第一話(カキダシマツリ提出ver)
タイトルとあらすじは玄武さんに言われたアレコレをちょっとだけ変えてみました。
二人称、どうしようかなーと思ったんだけど、どうしよう。
人はこれほど慈悲深い表情ができるのか。例えるなら、仏像だ。有名な東大寺の大仏、盧遮那仏のような。それよりは幾分血が通った、そういう表情。初老に差し掛かった白衣の医師は、職業柄この表情を作る訓練しているのかもしれなかったが、それにしても異常に慈悲深い表情で、君にこう言ったのだった。
「休んでください」
「え、でも」
「あなたに必要なのは、休養です」
医師は、君に明確な疑問が生まれる隙を与えず、厳かに告げた。医師がカルテに何事か書きつけている間、君はプリーツスカートのひだを親指で擦っていた。休んでください、という指示に少なからず動揺していた。
診察を終えた君は、程なくして受付に呼ばれた。
「お大事に」
受付に座っていた女が処方箋と診断書を、受付の透明な仕切り板の下にある小窓から出し、瞼を伏せた。きっと病状を知っているのだ、と君は妄想した。
会社での激務に、上司からの罵倒。その日々をよく知りもしない他人に憐れまれたのだ。差し出された紙切れと憐れみはセットなのかもしれない。女の瞼は微動だにせず、君は病院を後にした。
その後、薬局で薬を受け取った。丸い錠剤が三種類。そうやって症状の説明が薬に置き換わり、君はようやく自分が病気だということを理解できたのだった。
翌日、君は職場の上司に休暇の届けを提出した。
届けは昨日病院から家に帰って、パソコンに向かって打ち込んだもの。グーグル検索をし、それらしい書式を探し出した。コピペしてワードに貼り付け、文章を君の状態に当てはまるように書き換えた。作業を終えて電源を落としたら、黒くなったパソコンのディスプレイに、目の周りが窪んだ君の顔が映った。
昨日の酷い顔を思い出す君の前で、届けを受け取った上司は眉を跳ね上げた。その眉の動きを見て、君は密かに溜息をついた。
自信ありげな上司のルージュは今日も歪んではいなかった。上司の完璧な化粧は、しかし彼女の内面を完璧に取り繕うことはなかった。
上司は自分だけが仕事ができる、と思っているタイプの人間で、同じフロアにいる同僚たちにきつく当たっているのを君は何度も見ていたし、君にだって平気で罵声を浴びせてくる。彼女にとっての正義を、あたかも世界の秩序であるかのように錯覚し、振りかざすのだ。
「たかが病気で休むっていうの」
表情を歪めた上司が言い放った言葉は想像の域に収まっていて、君は冷めた目で彼女を見返した。
「診断書が出ましたし、総務に傷病手当の手続きをしてもらえるようにメールもしておきました。すみませんが、今日はこれをお伝えしたら帰ります」
「どうせなら辞めれば良いのよ。アンタ使えないんだから、代わりの人間入れれるし」
蔑むような言葉を浴びせられながら、君は昨日の医者とこの上司の違いを検分していた。
あの医者は、例えば慈悲深い顔になるような訓練をしていたとしても、この上司に比べれば間違いなく君の心配をしてくれていた。だとするならば、医者の助言を聞き入れるべきであろうことは、病気の君にも容易に判断がついた。いや、判断がつくうちに、あの医者に出会えていて良かったのだ。
「辞めることになれば、手続きの関係で労基に行くことになりますし、そしたらもう、全部ぶちまけてしまいそうなので」
君の口が勝手に動く。喧嘩になるようなことを言う気はこれっぽっちもなかったのだが、君がこのような状況になったのは、間違いなく目の前の上司のせいだった。どうせしばらく会わないのだから喧嘩してもいいか。実のところ、君はかなり投げやりになっていた。
フロアに気まずい雰囲気が流れたが、誰もどちらの味方もしない。固唾を飲んで、ことの成り行きを見守っているようだった。
「……アタシのせいだっていうの」
「いえ、そんなこと言ってないですけど。そう思うのなら、心当たりがあるのではないですか?」
君がこっそり肩をすくめた時だった。
「アンタのそういうところが嫌なのよ!」
上司が突然喚き、デスクの上にあったお茶を君に向かってぶちまけた。前髪からぽたぽたと、渋い匂いの液体が滴り落ちる。上手いこと書類は避けたなと思う君は、やはり疲れているのだろう。お茶は幸い温くなっていた。
「服が濡れました。帰ります」
君が上司に背を向けると彼女は、まだ話は終わってないわよ! と尚も喚いた。子どもがそのまま大きくなったみたいだ、と君は思った。
フロアでこちらを伺っていた数人が、振り向いた君から一斉に顔を背ける。あとは、頑なに仕事をしているフリ。こんな風に、みんなが圧政に耐えているのかと思うと、この関係性が憐れに思え、今君自身がそこに混じっているということが滑稽だった。
