10話 秋に蒔かれた恋の種
ご一家は正餐も夕餉も、大広間でお抱えの騎士たちと供していた。
夕餉が終えられれば、団欒のため小広間へと移る。
俺はエドガーさまをお連れする。
ご領主さまは背もたれ椅子に身を沈め、珍しいほどくつろいで上機嫌だった。その樫色の瞳にマーガレットさまを映して、目映いものでも目の当たりにしたように微笑む。
「マーガレットや。書記たちがそなたの複写を読み、誤字の悪魔が一匹もおらぬと、目を見開いて驚いておったぞ。まさに神の御業と」
「わたくしに任せて頂けている書類は、急ぎではない懸案ですもの。神に祈りて綴れば、誤字の悪魔が入り込むはずはありません」
慎ましく落ち着き払った姿は、城を預かる貴婦人そのものだった。
「マーガレットや。そなたを娶るものは、幸せものだな。長き戦にも馳せ参じれ、遠き地にも視察に赴けるだろう。心強い奥方がいれば、たとえエルサレムへ征こうとも不安にならぬ。それどころが領地すべての騎士が、そなたに宮廷愛を捧げるに違いない」
「わたくしは夫からの愛を得られれば満足ですわ」
「欲が無いようにみえて、それがいちばん難儀かもしれんな」
「まあ、父上は母上を愛しておられたのでしょう」
「神に誓って」
ご領主とマーガレットさまは、ラテン語で語る。
奉公人に聞かせないために、貴族の団欒はラテン語だ。あるいはフランス語。フランス語が母語だという貴族は多い。
ラテン語が得意ではないエドガーさまは、一生懸命に聞き取っている。
実のところ、俺はうっすらと聞き取れるようになっていた。
最初は猟犬と同程度に単語を掴めるだけだったが、この頃は文章としての意味が分かるようになってきた。聞き耳を立てるのは不敬だと思いつつ、マーガレットさまが何を語られているのか、知りたかった。
和やかな団欒の中、エドマンドさまがやってくる。吟遊詩人と、サビナの実のつんとした匂いを引き連れて。
相変わらずお顔の色は優れない。だが青の双眸は、いつにもまして濃く冷やかだった。
「マーガレットは数年も経たず嫁ぐ身。農奴や境界を知ってどうするというのです。馬鹿馬鹿しい」
「兄上。たとえこの城で過ごすのがわずか数か月でも、いえ、数日でも領土を知っておきたいのです。民たちが困った時に、頼りになるのはわたくしたちなのですから。諍いや不運が起こるのは明日であるか明後日であるか、神しか知らぬです」
マーガレットさまは楚々と語る。
その言葉に頷いたのは、ご領主さまだ。
「エドマンドも書類の複写から初めてみぬか?」
「どうして私が?」
驚いて言い放った。口調の尖りといったら、サビナの実よりも尖がっている。
「書記の役割ではありませんか! 下らぬことを私に押し付けないで下さい!」
エドマンドさまは怒ってしまって、部屋に戻っていってしまった。
息詰まる小広間。病魔除けのサビナの残り香が、呼吸をしづらくしていた。
最初に声を上げたのは、エドガーさまだ。
「なんだよ、あの態度! 領民の暮らしがどんなことかって、跡取りこそ学ぶべきじゃないか! 兄上はやれないやれないばっかり言って、やれることを言わない。怠惰の大罪だ」
「エドガー。あれは幼い頃より病を得ており、挑もうとする一歩さえも難しいのだ。兄に対する敬意は忘れるでない」
「難しいからって、毎日、チェッカーとチェス? だいたい兄上がペトロニラを罰しなかったら、母上だって助かったかもしれないのに」
「エドガー! 口が過ぎる!」
さすがに叱咤が飛んだ。
勇猛な猟犬たちでさえ尾を丸める怒声であったが、エドガーさまは一歩も譲らなかった。むしろ威勢を強める。
「過ぎない! ジョンのところに遊びに行く! 今日は帰らないから!」
憤慨した勢いのまま、小広間を飛び出す。
俺はついていった。
今日は帰らないとおっしゃったのだが、小部屋はご領主が眠る大寝室のすぐそば、マーガレットさまがおわす居間のすぐ下だ。
「ジェイデン。姉上って母上にそっくりなんだって、ペトロニラが泣いていた。ゴドフリーも」
「ええ」
「賢くて優しくて美しくて、お身体は弱くても、領民を想う気持ちは強かったって。だったら母上が死ぬんじゃなくて……」
口の中で言葉を止め、静かに飲み干す。
エドガーさまは幼いが、さすがにそれ以上の言葉は紡がなかった。
「ジョンの母上が、おれの母上になってくれないかな」
「それは無理ですよ」
「みんなそう言うけど、どうして?」
「ええっと。いろいろと問題はありますが、寡婦産というものがあって、未亡人になったら夫の遺産の三分の一を得られるのです。ご領主さまと結婚するのであれば、その財産の三分の一を管理できるご身分と才覚が必要なのです」
