6話 騎士の剣とは何ぞや
盛っていた春は散りゆき、雲は夏の訪れで輝いている。
堀も川も水面はきらきらと太陽を映し、心地よい風を城の奥まで届けてくれる。それから賑わしい声も。
川の水が深い場所では、騎士が監督しながら、盾持ちが水練をしていた。それから小姓たちもいる。
目映い飛沫が乱反射して、城の中からでも目を引く。
城から出られないエドガーさまとジョンは、窓枠から身を乗り出して、外の輝きを眺めていた。
「おれもあっちに行きたい」
「水遊びなら、導水路に………」
「川遊びがいい!」
俺は身が縮む。
忌まわしい記憶が、喉までせり上がってきた。ちょうと今頃の季節、こんな天気で、上流のせせらぎで俺と母が暴漢たちと鉢合わせてしまった記憶だ。
反射的に否定してしまう。
「いけません! 外出はご領主さまのお許しがなくば……」
「じゃお許しもらってこよ」
止める間もなくエドガーさまは即座に全力で走り、ジョンは俺の腰に体当たりする。
なんとも息が合った見事な攻撃ではないか。
ここが戦場ならば、武勇と知恵を褒め称えたい。問題はここが戦場ではないということだ。
ジョンと手を繋いで、城主の大寝室に向かう。
天蓋付きの寝台が鎮座する大寝室では、衣裳部屋から運び込まれた衣服や靴が広げられていた。
ブリュッセル産の緋色の羅紗、キプロス産の絹、あるいはランス産の亜麻。
靴も彩鮮やかだ。手書きと刺繍で花模様が描かれた革の靴や、複雑な金糸刺繍がされた布の靴。爪先に詰め物がされた赤革の靴は、金塗りの革で切れ込みが縁どられ、翠の貴石をビザンティン風に填めたボタンが足の甲についていた。
もっとも目を引くのは、一枚のマントだ。
コンスタンティノポリスの紫で染められた高貴なマントだ。魚の尾を切り、その血で染めたと伝えられる紫は、不思議な深みを湛えている。鮮やかでありつつ濃い色彩に、誰もが息をのむ。
先代から伝えられ、裾が擦り切れているのを幾度も継ぎ当てて、遠目からは分からぬようになっていた。
ご領主さまの前で衣装係と侍従がそのマントを広げ、虫食いがないか確認していく。
「父上、また宮中へ向かわれるのですか?」
エドガーさまは寂しそうに問う。
あの高貴な紫は、宮中での宴に使うものだからだ。
「いや、今年は我が城にて騎士叙任式を執り行う」
「騎士叙任式!」
エドガーさまから曇りが晴れ、瞳が輝く。
この領地では数年に一度、聖霊降臨祭の日に盛大な叙任式を執り行われていた。
叙任の日取りが近くなれば、城の誰もが宴の支度に余念がない。
浮かれた空気と、張り詰めた緊張が、城を満たしている。
もっとも落ち着かないのは、騎士に叙任される盾持ちたちだろう。長い修行を終えて、騎士になる。待ちわびた日だ。
「どんなご馳走かな。おれは雉がいいな! サラセン風のやつ!」
エドガーさまはこの調子である。
「ジェイデン! 料理長に聞いてこようよ」
「忙しいんですから、邪魔したら駄目ですよ。楽しみにとっておきましょう」
エドガーさまは炊事塔へ行きたそうだったが、別の興味を惹くことができた。
鎖帷子を抱えた小姓たちだ。レナルド、ユワード、ハーワード、それぞれひと揃いずつ鎖帷子を抱えて、どこかに向かっている。
「レナルドたちも鎖帷子を着るの?」
「若君。騎士になる盾持ちの鎖帷子ですよ。叙任式のために洗うんです」
「洗濯場はあっちだよ。迷子?」
「鎖帷子は砂とふすまで洗うんですよ。だから行先は鍛冶場です」
「砂で洗うんだ!」
「ええ、まず砂を入れた大樽に入れて、擦って錆落としをします。その後、ふすまを詰めた大樽に入れて、かき回すんですよ。汚れを取って錆を防ぎます。若君も小姓として上がれば、嫌でもやらせられます」
「嫌なの? 早く盾持ちになれるといいね」
一番年嵩のレナルドは、来年か再来年には盾持ちとして抱えれるだろう。
「ええ! 盾持ちになれば、戦場での日給1シリングですからね!」
レナルドは瞳を輝かせ、拳を握る。
「………シリングってなに?」
周囲が静まり返った。
シリングってなにって………
まさかお金の単位をご存じではない?
