1話 林檎の種は芽吹いていた
「父さま、母さまの夫を殺しに行きませんか?」
雲晴れぬ街に、子供の明るい声。
なんという朗らかな口調だろう。りんご狩りでも誘うような声だ。
そのくせ内容は不穏だ。
近くで劇でもやっているのだろうか。
こんな路地の片隅で?
いや、どうでもいい。
もはやすべてがどうでもいいのだ。
俺は野垂れ死ぬべきなのだ。
長い戦争の疲れが四肢を重くし、長い道程は財布を軽くした。
何より今の俺には、立ち上がる理由も気力も無いのだ。鼓動する心臓も空っぽの臓腑も、鴉に啄まれてしまえばいい。そして食べ残しの滓など、十字路に埋められてしまえばいいのだ。
「ねえ、父さま」
項垂れていると、指先に暖かさが触れる。
人差し指と親指に。
………馬鹿な。
戦争で失った指に、触れられている?
視線を僅かに上げれば、品の良い少年がしゃがみこんでいた。
鮮やかな染料のマント。それを留めているリング・ブローチには碧玉が艶めき、微かな光さえ目映く反射させている。
「父さま」
この少年は、俺を父と呼んでいるのか?
人違いだ。
そう告げようとして、顔を上げた。
だが紡ぐべき言葉を失ってしまう。
少年は整った目鼻立ちで、透き通るような肌だった。頬と鼻梁に散るのは、黄金のそばかす。
そして眼差しは明るい緑。
俺の瞳と同じ緑。
だが少年の膚は白く、緑が色濃く際立っていた。それにノルマン貴族めいた顔立ちだ。
……ああ、あの方に似ているのだ。
あの方、シャルウッドベリ城の麗しき花、金の真珠、マーガレットさま。
十年前に離れ離れになってしまったが、今でも顔立ちは俺の瞳に焼き付いている。いや、百年経とうと地獄に堕ちようと、俺がマーガレットさまのお姿を忘れるはずない。
愛しい方の面影を宿して、俺の瞳と同じ色の子供が、俺を父と呼んでいる。
信じがたい結論が、俺の脳髄に落ちてきた。落雷のように。
「………まさか、マーガレットさまと俺の」
「ああ! 母さまを覚えていてくださったんですね! よかった、ぼくずっとずっと父さまを探したんですよ。そうですよね、それを先に言わなくちゃいけなかったのに。見つかったのが嬉しくて!」
そばかす顔の少年は、快活に笑う。
曇天の憂鬱さを払うほどの笑顔だった。
「はじめまして、ぼくの名前はジャスパー。母はマーガレット・オヴ・シャルウッドベリ。父はジェイデン・アットグリーン、あなたです」
「信じられん……」
マーガレットさまと俺にお子が?
何やら質の悪いまやかしに引っかかっている気分だった。
だが心当たりがないわけではない。
ただ一度だけ、りんごの果樹園の木陰で罪を犯したことがある。
月明りさえ避けて、未熟なりんごを齧り合うような愛を交わした。
夢か現か分からぬほど、ささやかな一夜だった。
密かに齧り合ったりんごの種は、マーガレットさまの腹に宿って芽吹いてしまったのか。
「ぼくが父さまの子だって、信じて頂けないのですか?」
緑の瞳が潤んでいた。
胸に愛しさが滲む。
「いや、そうじゃない。ただマーガレットさまは……お前をお産みになられて、どうなさった。お血筋に相応しくない結婚を強いられたのか」
眉間に皺を寄せて、黙ったまま頷いた。
これは俺の異父弟もよくやる仕草だ。辛くても泣かないように、我慢している顔だ。
「父さまのおっしゃる通り、おいたわしい身です。相手の男は、母さまの古き貴族の血筋だけが目当てなのです」
「マーガレットさまは聡明で慈悲深い。たとえ魂の美徳が分からぬ愚物だとしても、あの真珠も羞じさせる美しさに、膝折らぬ若い男がいるというのか」
「ぼくのせいです」
眉間の皺を深くして、ジャスパーは呟く。
「ぼくがおなかにいたせいで、母さまの父さまは倒れられ、母さまの兄とずいぶん言い争ったそうです。いろいろあったらしくて……ぼくが小さすぎて、詳しくは分からないのですが、身分に相応しい相手に嫁げなかったんです」
マーガレットさまほど高貴なお血筋の方が、貴族に嫁がれなかった?