何という、裸の王様の国。イエス、以外の返事ができないなんて可笑しい。
「私の話は終わったので」
君はさも興味なさそうに返事をし、目を眇めた。
ふっざけるな! という上司の喚き声にもう振り向くこともなく、デスクに戻り淡々と帰り支度をした。
フロアの同僚が控えめに、大丈夫か、と聞いてくれたのに、ヘーキヘーキと手を振った。少し視線を上げると、上司はまだ君を睨んでいた。しかし、休むことを決めた君は無敵だった。睨まれようが怒鳴られようが、上司はこの世界から抜け出せない。傷病休暇届をパスポートよろしく提出し、この国から離脱する君を追ってはこれない。
目の前の白い扉は出国ゲートだ。お疲れ様でした、と全体に向けて頭を下げ、そこをくぐり抜けた。
エレベーターで一緒になった人が、濡れた君が乗り込んで来たのを見てギョッとした。お茶の匂いが染み付いている。白ブラウスの下に透けているのは白いキャミソール。
別に惨めじゃない、と自分に言い聞かせる。さっきまで上司に歯向かっていた分、緊張が解けて脚が震えた。君は何気なくカバンからハンカチを取り出し、髪を拭く。それと一緒に多分、涙も拭いた。
会社を出てすぐ、君は前もって場所を調べておいたハローワークに向かった。怒鳴り声など響かない静かな場所で、君は今まであったことを洗いざらい吐き出した。
担当の職員は君の哀れな状況を聞いて、そんな酷いと憤ってくれたし、今後について様々なアドバイスもくれた。例えば、パワハラを告発する方法や、もし転職を考えてたなら、という仮定での手続き。
大学卒業後、今の会社に新卒就職して一年と少し。一緒に働いてきたはずの上司よりも、昨日今日であったばかりの医者や公務員の方が、君の気持ちを慮り、手を差し伸べてくれる。スカスカになった君の心には、まだ優しさが染み込む隙間が残っていた。
アパートに帰り着いた君は、お茶の匂いがぷんぷん漂う服を洗濯機に放り込み、上下スウェットに着替えた。それからエアコンのスイッチを入れる。だいぶ前に型落ちしたらしいエアコンは、不機嫌そうな音と共に室外機を回し始めた。エアコンが効くまでに少し時間がかかる。
ーー休んでください、あなたに必要なのは休養です。
昨日の医師の忠告が脳内で再生される。明日からどうしたらいいのか。休んだものの、何をすべきか考えることができない。溜まった家計簿をつける。それとも家の掃除。平日休みなら銀行に行こうか。休むって、何。
君はゴロンとベッドに横になり、スマホを取り出して、SNSアプリを開いた。
フォロー数とフォロワー数。どちらも三桁に満たない君のアカウントに、誰かの世界が映し出されている。ここに来ると、思考を捨てられる。
幸せそうなご飯、推しのグッズ報告、政治への不満、怪しいサプリメントの広告、ツーリングの景色。どこかの海にかかる長い橋の写真に、綺麗だな行ってみたいな、と思う君。山口県角島、と書かれている。遠い世界の景色だった。
こんな風に、タイムラインには誰かの世界が入り乱れている。
ぼんやりしながらタイムラインを遡っていくと、青いクリームソーダの写真が目に止まった。これをアップしたのは喫茶店巡りが好きなアカウントで、一貫して喫茶店のツイートばかりしている。そういう安定した世界が、君は好きだった。
何気なく画像を拡大してみる、君。
焦茶色の年季が入ったテーブル。木製のメニュー立て。余計な物は一切取り除かれている。壁際に置かれたランプはアール・ヌーヴォー調で、トンボの模様が入った琥珀色のガラス。
そういう物に囲まれたクリームソーダは、誇らしげにも見える。マリンブルーのソーダに浮かぶのは白い砂浜のようなバニラアイス。ホイップクリームにちょこんと座るローズピンクのさくらんぼ。
『バカンス』という言葉を飲み物にするコンテストがあれば、堂々の一位を獲得できる見た目をしている。ぐぅ、とお腹が鳴った。そう言えば朝から何も食べていなかった。君は溢れた唾液を飲み込み、想像した。
例えば、今ある貯金をクリームソーダを堪能するのに使ってみてはどうだろう。
幸い、会社からはきちんと残業代は出ていた。そして、それを使う暇もないくらい忙しかった。通帳の残高は数ヶ月前に100万円あったのは覚えている。それに休んでいる間は傷病手当が出る筈だ。それを元手にこの街にある喫茶店のクリームソーダを全制覇する。
降って沸いたような、突拍子もない休みの計画。しかし、君は瞬時にその計画を実行すると決めた。ベッドから起き上がった君は仄かに笑んでいた。今日の太陽が登ってから、初めて零す笑みだった。
二人称参考:小川洋子作『乳歯』(短編集『口笛の上手な白雪姫』収録作品)