たしかに俺も母も金銭の話など、エドガーさまに一度も振ったことはない。下世話な話題からは遠ざけていた。とはいえお金の単位さえ耳にせずに育っておられたとは、なんたることだ。
愕然としている俺と反対に、レナルドは面白そうに笑っていた。
「なかなか斬新な質問ですね。お金の単位です。この鎖帷子三着で、8ポンド13シリング……173シリングで買えます」
「1シリングってちょっぴりなんだね」
「鎖帷子が高額なんですよ。とはいえシャルウッドベリの若君からすれば、1シリングなどちょっぴりでしょう。騎士におなりあそばす時には何ポンドもする鎖帷子や、何十ポンドとする軍馬をご用意してもらえるでしょうね。では失礼致します」
やや皮肉を含んでいたが、礼儀は失っていない。
レナルド、ユワード、ハーワードは、鎖帷子を抱えて鍛冶場へと向かう。
エドガーさまもついていこうとするが、さすがに止めた。
「鍛冶場は危ないので、別のところに行きましょう」
「じゃあ池に行く。葉っぱの舟つくって! たくさん!」
「畏まりました」
俺はジョンの手を引いて、一緒に着いていった。
「兄さんは一季で1シリングだよね」
ジョンが唐突に呟いた。
年に四度の四季払いで、ペトロニラから1シリングを貰っていた。
金額に文句はない。下働きとしては良い方で、寝床と衣服と賄いが十分に出るとなれば恵まれている。悪辣な主人ならば、寝床と飯だけで給金など支払わないらしい。
だがジョンが俺の給金を知っていたとは思わなかった。
どうしてエドガーさまがお金の単位さえ知らないのに、ジョンは俺の給金まで把握しているんだ。
「兄さんは大人になったらどうするの。薬師? 読み書きできたら、侍医さまのところで勉強できるよ」
「弓兵に志願しようと思っている。薬師の下働きより給金が増えるし、弓は好きだ」
「そう」
ジョンは項垂れた。
「ぼくはどうなるのかな」
真剣な問いに、俺は何も答えられなかった。
ジョンはあやふやな立場だ。
城内ではご領主さまの庇護が厚く、身なりも食事も教育も、すべてエドガーさまと遜色ない。
とはいえ、ジョンがこのままエドガーさまと等しくいられるわけがない。
ご領主さまはジョンの将来をどうお考えなのだ?
「答えられなくてすまない。だがご領主さまはお前を蔑ろにはしないだろう」
ジョンを抱きかかえる。
暖かい重さだった。
城と中庭を結ぶ壮大な大階段。
大階段の踊り場には、天蓋付きの椅子が設えられ、ご領主さまが座しておられた。
紫のマントを緩やかに引き、黄金二対の菱形留め金で留めている。留め金を渡る飾り板も黄金細工で、その輝きを纏うご領主さまは、まさに膝を折るに相応しい威厳であった。
さらにフランドル産のタペストリーで飾られ、早咲きの薔薇たちが飾られていた。
階下には、白銀に輝く鎖帷子を纏った騎士見習いたち。
ほんの数日前まで、騎士見習いとして馬小屋や川の浅瀬で手足を動かしていたのに、今はもう威厳に満ちた騎士として整列していた。
そして着飾った騎士と親族たちが、大階段の両脇に陪席している。
晴れがましい儀式だ。
エドガーさまやジョンの後ろで、こっそりとその様子を眺めていた。
老騎士のゴドフリー殿がサーコートを翻してやってきた。
ご領主の右腕であり、城の総司令官である。平時には剣術や馬術を指南しているため、騎士たちの師匠として敬われていた。
ゴドフリー殿は壇上に立った。眼光鋭く騎士と騎士見習いたちを見下ろす。
「我は諸君に問う! 騎士の兜とは何ぞや!」
「それは名誉! 誉れを傷つける悪から守るものなり!」
問いかけに対して、騎士らは一糸乱れぬ唱和する。
答えは津波のように空気を震わした。
打ち震える空気の中、ゴドフリー殿は問いを継ぐ。
「騎士の鎖帷子とは何ぞや!」
「それは清冽! 悪徳に汚されぬものなり!」
「騎士の盾とは何ぞや!」
「それは責務! 守るべきものために身を呈するものなり!」
「騎士の鎖靴とは何ぞや!」
「それは試練! 悪を滅するがための道を歩むものなり!」
「騎士の拍車とは何ぞや!」
「それは勤勉! 馬駆ける如く戦に挑むものなり!」
「騎士の頭絡とは何ぞや!」
「それは理性! 蛮勇を御したるものなり!」
「騎士の馬兜とは何ぞや!」
「それは思慮! 常に先立つものなり!」
「騎士の鞍とは何ぞや!」
「それは勇気! 荒れる馬上でも揺るがぬものなり!」
「騎士の槍とは何ぞや!」
「それは真実! 曲がりなく不誠実を貫くものなり!」
「騎士の鎚矛とは何ぞや!」
「それは武威! いかなる角度からも悪徳を砕くものなり!」
