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真珠のコルヌコピア  作者: 猫目石琥珀
飼い犬の回想譚
10/25

5話 腹違いの双子



 エドガーさまは弱々しい赤子だった。

 含んだ乳のほとんどを吐き、泣き、また吐いて、一歳になっても離乳食を口にもしなかった。

 城の空気の重々しさに耐えられなかったのか、大奥さまも萎むようにお亡くなりになった。

 女主人を失った城で姫君の養育は出来ぬゆえ、マーガレットさまも親戚の城に預けられる。城から華やぎは消え、陰鬱な帳に覆われた。

 それを取り除けたのは、ジョンだった。

 産まれたばかりの赤ん坊。

 なんの力もない小さな命が、大きな奇蹟を起こした。

 ジョンの産声が響いてから、エドガーさまの夜泣きはおさまったのだ。離乳食も嫌がらなくなった。山羊の乳にパンを千切って緩めた離乳粥や、林檎の果汁も好みはじめ、健康を得ていったのだ。

 逆に乳母の産んだ子は、病を得てあっさりと亡くなってしまった。乳母だった未亡人は気落ちし、修道院の門をくぐった。

 エドガーさまは乳兄弟に恵まれなかった代わりに、異母弟と共に育った。ジョンは発育が良く、一つ年上のエドガーさまと背格好が同じほどだ。比べれば僅かにジョンが小さい程度。

 腹違いの年子というより、腹違いの双子のようだった。

 あれだけ蒲柳だったエドガーさまは、すくすく育ち、六歳ともなればもう誰にも負けぬほどやんちゃになった。

 元気が有り余るふたりは中庭(ベイリー)木槌のコラン(めかくしおに)長脛王ごっこ(たけうま)で遊ぶだけでない。城のどこかへ冒険しに、厩や鍛冶場や養魚池など危険な場所まで潜り込む。

 やんちゃ盛りのふたりを押しとどめるのは、ペトロニラや母ではもう無理だ。

 怪我をせぬよう見張るのは、俺の役目だった。






 早朝ミサが終われば、子供たちだけ朝餉が供される。大人はぞれぞれ仕事の合間に、大麦の煎じ湯(プティサナ)とチーズで空腹を宥めた。

 そして若君の勉強の時間なのだが……

「エドガーさま! どこにおわします?」

 春の陽気が風に運ばれ、城を隈なく満たしていた。

 心地よい日には、ふたりは薫風に誘い出される。どんぐりのようにころころ転がり回るために。

 目を離した一瞬で消えるのはやめてほしい。いや、一瞬は言い過ぎだ。だがめでたし、聖母よ(アヴェ・マリア)を半分も唱えないうちに消えたのは事実。

 どこに行ってしまったんだ。

 まさか厩か。

 昨晩、仔馬が生まれたと大広間で話されていた。

 厩へと足を急がせれば、小姓(ペイジ)たちが馬の世話をしていた。目鼻立ちも茶髪もそっくりな三人の小姓は、腕まくりして、酸っぱい匂いの藁を片付けている。

 俺よりひとつ年上のレナルドと、同じ年のユワード、ひとつ年下のハーワード。三兄弟ではなく、従兄弟だ。並んでいると年の順で分かりやすいが、ひとりひとりでは見分けがつかない。

 同い年のユワードが手を振る。

「よお、牧羊犬。二匹のわんぱく羊はあっちに駆けていったよ。毛長イタチ小屋なんじゃないか」

「ありがとう!」

 藁ぶきのイタチ小屋に走って行けば、二人そろって腹ばいで潜り込んでいた。狩りに使うイタチで気性は荒いのに、つついている。咬まれたらペトロニラがまた容赦なく叱りつけるだろう。

