11話 四大元素
ご領主さまが王都ウェストミンスターへ行かれてから、シャルウッドベリの城は秋の雨に包囲されていた。憂鬱この上ないが、天が相手では、どんな騎士も聖者も太刀打ちできぬ。粛々と祈るしかない。
小広間から中庭を見下ろせば、泥色に緩んでいた。導水路も濁流が溢れんばかりだ。
「あーあ」
俺の気鬱さを代弁するような呻きは、エドガーさまからだった。
エドガーさまは退屈そうに猟犬たちを撫でている。ジョンとチェッカーをして遊んでいたが、そろそろ飽きてきたのだろう。とにかく外で駆けまわるか、騎士ごっこがしたいのだ。
分厚い曇天と等しい溜息が吐かれる。
「導水路に葉っぱ船を流して競争させたら、絶対おもしろいのに」
「絶対にダメです、危険です」
ふたりから目を離した途端、本当に水が溢れる導水路まで行きそうだった。
絶対に行かせるものか。
小さな子供では溺れてしまう。
「じゃイタチ小屋に行きたい」
「あんな外壁に近いところへ行ったら、濡れてしまいますよ」
「つまんない!」
エドガーさまが癇癪を爆ぜさせた。
「兄上は吟遊詩人を独り占めしてずるいや。父上が居ないと偉そうにしてておもしろくない」
現状、エドマンドさまは寝付いておられた。
長雨と寒気のせいか、すっかり体調を崩されて、かれこれ三日は寝込んでおられる。調子が良い時だけは無聊の慰みとして、吟遊詩人に竪琴を奏でさせていた。
「おれは武勲詩がいいのに、兄上は言葉の無い曲ばかり聞きたがる。つまんない。父上がいらっしゃったら、アレクサンドロス大王物語を聞けるのに!」
ひとしきり文句を飛ばす。
この城に吟遊詩人はひとりきり。
ご領主さまは執務と学問を重視し、享楽を好まれないため大道芸人らを置かれてないのだ。たったひとりの歌い手を奪われ、新しいごっこ遊びのネタがない。
エドガーさまはふくれっ面だったが、ジョンが抱き着くと途端に顔を緩ませた。
「でもおれにはジョンとジェイデンがいるからいいや。兄上は誰もいないもん」
「あまりそういうことを口になさらない方がよろしいかと……」
「ほんとのことだよ。兄上はひとりだ」
窘めていると、マーガレットさまがおいでになった。侍女のリチェンダも付き従っている。
「エドガー? 兄上がどうしたのですか」
「兄上が吟遊詩人を独り占めしてるって話。つまんない」
むくれたまま嘯く。
真実をではないが、嘘ではない。
「代わりになりませんが、わたくしのオルガンはどうかしら」
「じゃあ聞く」
エドガーさまがそう答えると、侍女リチェンダがすっと退出する。マーガレットさま愛用の抱えオルガンを取りにいったのだろう。
「ねえ、姉上。その本は面白い?」
エドガーさまが問うたのは、マーガレットさまの帯提げ書だった。白鞣しの革に、樫の紋章が箔押しされている。
帯提げ書は、得てして祈禱書だ。
面白いなどと問うのは不適切だろう。
「ええ、とても面白いですよ」
では祈禱書ではなく、詩集なのだろうか。あるいは楽譜か。
「じゃあ読んで」
「エドガーたちにはまだ早いかしら。大人の読み物ですから」
マーガレットさまは困ったように微笑む。
「………えっちな本?」
とんでもない発言を呟いたのは、ジョンであった。
俺は自分の背筋から、みるみる冷や汗を噴き出し、凍り付いていくのを感じた。
ジョンを抱えても、ひっくり返しても、発言は取り戻せない。
エドガーさまは目を白黒させて、マーガレットさまを見上げていた。
「そうなの? 姉上、えっちな本なの?」
「恋愛譚ではないわ」
貴婦人の微笑を翳らせず、穏やかに受け答えなさる。
「大人の面白い読み物ってえっちな小説以外あるの?」
なんとも偏った物言いをなさる。
いったい誰がこんな下世話な発想を、幼き子供たちに吹き込んだのか。首根っこを捕まえなければ。
俺は苛立っていたが、マーガレットさまは穏やかだった。
「これはバースのアデライートが記した『自然に関する諸問題』や、尊者ベータの『暦計算書』、大聖アルベルトの『被造物についての大全』などの覚書です。わたくしにとって興味深い文章を、備忘ために書き写しておいたのです」
「難しそう」
「ええ。でも大変面白いのです。地球が丸いことは習いました?」
「ちょっと聞いた。港では船の先端から見えてくる話でしょ。地面はほんとはまん丸なんだって。大きすぎて気づかないけど」