「騎士の短剣とは何ぞや!」
「それは信仰! 最後の慈悲を信じるものなり!」
問いが投げられるたびに、唱和は大きくなっていく。
もう空気が地響きを起こしている。
「ならば騎士の剣とは何ぞや!」
大階段にこだまする。遠くにいる俺の腹底まで揺らす獅子吼だ。
「それは主が磔にされた十字架なり! 十字架の敵を討つものなり! 我ら、正義を世俗に維持せんがために!」
大斉唱の余韻が熱い中、騎士見習いが名を呼ばれる。
一人ずつ大階段を昇っていく、一歩一歩踏みしめるようにゆっくりと。大階段を昇り切って、ご領主さまの前に跪いた。
「貴公子よ。神が汝に勇気を与えん。汝は敵の前で勇敢であれ。真理を守るべし。聖なるものと弱きもののために、血を流すこと臆するなかれ」
ご領主さまが凪いだ湖面のように、静かに潤い、清らかに澄み、それでいてどれほど離れた民にも聞こえる程に語りかける。
剣を翳す。
「汝を騎士に叙する!」
肩打ち儀礼を受ける。
新たなる騎士は、階段を勢いよく駆け下ていった。下には鞍かけられた馬が待っている。勢い付けて、鐙を踏まず、馬の鞍へと跨った。
拍手と喝采によって、騎士が新たに誕生した。
叙任された者たちの瞳は、みな輝き潤んでいる。
青年の終止符であり、成人の門出なのだ。
遠くから風の唸り声。
そして青空から花が降りそそぐ。
城外に設置された投石機によって、薔薇の花びらが投げ入れられたのだ。領内すべての薔薇が集められたように、蕾や花びらは降りやまぬ。
馨しさが天上から降りそそぎ、風に乗って、城を包む。
吟遊詩人が竪琴をかき鳴らして、花に音符を添える。
テーブルが架けられて、ご馳走が運ばれてきた。ニワトリと豚の丸焼きを組み合わせた怪物。金箔が張られた肉団子が、怪物の卵だ。
続いて運び込まれる砂糖細工のお城。
米粉で漆喰を、パセリの緑で蔦を表現して、見事に城を作り上げていた。
豚と鶏の丸焼きは老騎士によって恭しく切り分けられて、叙任された若い騎士たちへと配られていく。城を襲う怪物は、騎士たちによって平らげられていった。
香辛料と薔薇の香りが混ざる。
天上の世界はこんな香りがするんだろうか。
「ジェイデン! ケーキだよ」
「兄さん! すごく美味しいんだ!」
エドガーさまとジョンが、満面の笑みで駆け寄ってきた。エドガーさまはケーキを、ジョンは腕に広口水差しを抱えている。
騎士を象った広口水差しだ。傾ければ、馬の口から薔薇の香りの水が溢れ、俺の指を洗う。
「さ、食べて食べて!」
差し出されたケーキときたら、香辛料と生姜の香りがふわふわと漂って、金箔張りされたナツメグがきらきらと輝いている。黄金の蕾みたいだ。
「これは父上の父上が、十字軍で遠征した時、飢えを凌いだ食べ物なんだよ」
「騎士はみんなこれを食べるんだって」
蜂蜜と香辛料で日持ちするように焼かれ、騎士の携帯食になった由緒ある焼き菓子だ。
手を出していいものか躊躇っていると、母もやってきた。微笑みながら。
「俺が食べていいの?」
「ええ、エドガーさまとジョンが、あなたのために半分我慢しようとしていたの。だからご領主さまが直々に、あなたの分も切り分けて下賜して下さったのよ」
そういうことならば遠慮を重ねるのも無礼だろう。
生姜とナツメグの焼き菓子を齧る。
異国の味が舌に満ちてきた。
噛んだ途端に舌だけでなく、頭まで幸福で満ちる。この噛みごたえは干し果物も入っている。噛めば噛むほど酒に漬けた干し果物が漂って、酔ってしまいそうだった。
「すごく美味しいよ」
俺が言うと母さんは微笑み、エドガーさまとジョンは俺に抱き着く。
ご馳走が運ばれる合間に、旅芸人たちが芸を見せてくれる。
二本の剣を携えた芸人がやってきた。刃の方を握り、柄頭を地面につけ、そのまま逆立ちしたのだ。ふたつの剣を足代わりに、くらりくらりとしながらバランスを保つ。
騎士になったばかりの男の人が、俺も出来ると言い出した。酔いしれた赤い顔で逆立ちしようとするが、真っすぐ進むことさえ覚束ない。足取りの怪しさに、旅芸人より笑いを誘う。
誰もかれも楽しげだ。
隣にいる母も、その顔からいつもの憂いは拭い去られている。
「もうすぐイルカも焼き上がるから、持ってきてあげるわ」
「ぼくも行く。丸ごとのイルカが見たい!」
みんなでを見に行く。丸焼きのイルカなんてもの、そうそうお目にかかれる代物ではない。
ちらりと、宴の最も高いところへ視線をやる。
ご領主さまは母さんの様子を、とても幸せそうに眺めていた。
花びらが降りしきる世界で、誰かが笑い、誰かが歌い、誰かが踊る。
それは素敵な光景だった。