三分の一は教会に。
三分の一は奥方に。
三分の一は子供たちで分ける。
「長男がぜんぶ持っていくんじゃないの?」
「貴族の長子相続は、親から継いだものは長男に継がせます。ただこれは慣習で、寡婦産が強いんですよ。大憲章によって守られた絶対権なのです」
「王国法と慣習法?」
「ええ、そうです。王国法は強いんです。寡婦産を受け取る母と、跡取りの長男が実の親子であればそれほど大きな問題に発展しませんが……」
寡婦の再婚も、大憲章によって自由が保護されているので、問題に発展しないこともないのだが、ややこしいので黙っておく。
「これが異なると問題を起こします」
「じゃあジョンの母上は、ジョンとジェイデンだけの母上だし、ジェイデンもおれの兄上になってくれないんだ」
それだけは理解してくれたらしい。
エドガーさまは黙っていたが、突然、うさぎみたいに走りだした。小部屋に飛び込む。
蝋燭がひとつ灯り、ジョンは今日やった授業の暗唱を、母に披露していたところだった。
「ジョン。遊ぶぞ!」
やけくそ気味に叫ぶ。
「うん! チェッカー? 兵士人形?」
「そんなガキっぽいのじゃなくて、もっとハラハラする遊び。ダイスを転がして、負けたやつの服を取っていくんだ」
下々の賭け事を提案され、俺は軽いめまいを催した。
貴族の子弟が戯れにでもする遊びではない。
それなのにエドガーさまの手には、ダイスが転がっていた。
「エドガーさま! 市の立つ日以外は、博打は違法です! 誰にそんなの教わったんです!」
「衛兵がやってた」
「駄目です。風紀が乱れます」
俺はダイスを没収して、窓枠の上に置いた。
「どうしてもやりたかったら、市の立つ日にしてください。それまでここで預かりですからね」
ふたりとも不服そうだったが、諦めてチェッカーを始めた。
チェッカーの勝敗がつきかければ、廊下から声が掛けられる。
部屋を覗き込んだのは、侍従だった。
エドガーさまが遊んでいるのを確認して、視線を母へと向けた。
「メアリ。ご領主さまがお夜食を運ぶようにと」
「……畏まりました」
母は手早く身づくろいして、小部屋を出て行く。今夜は戻らないだろう。
しばらく経てば、静かな寝息が二人分。亜麻布の敷かれた藁布団に寝かせて、ウーステッドの毛布をかける。
俺も寝よう。
蝋燭を吹き消そうとした直前に、足音が聞こえる。
入ってきたのは、マーガレットさまだった。しかもお独りで、手燭を持っている。
「どうして、こちらに? 侍女はどうされました」
「リチェンダは寝てしまったのだけど、エドガーが気がかりで。でも楽しそうな寝顔で良かったわ」
眠るエドガーさまに、おやすみのキスをされる。隣のジョンにも。
胸が至福で満ちる。
分け隔てなく優しい眼差しをそそぐマーガレットさまは、無原罪の聖母のように思えた。
「ありがとうございます……」
「昼間もどうして泣いていたのです?」
「嬉しかったからです。ジョンを、弟のように扱って頂いて」
「弟のようにも何も、ジョンは父上の血筋なのですから、わたくしの弟に他なりませんよ」
「ええ、ええ、ですが、とても嬉しかったんです」
言葉の代わりに涙が溢れてくる。
「そなたはジョンが大切なのですね」
「たったひとりの弟です」
「あら? エドガーは弟ではないのですか?」
「若君は若君です。お仕えすべきお方です」
「そなたの忠義まことに尊く、賞賛に値します。ですがわたくしの父上とそなたの母は、妻を亡くした殿方と夫を亡くした婦人として寄り添い、婚姻の誓いが無きにしろ結ばれたのです。神の目からみれば、そなたにとってエドガーも弟で、そしてわたくしも妹です」
「なんと畏れ多い事をおっしゃいます」
後ずさってしまった俺に、マーガレットさまはそっと近寄られた。炎が揺れぬほどの静けさで。
「ジェイデン。正直、エドガーたちが羨ましいのです。もしそなたがわたくしを妹として慈しんでくれるなら、これほど頼もしいことはありません」
言葉通りに受け取るほど、俺は愚かではなかった。
舞い上がりたくなる衝動を抑えて、緩む口許を引き絞る。
マーガレットさまは俺の立場を案じていて下さるのだ。
その慈悲に付け込んで、図々しい振る舞いをしてはならない。
「マーガレットさま。俺は貴女さまに、エドガーさまやジョンと変わらぬ献身を捧げます」
そう誓えば、マーガレットさまは微笑み、俺の頬に優しい口づけをくれた。
兄へのおやすみのキスのように。




