空っぽの陣地
圭太は腕時計のアラームで目が覚めた。交代の時間だ。寝足りないと叫ぶ体に鞭打って歩哨濠まで歩く。
自衛官になって三年たつが、演習の辛さは少しもマシにならない。ロングスリーパーの圭太にとっては夜中に活動すること自体無理だ。カフェインの錠剤も無力。半分眠った頭のまま歩き、何度もつまづきながら目的地にたどり着く。
歩哨濠にはだれもいない。二人分の小銃と装具だけが置いてある。トイレにでも行ったのだろうか。なら交代で行けよと思うが、圭太もひとりで行動しているので人のことは言えない。一緒にいた先輩は撃たれて死んだ。今は重たい装具を外し、ドーランも落として気持ちよく寝ていることだろう。圭太もぜひ次の戦闘で死にたい。
歩哨濠に座り、時計を見る。一時間ここでじっとしていなければならない。さっさと退職してこんなバカなことやめたい。どうせ実戦では勝てっこないのだ。一方的に殺されるだけ。なら戦争が始まる前に退職するしかない。
次の就職先に思いをはせていると三十分が経った。まだ二人は帰ってこない。うんこをしている途中で寝落ちしてるんじゃないだろうか。けど、二人そろってそんな面白いことになるだろうか。まさか脱柵して逃げたんじゃ……。――俺も逃げようかな。
ずる、ずると、足を引きずる音が聞こえた。後ろだ。振り返ると、木々の中に人影がある。ナイトビジョンを調整すると姿が鮮明になった。頭から足元まで真っ黒い布をかぶっている。
「五反田士長っすか? なにしてんすか」
顔は見えないが、後ろから来たということはさっき幸せそうに死んでいった先輩だろう。ポンチョをかぶっている理由はわからないが、自衛官はアホなのであまり気にしないことにした。
「なんすか? 僕たばこ吸わないんで、ライター持ってないっすよ。それかさみしかったっすか?」
にやにやしながら言うも、返事はない。ずるずると足を引きずりながら迫ってくる。
「五反田士長?」
月明りのもとに身をさらした。布の隙間から見えるつま先は半長靴ではない。醜悪な肉の塊。指は小さな瘤でしかなく、爪は中途半端な位置から生えている。黒っぽい皮膚には月光を浴びてぬるぬると光る液体。嫌な臭い。生々しく、むせかえるような、甘ったるい匂いだ。
咄嗟に銃を構えた。少なくとも味方じゃない。――コスプレをした一般人か? だとしたら銃を向けるのはマズイ。
だが銃を下ろす気にはなれなかった。もちろん空砲だし、殺傷能力はない。額に汗がにじみ、指先が震える。
警戒しながら歩哨濠から出た。一瞬だけ後ろを見て退路を確認する。
「だれだ?」
相手は悲鳴をあげた。布がめくれ、顔があらわになる。髪はなく、唇もない。目と鼻はぽっかりと開いた穴で、皮膚は異常なほど白い。
男はナイフのような爪を広げておそいかかってくる。圭太はそれを小銃で受け、膝蹴りを入れた。一歩下がり、銃で顔面を殴る。前蹴りで突き飛ばすと、相手がよろめいた隙に脱兎のごとく逃げ出した。
振り返る気にはなれないが、後ろから追ってきているのがわかった。ヘルメットを外し、装具も脱ぎ捨て、少しでも身軽になる。膝蹴りをしたときの感触がまだ残っていた。分厚いゴムのような感触。血の通った肉体とは思えない。
後方の陣地を目指して走る。小隊にはありがたいことに、格闘指導官が二人いる。そこまでいけばなんとかなるはずだ。
林が途切れ、鉄条網が見えた。閉鎖されていない場所を通り、陣地に入る。だれもいない。分隊長も、機関銃手も、同期も、後輩も。武器や装具が散らばっている。みんな消えてしまった。
後ろを振り返った。そのときようやく気付いた。敵はひとりじゃなかった。