「エドガーさま、ジョン。お勉強の時間ですよ」

 イタチ小屋からは沈黙が返ってくるだけ。

 どんぐりのようにだんまりか。

 実力行使で足首を鷲掴み、引きずりだせば、ふたりとも頭のてっぺんが干し藁まみれだ。

 両手で藁を掃う。

「さ、参りましょうか。助司祭(キュレート)さまをお待たせするものではありません」

 逃げられぬように、右手にエドガーさま、左手にはジョンの手を繋ぐ。

「また読み書きしなくちゃだめ?」

 六歳になられたエドガーさまは、助司祭(キュレート)さまの元で本格的な読み書きの勉学をなさるようになった。おまけにジョンも同席を許されている。

 遊びの時間が減らされて、楽しくないらしい。

「貴族として正しく振舞うためには、書記(クラーク)ばかりに読み書きを任せてはいけません」

「ねえ、ジェイデンは勉強しなくていいの?」

「俺は農奴ですよ」

「でもジョンのお兄さんじゃん。ジェイデンだけ勉強しないのはずるい。おれだって弓の方がいいのに!」

 十二歳になれば、男は誰でも弓を習う。

 戦となり籠城したなら農奴であっても弓を携え、弦を引いて、矢を番えなければいけない。

「エドガーさまはもう少し手足が伸びたら、弓も修練できますよ」

「そんな先のことじゃない。今! ジェイデンもいっしょに読み書きしようよ」

「そうだよ、兄さんもいっしょに勉強しよ」

 空色の瞳と緑色の瞳が、そろって俺を凝視する。

「しかし俺などが文字を習うなど………」

「父上が良いっていえばいい?」

「いえ、そのような僭越な願いを、ご領主さまに申し上げるなど烏滸がましい振る舞いで……」

「じゃ、お許し頂いてくる!」

 止める間もなく手を振り払う。握り返そうとすれば、俺の足にジョンがしがみ付いてきた。

「ここはぼくに任せて、おまえは行け!」

「おまえの犠牲はむだにしないぞ」

 駆けだすエドガーさま。

「そんな茶番どこで覚えたんです! ああ、エドガーさま! お待ちください、エドガーさま!」




 エドガーさまの突拍子もないワガママを、いったいどういうお考えなのか分からぬがご領主さまは聞き届けられ、俺は礼拝授業の隅っこにいさせてもらえることになった。

 大広間の横には、礼拝堂が備わっている。ミサを挙げるためでもあるが、授業にも使われる。騎士や郷士から預かっている子息らが、ここでラテン語文法や法令文の修辞学など身に付けるのだ。

 すでに盾持ち(エクスワイア)たちのために講義が始まっている。

 邪魔にならないよう身を屈め、音を立てず脇の扉に入る。

 エドガーさまの授業は礼拝堂付属の司祭室で行われていた。

 壁には巨大な世界図(マッパ・ムンディ)が垂らされている。縁は極彩色に彩られ、天使とキリストが世界を見下ろし、聖地エルサレムを中心に地名が綴られていた。

 その手前には大きな書見台と、背もたれ付きの挽き物椅子。

 回転式書棚には、二十を超える書物が置かれていた。革張りの装丁には、打ち出し細工で樫の家紋が浮き上がっている。角は金属で補強されていた。

 ご領主さまは大変な蔵書家だった。

 貴族でも書物を十冊も抱えているのは珍しい。普通なら聖書と祈祷書だけ。一冊だけであっても、十分すぎるほどの財産だ。

 二十冊以上の書籍をお持ちになってるなど、由緒ある大修道院のようだった。

 この威厳ある部屋は、俺にとっては身分不相応だ。

 ご領主さまの許しがあるのだから入っても咎められはせず、むしろ助司祭も朗らかだが、どうにも居心地が悪かった。

「ジェイデン。この本はね、『アレクサンドロス物語』。父上のお気に入りだよ」

「隣のは『ローマ人の行跡』って読むよ」

「『ポリクラティカス』。むずかしい政治論だけど、領主なら一読すべきって。作者はジョンと同じ名前なんだ!」

「兄さん、こっちはケントのトマスが記した『騎士道物語』」

「こっちのは『軍事論』。騎士になるんだったら、これは絶対に読破しないといけないんだって」

「『イングランドの王国法と慣習法』。法律の本だよ」

 押された金文字を、ひとつひとつ教えてくれる。

「『マーシャル伝』。すごい騎士さまの伝記だよ。騎士試合に片っ端から参加して、数か月で203人の騎士を打ち倒した騎士さまだ!」

「賞金の管理のために、書生をふたりも引き連れていたんだって」

「他にもまだまだあるよ。医学の本はね、侍医が助手に写本させてるって」

「こっちの『サレルノ養生訓』も写本させてたね」

 一通り眺め終えると、助祭が一冊の書を取った。

「どうぞご覧ください」

 一冊の書物が開かれる。

 羊皮紙には金文字が綴られ、その周囲には瑠璃の花と孔雀石の葉、そして金の蔦が生い茂っていた。宝石と貴金属によって彩色され、目がくらみそうになる。

 どれほどの金と宝石によって綴られたのだろう。溜息を漏らすことさえ恐ろしい。

 強張っている俺に、助司祭は微笑む。

「なんとも美しい金箔と彩色でしょう。ですが真に価値があるのは、綴られている文字なのです。過去の聖職者や修道士が叡智や信仰を後世に残さんとした祈りこそ、文字なのです。さ、それを理解できるようになるため、手習いをいたしましょうか」

 にこやかに促されて、イグサ椅子に腰を下ろす。真新しいイグサ束をさらに束ねたものだった。

 恐る恐る腰を下ろせば、助司祭から蝋板が渡される。尖筆でお手本通りに文字を書くのだ。

 Jaden。まずは自分の名前。

 このくらいは書ける。ペトロニラから教わった。

 エドガーさまが右側から、ジョンが左側から、俺の手元を見張っている。

「ジェイデン、だめだよ。ほら、斜めにして書かないと変なクセになる」

「兄さん。ほんもののペンで書くとき、まっ平にしてるとインクが垂れちゃうよ」

「……書き物机が斜めなのは、インクを垂れにくくするためなのか」

 考えれば分かることだった。

 だが農奴の俺には、インクが垂れるという発想さえない。

 エドガーさまが俺の書いた文字を覗き込む。

「下手な字! 読み書きはおれの方が上手いな。おれがジェイデンに教えてやる!」

「ありがとうございます、エドガーさま」

 エドガーさまとジョンは、俺に偉ぶりながら教えられて楽しかったらしい。それはよい復習になった。俺が後ろにつくようになってから、ふたりとも読み書きの授業は嫌がりつつも、逃げなくなった。




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