「では、もしも地面に穴を掘り、深く深く掘り進め、対蹠を突き抜けるほどの奈落を作って、そこに石を投げ込んだら、その石はどこに止まるのでしょう」
「………反対側に通り抜けちゃう?」
エドガーさまは首を傾げながら、思いついたことを口になされた。
「もし反対側に通り抜けて落ちていくのでしたら、どうして地球が浮いているのでしょう」
「神さまのお恵み?」
「もちろんすべて神が創造し、恵み給うたのです。ですがそれは摂理の説明ではありません。答えを言ってしまえば、地球の中心点に石は止まります。地球という不変の器は、土の元素によって成り立つゆえに比類なく重く、静止点となりうるのです」
「……?」
「……?」
「まず四大元素は知っています? 世界を構成する要素であり、逆に言えば四大元素に満ちていない空間は存在しません。この如雨露をごらんなさい」
小広間には鉢植えが置かれている。
すぐ横に水差しと水盤、それから如雨露。ベルの形をして、底に小さな穴が無数に開いている。
「この如雨露という器に、水という元素を入れるでしょう」
如雨露を水盤に沈める。たっぷり水を含ませてから、水盤から上げた。
底に穴が開いているため、シャワーとなって落ちる。
マーガレットさまが上の口を押さえれば、水はたちまち止まった。振れば水音がする。
中に水が入っているのに、水が下の穴から零れないのだ。
「魔法?」
エドガーさまは如雨露を受け取り、上の口を塞いだり開いたりして水を垂らす。
「いえ、世界の摂理です。水が如雨露から落ちれば、上の口から空気の元素が入って均衡を保ちます。ですが元素が入るべき入口を塞いでしまえば、新たな元素が入ってこれず水も出られないのです」
「…………?」
「…………?」
「元素は元素自身が好む性質に引き寄せられ、相反する性質からは逃れようとします」
「……………?」
「……………?」
「たとえば低きに留まる土は、高きへ昇る火とは相反する性質で、土は火から逃げようとする性質があります」
「………………?」
「………………?」
「土は低きへ引き寄せられる性質があるのですが、『低い』の定義とは『高い』の反対です。つまり天から離れゆきます。ゆえに土は地球の中心点に向かうのです」
「…………………?」
「…………………?」
「地球の中心、そこが物体の最終静止点となり、石を落とせばそこで停止するのです」
「……………………?」
「……………………?」
「……………………?」
もうエドガーさまとジョンは理解を放棄していた。
俺も理解できない。
大地が丸く、太陽も月も球体で回っていると、助祭からも教わった。
だがどうして落下しないのか、その理屈は習わない。
「姉上。ラテン語しゃべってる?」
「イングランド語ですよ」
「よく分かんないや」
エドガーさまとジョンは摂理への興味など芽生えず、如雨露の水を留めたり垂らしたりして遊び始めた。
外も雨模様だが、室内も雨とは。
「………ジェイデン」
マーガレットさまが俺に寄り添う。
「問いかけますから、忖度無く答えてください」
「はい?」
「わたくしのイングランド語は拙いでしょうか。叔母さまの城では、ほとんどフランス語でしたもの」
「あなたさまほど美しくイングランド語で語る貴婦人を、他に知り得ません」
「過分な賞賛です」
マーガレットさまは控えめに微笑んだ。
過分とは思えなかった。
貴婦人の落ち着きと知性を備え、聖母の慈愛を宿す姫君だというのに。
「心から美しいと思います。さきほどの話の内容は難しく、俺の理解の範疇を越えていましたが、語られるマーガレットさまは摂理をつかさどる天使ようでした」
「………そんな。叔母さまには、風変わりで姫らしくないと言われてばかりだったのに」
「マーガレットさまは姫君として完璧であらせられます。ですがそれと同じほどに、学者としての天稟をお持ちなのですね。人の身に余りある才気であらせられる。あなたさまの学者としての素質が、姫君としての気韻を侵すとは思えません」
蒼い瞳が、俺をじっと見つめていた。
一拍後、たちまちぱっと頬は朱に染まり、視線が背けられる。
「ありがとう……」
雨音が小広間に満ちる。
秋の沈黙にひたっていると、侍女のリチェンダがオルガンを抱えて戻ってきた。
マーガレットさまがオルガンを抱え、ふいごを羽ばたかせながら、鍵盤を愛撫していく。
優しい音色が膨らみ、雨音と混ざり合っていった。




