火消し屋
作戦会議より数時間後、シュヴァルツ城の一室。
主に高級将校が執務用として使う事の多いその部屋に、恰幅の良い軍人がいた。その独特な耳と、口からはみ出た牙から、オークであることが分かる。
彼は椅子に腰掛け、窓を背にして呼び出した部下と対峙していた。
落ち着きの無い性格の様で、右手の人差し指に嵌められた指輪を絶えず触っている。
「君には、"火消し屋"の副官になってもらう。」
「火消し屋…ですか?クラウヴィッツ大佐。」
返答に困惑の色を浮かべているのは、まだ若いアラクネの女性士官だった。上半身は人型であったが、薄い焦茶色の体毛で覆われた肌と八つの目はアラクネ特有のもので、腰より下は八本の脚が生えた胸部と腹部で構成されており、蜘蛛としての特徴を有している。
大尉の胸に着けた幾つかの小さな勲章―――全て戦場での武勲に対して授与されるもの―――が、若いながらも歴戦の軍人であることを表していた。
「ムラル中将のことだ。ラーネン大尉。」
二つ名が彼女には伝わらなかった様で、クラウヴィッツと呼ばれた大佐はその人物の名を出す。
「ムラル中将…機動防御の達人と名高い、あのムラル中将ですか?」
「そうだ、もっとも現在は、南部戦区の軍管区司令官となっているがね。」
ムラル中将、カール・フォン・ムラルは戦車や自動車化部隊などを用いた機動反撃を得意とし、連邦軍内部でも高い評価を得ていた軍人であった。敵の攻勢が始まればその戦区に派遣されていた為、いつしか消防士になぞらえて"火消し屋"と呼ばれるようになったのである。
そして、昨年行われた連邦軍による夏季大攻勢において側面防御の任を担っていたが、最高司令部からの命令を故意に無視し、部隊を撤退させるという抗命事件を起こしていた。その影響もあり、攻勢作戦は頓挫、中将は軍法会議で無罪とはなったが、後方地域の閑職に左遷させられたのである。
「僭越ながら、なぜ私を?私などより優秀な人物が既に配置されているのでは無いのですか?」
ラーネン大尉と呼ばれたその士官は、訝しげに訊ねる。ムラル中将が前線指揮から外され、現在の職務に就いてもう一年以上が経っている。今さら帝都に副官を要請するほど人手不足とは思えなかった。
「昨日の敵攻勢で包囲の危機にあるメルターギにムラル中将がいるのだ。参謀総長の指名でな、メルターギの防衛を任される。あそこには軍管区司令部が置かれているから支障は無いんだが、そのまま戦闘を指揮するには人員が不足しているのだ。よって、帝都からの増援部隊と共に、司令部要員の一人として貴官が送られる。」
「しかし何故…」
何故、復帰の決まった将軍の元に、わざわざ帝都の"特殊な"部署から一介の大尉を派遣せねばならぬのか、彼女には理解出来なかった。その疑問は、口に出す前に大佐によって遮られる。
「貴官の言いたいことは分かっている。何故、今、この私なのか、ということだろう?」
はい、という彼女の返答を聞き、彼はおもむろに立ち上がると、壁一面を埋め尽くす様に並べられた本棚から一冊の本を取り出した。彼がパラパラとページを捲るその本の背表紙には、"祖国防衛戦史 五二五~五八六年"と記されている。
「この部署は表向き"戦史研究室第二課"を名乗っている。こういった戦史の編纂や戦術の研究をしていることになってはいるが、貴官の知っての通り中身は別物、ある疑いのある人物を捜査し、黒か白かを判断する、それがこの組織の本来の役割…ここまで言えば分かるな?」
手に持った本を開いたまま、彼女に向かってそう問いかける。
「ということは、ムラル中将に何か嫌疑が?」
「そうだ。」
大佐は手に持っていた本をそっと机の上に置くと、彼女の目を見据えてこう言った。
「アクア・ラーネン大尉、貴官に本来の任務を言い渡す。」
「はっ」
「ムラル中将の監視だ――――。彼には"転移者"の疑いがかけられている。」