では身分の高くない騎士に嫁されたのか。
俺が問う前に、ジャスパーは口を開いた。
「年寄りの商人に嫁がされたのです」
「あのお方が! あれほど高貴なお方が、銭垢塗れた老商人に嫁がされたというのかッ!」
激昂が眩暈を齎す。
萎えた両足の血液が沸騰するほど、煮えくる怒りだ。
「商人、商人だと。祈りもしない、戦いもしない、耕しもしない。そんな男の手が、マーガレットさまに触れるなど!」
目の前が真っ赤になる。
ジャスパーが縋りついてきた。
「母さまは果敢な方です。老商人に対して、妻として果たすべき夜の責務を拒みました」
夫の望みに従わず、寝所を共にしない妻。
教会の裁判所で裁かれる罪だ。
「婚姻無効にはならなかったのか?」
「あの老商人は老いも老いさらばえ、もはや六十に手が届くんです。すでに跡取りどころか孫までいるんですよ。そして寝床を温める女性も何人か。卑しい身分から金勘定で成り上がった老い先短い俗物が、死に際に高貴な妻を得たかっただけなのです」
あからさまな憎悪を隠しもせず吐き捨てる。
九歳の少年が持てる恨みの深さではない。
「母さまは療養という名目で、今は遠い荘園に幽閉されています」
マーガレットさまが物珍しい白孔雀のように飼われているのか。
これほど痛ましいことがあるだろうか。
「ジャスパー……おまえも幽閉されているのか?」
「ぼくは最初っから物の数に入っていません。あの商人や奉公人たちはおろか、母さまの親族にとってもぼくの存在は無いのです。存在してはいけないのです。だからこそ父さまを探したり出来るのですが……」
「惨いことを。九歳にもなれば、とうに騎士修行をしている年頃だろう」
「母さまの傍にいるので、歴史や詩歌は覚えました。帳簿の付け方も覚えましたし、チェスだって出来ます。ラテン語もイングランド語も出来ますよ。ぼくのイングランド語は上出来でしょう?」
「ああ、そうだな」
この年頃なら親類の城で、馬術や武術を身に付け、狩りの経験を積むものだ。
マーガレットさまは礼儀作法は言わずもがな、地理や歴史にも通じ、天文学から法律に至るまでお詳しく、写字や語学も書記が舌を巻くほどだった。オルガンも巧みに弾きこなし、刺繍も得手であらせられた。
だが武芸までは行き届かない。
俺が黙っていると、ジャスパーが口を開く。
「老い耄れ商人……その名を口にするのも悍ましいのですが、サースタン・ウォーターズっていうんです。そいつはバストン荘園の屋敷にきているんですよ。いつも古い金の指輪をしているから分かります。どこかの貴族が二百年以上受け継いできた指輪を、質草で手に入れたと自慢げなんです」
サースタン・ウォーターズ。
耳にしたことがある。
たしかロンドンで屈指の貿易商だ。資産に比例して、商人特有の芳しくない噂を持っている。
神ならぬ身では噂にどの程度の真実が含まれているか知る由もないが、ジャスパーの語る言葉に相違なければ、身分卑しさを埋めるため身の回りに高貴なものを侍らせているのだろう。
「殺しに行きましょう! そして未亡人になった母さまと父さまが結婚すれば、めでたしめでたしです」
嬉々として殺しを促す。
なんという無邪気さだろう。
「ぼく、いろいろ考えたんです。母さまが未亡人になった時、父さまが近くにいたら世間の口さがない方々の話題に上るでしょう。結婚して不名誉を被らないために、計画してきました。州長官に疑われてはおしまいですから、父さまは遠くの修道院に泊まっていることにしましょう。ぼくが協力します。強盗に見せかければ、そこらへんの追いはぎや悪漢が吊るされて平和になりますよ」
「ジャスパー。悪漢だからといって犯してもいない罪を着せるなど、正義に悖る行為だ。己の罪は己に帰属するのだ。恐ろしい事を口にすれば、災いが降りかかる」
他人に罪を着せてのうのうと生きるなど、神に祈れなくなる。
祈れなくなる以上に恐ろしい事が、この世にあるだろうか。
貧しく学のない人間にとって、祈りこそ唯一の癒しだった。
