未知との遭遇
黒光りする節のある胴体、鈍い橙色をした無数の脚、頭部の二つの複眼と巨大な牙を備えた口…。
巨大なムカデ…それも迷宮にいるような規格外の大きさの魔蟲が、私の目の前にいた。
「……は?」
なんなのだこれは。
予想だにしない光景に思わず間の抜けた声を漏らしてしまう。
何事かを考える間もなく、咄嗟に腰へと手を伸ばす。長年の戦場経験によって体に染みついた動作で、拳銃を引き抜き構えようとする。
「落ち着け、大尉…。貴官が見ているものは敵ではない。良いか、危険はない、大丈夫だ…銃を下ろしなさい。」
しかし、狙いを定めることは出来なかった。
ロスバルク大佐が私の手首と肩を掴み、発砲を制止したのである。
こうなることを予見していた様で、未だに構えていた拳銃の上部に手を掛けると静かに押し下げ、強張った右手から抜き取る。
大佐はゆっくりと怪物と私の間に割って入り、顔をこちらへと向ける。私の目をじっと見つめながら、にわかには信じがたい言葉を口にした。
「あれはムラル中将本人だ…。魔物ではない。」
一瞬、頭が理解を拒んだ。
あれが……?あのムカデがムラル中将だと…?
エルフでも、人間でもない、どう見ても知性があるようにはみえないあの魔物が、カール・フォン・ムラル中将その人だとでもいうのか。
確かに部屋を見渡しても先ほどまでいた貴族然としたエルフの姿はない。
しかし、記録にはエルフと記載があったし、クラウヴィッツ大佐からはそんな話は一言も…!
「…巨大なムカデが、ムラル中将の真の姿ということですか?」
喉奥からやっとのことで絞り出した問は、現状の再確認でしかなかった。
ロスバルク大佐は後ろをチラリと見ると深く頷いた。その表情は、嘘をついているようには見えない。
「ロスバルク大佐も、その、見えているのですか?」
「私の目には、華奢なエルフにしか見えてないがね。それが偽りの姿ということは知っているよ………残念なことにね。」
「話は終わったかね?」
不意に、横からムラル中将(当然、私には巨大ムカデにしか見えない)が会話に割って入ってくる。
どうやって喋っているのだろうかと口元に目をやるが、牙とも、触角ともつかぬものが幾つかあるのみで、とても発声できる構造とは思えない。多数に蠢くそれらに生理的な嫌悪感を感じ、すぐに目線を逸らす。
「まさか本当に見破るとは思わなんだ、素晴らしい才能だ。」
「こっ、光栄であります…。」
これはムラル中将だと心のなかで言い聞かせる。頭では理解出来ていても、やはり怖いものは怖い。中将はその長い上半身を蛇が鎌首をもたげるように起こしてこちらへとにじり寄ってきた。思わず仰け反り後ずさろうとするが、そうする前にロスバルク大佐が中将の前に立ち塞がる。
「………中将閣下。」
「分かっている、そう怖い顔をするな、大佐。このままでは不便だろう?」
何拍かの間を挟んだのち、大佐は短くため息をつくとスッと身を退いた。
「すぐに終わるさ。ほんの少し我慢してくれるかね?」
大佐の背中と入れ替わるようにして、巨大な複眼と牙を備えた凶悪な顔が目前に迫る。無意識のうちに目をギュッと強く瞑るが、耳には先ほどから響いている気忙しい歯軋りの様な音が消え、詠唱か、呪詩歌と思われる囁きが聴こえてきた。
何と言っているかは分からない。しかし一定のリズムを刻みつつ流れる"それ"は、妙に郷愁を誘い、どことなく故郷の子守唄を思わせるものがあった。
不思議なことに、先ほどまで張りつめていた緊張の糸がほぐれ、肩から力が抜けていくような安心感が私の中に広がっていくような気がした。頭が冴え、未知のものにたいする敵意と興奮の熱が静かに冷めていく。
おそるおそる瞼を開けると、ムラル中将の顔が目に入った。
勿論、ムカデ姿はそのままだ。誰がどう見ても魔物サイズの魔蟲である。なにかが変わった訳ではない。しかし先ほどまで抱いていた中将に対する恐怖や嫌悪、忌避などの負の感情が、自身の中から減っていることに気がついた。
「原初の魔法に近いものだ。魔術というより、魔力を付与した催眠術といったところかな。単純だが、抜群に効くハズだ。」
そう言うと体を捻って執務机へと戻っていく。
その後ろ姿を見送りつつ、ここにきてようやくムラル中将の姿を落ち着いて観察することができた。
"百足"の名のごとく細長い胴から幾多の脚が出ているが、前側の四対ほどは頭部に近づくにつれて少しづつ長くなっている。その中で他よりもニ、三倍ある四本の脚を腕代わりにしているようで、先端にはやっとこのような形をした義手が備わっていた。
顔には人らしい要素は全く無かったが、変色している左の複眼に銀縁の片眼鏡をかけ、小さな首飾りと飾緒を身につけている。
姿形は確かにムカデだが、よく観察すると細部に知性を感じさせる出で立ちをしていることに気がついた。
「どうかね、大尉。気分は。」
「…悪くはありません。大丈夫です。」
中将は良かった良かったとばかりにウンウンと頷くと、机上の電話へと手を伸ばす。その単純な機構の義手を器用に使って受話器を取り寄せる。…顔の横に当てているが、耳はそこにあるのだろうか?
「すまないな、ラーネン大尉。前もって言おうかとも考えたんだが、まさか見破るとは思わなくてな。」
ムラル中将が何処かへと電話をかけているとき、ロスバルク大佐から小声でそう言われた。
彼へと目線を移すと、苦虫をまとめて噛み潰したような渋い顔をしている。
「いえ、私も…言われていたとて、にわかには信じることは出来ないでしょうから…」
ここまでの歯切れの悪い返答は、この為だったのだろう。普通に考えれば"今から逢う人物は魔物に見えるかもしれないけど気にするな"なんて言われたところで、彼の正気を疑うだけだ。
その時、不意に扉が叩かれた。
中将が入室するよう促すと、小柄な人物が入ってくる。ゴブリンの下士官だ。
「おお軍曹、急に呼び出してすまないな。紹介しよう、今回、私の副官となったラーネン大尉だ。彼女をちょっと案内してやってはくれないか?彼女の部屋と…もろもろをだ。頼んだよ。」
「はっ!」
「大尉、彼は昔から私が世話になっている者だ。彼に部屋と、周囲を案内させよう。一時間ほどあとに戻ってきてくれたまえ。」
「了解しました。」
どうやらムラル中将はロスバルク大佐と二人きりで話がしたいらしい。
柔らかいが、有無を言わせぬ口調で席を外すよう促す。
一方、大佐はというと、憮然とした表情で中将を睨んでいた。
理由は不明だが、彼に対して怒りを抱いているらしい。
とにかく、一度退出するしか無いようだ。
二人に頭を下げ、軍曹と共に部屋から退出する。
「そう怒るな、フリッツよ。」
背後からそんな会話が聞こえたが、執務室の重厚な扉が完全に閉まりきると、何も聞き取ることは出来なかった。
「ヴェヒター軍曹です。以後お見知りおきを、ラーネン大尉殿。」
「あぁ、よろしく頼む。」
歴戦とおぼしきその老齢なゴブリンと握手をする。取り敢えずは案内されつつ情報収集をするしかないようだ。
(報告書には何と書いたものか…)
階段の方へと進むヴェヒター軍曹の後を追いながら、私は頭を悩ませていた。