カール・フォン・ムラル
ラーネン大尉を連れて主塔内部の螺旋階段を上がりつつ、ロスバルク大佐は頭を悩ませていた。
数十分前、彼女の持つ"見抜く"能力がどうも本物らしいと気付き、ムラル中将に会わない方が良いのではないかと進言したのだ。しかし、その忠告が彼の好奇心を煽ったらしく、逆に「早く会わせろ」と言われてしまった。
(ムラル中将にも困ったものだ)
チラリと後ろへ目線を送る。ラーネン大尉は黙ってついてきていたが、その表情までは軍帽の影に隠れて分からなかった。
最初は、単なる政治的駆け引きの為に送られた者だと思っていた。外野から見れば滑稽ではあるが、こういった行動は防諜を生業とする連中の常套手段であり、彼女は単なる囮、つまり"お前には目をつけているぞ"という忠告の類であると。しかし、なぜ彼女なのだろうか?
無意識に顎に当てた手の指先が、古傷にそっと触れた。
私の左頬にある傷…視覚的な隠蔽魔法を化粧替わりに施してある"それ"を、彼女はいとも簡単に看破したのだ。しかも、本人は見破ったことにすら気付いていない。
とんでもない才能である。
そんな貴重な能力を持った人材を、ただの捨て駒としてクラウヴィッツの奴が使うだろうか?
頭を捻るが合理的な答えは出てこない。
もはやここまで来てしまったのだ、考えても仕方がないと割り切り、ある部屋の前で立ち止まる。黒色杉の木材に鉄の飾り細工、獅子の顔を模した叩金が付いた扉…ムラル中将の執務室だ。
「ここだ。中将が待っておられる……。いいな、何が見えても動揺することのないように…」
最後の忠告は余計だった、と若干後悔するが、彼女が気にする様子は見られなかった。
そもそも何故私は、知り合って数日としか立っていないのこの年若い士官をここまで気にかけるのか。
「ムラル中将、ラーネン大尉を呼んで参りました。」
『入りたまえ。』
今は考えても仕方がないか。
後ろに控える大尉へと軽く頷き、扉へと手を掛ける。
蝶番が盛大に軋み、不協和音を伴って内側へと開いた。
(さて、どうなるかな?)
展開の予測が出来ない不安と緊張感、若干の好奇心とを伴って、室内へと足を踏み入れた。
(ロスバルク大佐はムラル中将の正体を見破られることを恐れているらしい。)
大佐の後ろを付いて行きつつ、ラーネン大尉は彼の心の内を探っていた。
(それと同時に私の身も案じてくれているようだ…なんとお人好しなのだろうか。)
ムラル中将が"エルフではない"ことは確定とみて良さそうだ。
後は直接確認し、先に入っているという捜査官に報告すれば、私の任務はほぼ終わったようなものである…。正体を知り、生きて戻れたら、ではあるが。
ロスバルク大佐はある部屋の前で止まった。他の部屋とは違って豪華な装飾の施された扉からして、ここに将軍がいるのであろう。
「ここだ。中将が待っておられる……。いいな、何が見えても動揺することのないように…」
大佐からの忠告は、私からみてもかなり不自然な発言だった。どう考えても余計な一言である。飛行艦の中で諜報員には向いていないと私に言っていたが、本人にも大した才能は無いようだ。
「ムラル中将、ラーネン大尉を呼んで参りました。」
『入りたまえ。』
男とも、女とも判別できない、何とも中性的な高い声だった。
ロスバルク大佐の後ろについて入室する。
室内は濃い魔力で充満していた。部屋は幅、奥行きともに十メートルもないくらい、床と天井は板張りで壁は白い漆喰で塗り固められている。
正面には大きな鎧戸付きの窓があり、いざとなればここから脱出出来そうだ。外は市街地の中心部が見えるように作られているようで、微かに城下町と天守塔が見えた。
あとはソファーや執務机、椅子や箪笥、本棚などの調度品があるくらいで、花瓶や絵画といったものは飾られておらず、部屋の主がそういったものに頓着しない、実務重視の性格であるように感じた。
「やあ、君が新任の副官か、色々苦労をかけるだろうが、まあ宜しく頼むよ。」
そして部屋の奥、窓を背にして軍服姿の人物が歓迎するように両手を広げていた。
肌の色は白、髪は金髪で短く刈り上げられており、背は私の肩を少し越えるくらいである。標準的なエルフよりも背はある方のようだが、体の幅はロスバルク大佐よりも細く貧弱なように見える。元々年齢の分かりにくい種族ではあるが、中性的な声質と相まって歳を予想することは出来なかった。
少し背の高く痩せたエルフ、というのが私の抱いた第一印象であった。
「…本日付けでカール・フォン・ムラル中将閣下の副官を拝命致しました、アクア・ラーネン大尉と申します。至らぬ点も多いと思いますが、以後宜しくお願いいたします。」
一目で見破れる、と思っていたが、どうも考えが甘かったらしい。
違和感は、ある。だがそれが何なのかは分からない。
八つある眼の全てに魔力を集中させるイメージで、部屋全体を見渡すように感覚を研ぎ澄ます。
ムラル中将は先ほどと変わらず、笑ったままこちらへと近づいてきた。
部屋に充満した魔力のせいで、胸焼けと頭痛の不快感に耐えながらも、何とか糸口を見つけようと試みる。
「まあそう肩肘張らずに…別にとって喰おうなんて考えてないさ。大佐、君の後ろの戸棚に上物の果実酒があるから…そう、それだ。取ってくれたまえ。」
中将の視線がロスバルク大佐へと向いたとき、最初に抱いた違和感の正体に気がついた。
(体と、影の大きさがあっていない…影の方が倍近くありそうだ。)
まるで蜃気楼のように、ムラル中将の体がスッと薄くなった。何体も重複したかのように輪郭がボヤけて見えるようになる。影を見抜いたことで、それを起点に術式が崩れたのだ。
それと同時に、ラーネン大尉の体に悪寒が走った。
戦場で何度も経験した感覚だ。敵の待ち伏せに気付いた時、撃破したと思っていた敵戦車がこちらを狙っていた時…本能が"すぐに逃げろ"と頭の中に全力で警鐘を鳴らしてくる。見えてはいないが感じるのだ、自分の前にいる存在の危険さに。
湧いてきた恐怖心を理性で押し留め、歯を喰い縛ってムラル中将へと焦点を合わせる。
そして部屋全体と中将本人にかかっていた隠蔽と欺瞞の術式が完全に崩れ去る。
(なんだ…なんなんだ"コレ"は…!)
ラーネン大尉の目の前にいたのは、彼女の背丈よりも巨大な、ムカデの形をした魔物だったのだ。