったからだ。
天国に昇るのは、己が徳ゆえ。
俺がマーガレットさまを楽園へ誘えるはずもない。
だが楽園へ連れていけずとも、愛するものを地獄から救うことは出来るはずだ。
マーガレットさまとジャスパーは、真珠のように清らかに生きてくれ。
血で汚れるのは、俺だけだ。
ウォトリング大街道を一日休まず歩み続ける。
バストン荘園が近づけば、地元の人間に見られぬよう道を外れた。
冴えた風に恵まれた夕べは、家の中より心地よい。深酒を聞し召した男の酔い覚ましや、恋人たちの睦言に打って付けだ。通りの近くは、誰か出歩いているだろう。
沮洳地に捕らわれながらも進み、魚簗が築かれている川を遡っていく。浅くなった川を覆うほど繁る葦や柳は、俺の影を隠してくれた。
葦を通り過ぎていくそよ風は、頬を撫でて、髪を梳いて、夜へと吹いていく。
なんと優しい夏の宵だろう。
これから罪を犯す俺に、世界の美しさを教えてくれている。
罪を犯せば世界が美しいと思えなくなるかもしれない。だがそれでも俺は成さねばならぬ。
神よ。
すべてを終えたら、俺は改悛の巡礼に赴こう。
神への感謝しか口にせず、素足のまま、ただ祈りだけを抱いて歩もう。
目的のバストン荘園の屋敷に到着した時には、夜も更けすぎるほどに更けていた。すべては寝静まり、音を立てているのは水車小屋ばかり。
闇を掻き分けるように、荘園屋敷に近づく。
月に照らされて聳える影は、石造りの屋敷だった。
夜空を刺すよう伸びた煙突には、テラコッタの装飾笠。二階へと続く外付け階段には屋根が葺かれ、その下のアーケードには泉が作られていた。夏を過ごす別邸としては、この上なく心地よさそうだ。
三階の窓からは、明かりが漏れている。
窓に張られているのは、驚くべきことに硝子だった。羊の角でもなければ、獣脂をぬった羊皮紙でもない。硝子の奥には、蝋燭の明かりがちらちらと揺れている。
硝子窓に蝋燭。
そんな度を越した贅沢が許されているのは、屋敷の主しかいない。
擦り切れかけた腰提げ鞄を開く。
ほくちの三つ揃い、歪んだファージング硬貨と、四分の一になったペニー銀貨。髭剃り用の軽石、弓に張っていた弦がひとまき。革製のジョッキとポタージュ用の木椀、角匙、それから食事用のナイフだ。
肉の筋を切るための短い刃だが、老いさらばえた商人の頸動脈を搔き切るだけなら、十分過ぎる。
蝋燭が灯っているなら起きているだろう。
夜半を過ぎているのに、まだ金勘定をしているのか。あるいは書類か手紙でも書いているのか。
息を潜めて待っていても、蝋燭が消える気配はない。
初夏の夜は短い。
このまま朝日が差し込んでくる方が厄介だ。
物音はしない。奉公人たちは夢に沈み、現にいるのは老人ひとり。
それも戦うすべどころか、踏み鋤や大鎌を使ったこともなく、枠鋸やかんなを扱ったこともない老人。鵞ペンと貨幣しか知らぬ手のひらに、何を臆する事があろうか。
俺は外付け階段の屋根へよじ登った。
テラコッタの瓦を鳴らさぬよう屋根を上がり、たったひとつのバルコニーの縁を掴み、屋敷へと入り込む。
鍵はかけられていなかった。
屋根から突き出た煙突の位置で、内部の構造は予想できる。
奥へ、奥へと廊下を進む。
光が漏れる部屋。ほっそりした蝋燭がひとつ灯っていた。
壁の一面を陣取っている大型の暖炉は、綴れ織りによって塞がれていた。か弱い光にしか照らされていないが、織り目の細やかさからして、おそらくはフランドル製だろう。貴族でも何枚も持てない貴重品だ。
その部屋に、動く影はひとつもない。
息を殺し、足音をさせず踏み入る。
蝋燭は手紙を封蝋するためのもので、かなり細い。
机の上には使い込まれた算盤に、読み書き台が置かれ、鵞ペンや骨製の尖筆が差し込まれていた。象牙彫刻の筆箱は開かれたまま、砂箱も蓋が浮き、犢皮紙は広げられていて、いかにも物書きの途中だ。
イタリア語が綴られている。
俺は声に出さないよう喉に力を入れて、目だけで文字を読む。
神の聖名において、1305年洗礼者ヨハネ誕生の祝日
我はハンザ同盟ロンドン商館より、ジェノヴァ貨1,420リーブル12スー受領
プロヴァン貨1,000リーブル、シャンパーニュ・トロア夏市にて公正決済完了日までに、我は我により、また我の使者により、汝または汝の使者へ返還すと誓う
もし誓いに我が背くことあらば、聖ミカエル祭までにハンザ同盟ブリュージュ商館長に支払うものなり
またさらに背くならば、プロヴァン貨2,000リーブルをブリュージュ商館長に支払うものなり
汝に神のご加護があらんことを
為替状か。
他にも木割符の支出財源指定割符や納戸部債券などが、紐でくくられている。
スコットランドとの戦争でも、国王陛下の騎士たちが戦費を支払いのため振り出していた。
割符や債券の日付は、ずいぶん先のものばかりだ。老商人が額面以下での買い取ったものかもしれない。
為替の他に、ろうそく競売の手紙や、複式簿記も開かれている。
ここは間違いなく商人の寝室だ。
だが、肝心の老商人は不在だ。
書き物をしている途中、何かの所用で寝所を抜けたのか。
そっとクッションに触れてみたが、体温は残っていない。羊毛が詰められたウーステッドは、死んだようにひんやりしていた。
おかしい。
クッションが冷たくなるまで部屋を離れるなら、蝋燭をつけっぱなしで置き去りにするわけがない。廊下も階段も、闇が煤のようにこびりついていたのに、明かりひとつ持たず椅子から離れるなど有り得るのだろうか。
書き物を中断したわけでもなく、眠ったわけではない。
寝台に垂らすカーテンは上がったままだ。寝台カーテンは、主人が眠る時に必ず下ろす。
それとも初夏だから、垂らさないのか?
俺が寝台へと踏み出すと、窓硝子から月明かりが深く差し込んだ。
まるでナイフが差し込まれるように鋭く。不意に。
月の青白さは寝台にまで届いた。
そこには白髪の老人が横たわっていた。六十を過ぎたような年寄りだ。
枯れ枝めいた指には、金細工の指輪が嵌っている。金線細工と粒金細工が組み合わされた渦巻き模様は、蝋燭の火を照り返し、月の光を含んでいた。
眠ってもおらず、起きてもいない。
老商人サースタン・ウォーターズは、苦悶の表情で死んでいたのだ。