どうぞお幸せに side マシュー
「あの・・・、申し訳ありません。お名前をお伺いしても宜しいですか?」
そう僕に尋ねた君の瞳には、
何の熱も灯ってなかった──。
ただ、知らない人に話しかけられて、
戸惑ってるだけ。
あんなに、
『マシュー様、大好きです』
『いつもお慕いしております』
僕が愛しくて堪らないって瞳で愛を伝えてくれてたのに。
あれ・・・でも、それは学園に入学する前までだった・・・?学園に入ってから、僕はセイラに愛を告げられていただろうか?
僕の方は・・・と、思い返してみる。
でも思い出すのはマリアとの甘い時間だけ。
そこにセイラは居なかった。
そう気づいて僕は愕然としたんだ。
だって僕達は今最終学年だ。
入学してからの2年間、僕はずっとマリアと一緒にいた事になる。
学園で最後にセイラと過ごしたのはいつだった?
─────思い出せない。
僕は一体、何をしていたんだろう・・・。
それでも、
心のどこかでそんなはずがないと思ってたんだ。
セイラが僕への愛を忘れるはずがないって。
ずっとこれからも変わらず、
隣にあるものだと思ってた。
もし毒で忘れたとしても、僕の顔を見たらすぐに思い出すはずだって、そう、思ってたのに──。
「申し訳ありません、王太子殿下。私、貴方のことは何も覚えておりませんの。どうかご容赦くださいませ」
他人行儀なセリフ。
その声には、その瞳には、
親しみも、愛情も何も乗っていない。
セイラの中の僕は、──消えたままだった。
それどころか、ジュリアンと手を握り合って、気を許した笑顔を見せていた。
その顔は、以前は僕にだけ見せてくれていたのに。
セイラの隣は、僕の場所だったのに。
瞬時にジュリアンに対して怒りが湧く。
「セイラに触るな!」
そう怒鳴っていた。
少し前までマリアを愛するがゆえに、セイラとの結婚を迷っていたくらいなのに・・・。
もしマリアを妻に出来たら・・・なんて叶わぬ夢を見て、期間限定の、身分差の恋が切なくて、辛くて、毎日マリアを求めてしまったくらいだったのに。
ジュリアンにセイラを取られる。
セイラが僕から離れてしまう。
それがこんなに身を斬られるように痛むなんて・・・っ、
嫌だよセイラ・・・、
離れていかないで・・・っ
僕の側にいて。
そう縋ろうとしたその時、
「マシュー様!」
愛するマリアの声が聞こえた。
声の方に振り向くと、マリアが僕に駆け寄ってくる。そしてセイラの前でマリアが僕の腕に絡みついた。
この時、僕は初めてマリアに対して嫌悪感を感じた。セイラに悪く思われたくない。今更そんな気持ちが湧いて出たんだ──。
そして信じられない事に、マリアがセイラに噛み付いた。
「セイラ様酷いです!こんな公衆の面前でジュリアン様との仲を当てつけのように見せつけて!いくら私達が愛し合ってるのが気に入らないからって、仕返しのような卑劣な嫌がらせはやめて下さい!」
「何を言ってるんだマリア!」
「マシュー様!だって私は・・・っ、貴方が辛そうな顔をしてたから・・・っ」
僕がつい怒鳴ってしまった事で、マリアはその大きな瞳からポロポロと涙を流した。
いつもなら優しく抱きしめて目尻にキスをし、涙を掬い取ってあげるのに、この時の僕は余計な事をしてくれたマリアを腹立たしく思ってしまった。
セイラの目が怖くて見られない。
「違・・・、違う、違うんだセイラ」
「仕返し・・・ですか。記憶がないので言われている意味が全く分からないのですが、貴女が殿下の事をお慕いしているのはよく分かりましたわ。殿下には既にこんなに親身になってくれる素敵な方がいらっしゃったのですね。お二人とも美男美女でとてもお似合いですわ!どうぞお幸せに!」
「違う・・・違う!そんなんじゃない!」
「え?違うんですか?──あら?私また何か間違えたかしら・・・?」
そう言ってセイラは戸惑いながらまた隣のジュリアンに助けを求めた。その様子は完全に他人事だと思っている。
記憶がないからか、本来恋敵であるはずのマリアにまで敬意を見せ、満面の笑みで僕とマリアの幸せを願うセイラに、もう二度と僕が愛される事はないのだと悟った。
「───お似合いって、なんなんですか?貴女、私をバカにしてるんですか!?」
「マリア!」
「マシュー様!だって!」
「これ以上公爵令嬢への不敬は僕が許さない。弁えろ」
「・・・っ!?」
マリアからセイラの方へ視線を向けると、もう僕の事なんて見てなかった。
不安そうにジュリアンに寄り添って彼を見上げ「大丈夫。俺が守るから」というジュリアンの言葉に、頬を染めて笑顔を返していた。
きっと、学園に入学してマリアに出会った時に、僕はセイラの信頼を失っていたんだ。
そして期間限定の恋の許しを求めた時に、
愛も失い、セイラは毒を飲んで僕の記憶を消した。
一度失った信頼と愛は、
───もう取り戻せない。
放課後、1人になりたくてサロンに向かった。
中へ入ると入室カードを与えていたマリアが待っていて、僕を見るなり抱きついてキスをしてきた。
「・・・っ、マリア」
そんな気分じゃなくてマリアの体を離そうとするが、マリアは僕にしがみついて抵抗する。
「イヤ!マシュー様、お願い。以前みたいに抱いて・・・っ」
そう言って再びキスをしようとしたから、さっきよりも強い力でマリアを振り切った。
「どうして!?もう1か月以上も抱いてもらえてない・・・っ。あんなに毎日私の事を求めてくれてたのにどうして!愛してるって言ってくれたじゃない・・・っ」
その言葉で、この1か月マリアを不安にさせていた事に気づいた。僕がセイラの事ばかり考えていたから。
───ああ。母上の言う通り、
僕は本当に愚かだ。
失って気づくなんて。
あまりの喪失感に堪え切れず、涙が流れた。
「すまないマリア。──もう君を愛せない」
「どうして!?もうセイラ様とは婚約解消したのに!」
「すまない・・・無理だ。もう抱けない」
───僕はただ、目新しい刺激に、
期間限定の恋に、
──初めて経験した快楽に、
酔っていただけだったんだ。
それがセイラの愛情を犠牲にした上に成り立っていたと考えもせず、セイラの愛情に胡座をかいて己の欲を優先した。
本当に愛してたのは、セイラだったのに。
だってあんなに焦がれて愛を囁いたマリアが泣きながらサロンを出て行っても、追いかける気も起きないんだ。
あんなに毎日抱いたのに、もう抱きたいなんて微塵も思わない。僕は最低だ──。
セイラにはキスさえしたことなかったのに。
それはしたくなかったわけじゃない。
王族の婚約者は婚姻まで純潔を散らしてはいけない決まりだから、ずっと我慢してただけだ。
本当は抱きたくて堪らなかった。だからキスなんかしたら歯止めが利かなくなりそうで、出来なかった。
でももう、そんな事気にする必要はない。
もう二度と、
セイラが僕を愛する事はないのだから。
ポタポタと、床に涙が落ちて滲んでいく。
「セイラ・・・っ、嫌だ・・・イヤだよ・・・、セイラっ、うあああああっ」
僕を捨てないで。
それから数ヶ月後、
セイラとジュリアンの婚約が公表された。