「罪深い悪漢であろうが卑しい商人であろうが、神が創りたもうた人間だ。等しく見守られている」
途端、緑の瞳は潤む。
傷つけられた百合のように萎れ、項垂れた。
「ぼくみたいに神さまが気付いてない子供がいるんですから、あいつらだって見守られていませんよ」
そうだ、この子は婚姻の誓い無く生まれたのだ。
婚外子の烙印を気に病むのも無理なからぬこと。
俺は深呼吸して、ことさら穏やかに語りかける。
「気づいておわす。名を付けられて、洗礼されたのであれば誰しも神の庇護がある。ジャスパー、その名はマーガレットさまが与えてくれたのか?」
「母さまは男の子だったらジャスパーって、おなかにいる時から呼びかけてくれて……」
「ではおまえは祝福された子だ。罪があるとすれば、それはおまえにでなく俺にあるのだ。だから心正しくあるといい」
「じゃあ父さまが父さまになってくださいよ。そうすればぼくは正しく生きられます」
「ありがとう。だがおまえは悪しき願いを忘れて、母の元に戻って祈りを捧げるといい。何も知らず、祈るといい」
「いやです。父さまとやっと会えたんですよ」
ジャスパーの双眸が潤んでくる。
瞳の色は違えど、マーガレットさまに泣かれているようだ。
このまま抱き締めてしまいたい衝動に駆られたが、過ちを二度も犯すわけにはいかない。
「従者か乳母はどこかに付き添っているか?」
ジャスパーは小さく頷く。
「大通りの向こうの修道院宿坊に……」
「では戻るとよい」
ジャスパーを従者の元へ連れていくべきなのだろうが、誰とも顔を合わせたくは無かった。そもそも合わせる顔がない。
領主の一人娘を孕ませ逃げた農奴が、いったいどんな顔をすればいいのだ。
「父さまは母さまの不遇をお救いにならないのですか!」
耐え切れぬ涙と共に裂帛が走った。
喉が裂けるほどの叫びに、ついに緑の瞳から涙が零れた。
「母さまはいつも父さまの武勇伝を語ってくれました。大人に混ざってモブフットボールで勝利したことも、聖具を盗んだ悪漢どもを三日かけて捕まえた話もして下さった。このイングランドで、誰より長弓を引くに長けたる方だと!」
ジャスパーの涙を、中指でぬぐう。
暖かい涙だ。
「弓の名手だったのは昔の話だ」
俺は右手をさらけ出した。
親指と人差し指が失われている。
「弓兵がスコットランド人に捕虜にされれば、否応なく親指と人差し指を潰される。二度と弦を引けぬようにされるのだ。それでもまだ力は残っている」
指がふたつ無くなっただけだ。
敵を見つける瞳も、戦場へ向かう脚もまだ残っている。
「必ずやマーガレットさまをお助けする。愛したご婦人の地獄を見過ごせる男が、この世のどこにいよう」
マーガレットさまの面影に語る。
暖かく甘い愛しさがこみ上げてきて、ジャスパーのそばかすにキスをした。
ああ、この子は俺の息子なのだ。
俺とマーガレットさまの血を引いたたったひとつの奇蹟。
この愛しい奇蹟を今まで知らず生きていたとは、なんと罪深いのだろう。
「ジャスパー。お前は帰るといい」
「手伝います!」
「罪に加担させたくはない。お前は悪しき流血から無関係でいなさい」
「父さまは独りで行かれるのですか? だめですよ、そんな危険な事させるつもりありません。ぼくが手助けします! ふたりで成し遂げて、みんなで家族になりましょう。どうかぼくの父さまになって下さい」
必死で縋りつかれたが、無理なのだ。
「俺とマーガレットさまが結ばれるなど、あり得ない」
「何故です。愛し合っているのでしょう!」
愛。
たしかに愛し合っていた。
俺が捧げるべきは敬愛で、賜るべきは慈愛だけでよかったのに、肉の喜びを分かち合う愛し方をしてしまった。
「……俺は長弓を番う身分で、剣を振るう身分ではない。農奴に過ぎず傭兵として生きた俺が、どうしてマーガレットさまと神の御前で誓えようか」
泣き顔を振り払って、俺は歩く。
戦場で傷つき欠けた肉体だが、膝を伸ばして足を動かす理由と義務が出来たのならば、どこまでも歩いていける。