お初にお目にかかります side ジュリアン
母からセイラが倒れて昏睡状態だと聞き、居ても立っても居られなくて急いで公爵家に向かった。
俺が先触れも出さずに来てしまったというのに、公爵夫人は笑顔で俺を迎えてくれた。
「ウチに来るのは久しぶりね。ジュリアン。娘に会いに来てくれてありがとう」
「い、いえ。それでセイラの容態は?無事なんですか?」
「ええ、もうすっかり元気なのだけど、娘に会わせる前にちょっと話したい事が────」
「あ。お母様。────あら?ご来客中でしたか」
俺の好きな、鈴を転がしたような可愛い声が、ホール階段の上から聞こえた。
視線を上に向けるとセイラは淑女が見せる社交用の笑みを見せ、階段を降りて俺の前まで来ると、カーテシーをして挨拶をしてきた。
そして続く言葉に唖然とした。
「お初にお目にかかります。一人娘のセイラ・バーンズと申します。どうぞごゆっくり楽しんでいって下さいませ」
「・・・・・・・・・」
─────お初にお目にかかります?
どういう事だ?
思わず夫人を見ると、困ったように笑い、説明するからとサロンに案内された。
それから説明された事は
俺が絶望する内容だった。
セイラは記憶を消す毒を飲み、
副作用で10日間眠っていた。
そして、マシューに関する全ての事を忘れてしまったのだと。もちろん、マシューの側近だった俺のことも。
「そんな・・・っ」
聞けば、毒を飲んだのはあの日、
マシューとあの女の情事の現場に出くわして涙を流していた日だと聞く。
確かにあの時、
あんな奴の事は忘れてしまえと願った。
でも、俺の事まで忘れてしまうなんて。
「ジュリアン・・・、ごめんなさいね」
夫人が謝りながら俺にハンカチを差し出した。何故なのかよくわかっていない俺に、夫人は俺の目にハンカチを押し当てた。
ああ、どうやら俺は泣いていたらしい。
自覚すると、途端に胸が詰まって嗚咽が溢れる。
さっきの社交用の笑顔が実はショックだった。
セイラが王太子の婚約者になっても、あんなただの知り合いに向けるような余所余所しい笑顔を俺に向けた事なんてなかったのに。
俺はもう、セイラの幼馴染ではなく、見知らぬ男になってしまったのか。
悲しくて、胸が切り刻まれたように痛い。
こうなる前にもっと早く助けられたら良かった。
マシュー達に何度言っても聞かないなら、家の力を使ってでもあの女を潰すべきだった。そうしたら、セイラは毒を飲むほど追い詰められなくて済んだかもしれないのに。
「自分を責めないでジュリアン。貴方があの子の為に、マシュー殿下に何度も諫言していた事を知っているわ。だから貴方だけはセイラに会う事を許したの。自分の幸せよりも、あの子の幸せを願える優しい貴方だから」
夫人は、俺の気持ちに気づいていたのか──。
「あの子の事を、ずっと愛してくれてありがとう」
「・・・っ!・・・ふっ、・・・ぐっ」
セイラを想うだけで胸が痛くてたまらない。
何度も何度も諦めようと思った。
もう、立場が違うのだと。
でもどんなに気持ちに蓋をしようとしても、セイラの声を聞くたびに、笑顔を見るたびに、どうしたって心はセイラを求めてしまうんだ。
何故なのかもう、理由なんてわからない。
ただただ、
セイラが欲しい───。
マシューがあの女を好きなら、
俺にセイラを返してくれよ。
誰よりも何よりも、
大事にするから。
「私は応援するわ。ジュリアン」
涙でぐちゃぐちゃの顔を上げると、俺の顔に驚いたのか、夫人は目尻を下げて笑った。
「マシュー殿下とは先日婚約解消したの。だからあの子は今フリーよ。そんなに拗らせるほどあの子が好きなら、今度は死に物狂いで頑張りなさい。でも、応援はしても手は貸さないわよ。私はあの子の幸せが一番だからあの子の気持ちを優先する。だから、頑張ってあの子に選ばれる男になりなさい」
婚約解消?
────じゃあ、いいのか?
もう誰にも気兼ねする事なく、
セイラが好きだと伝えていいのか?
「それからミレイから聞いたわ」
──────母上から?
「マシュー殿下の側近を辞退したそうね」
「────はい」
「それはセイラが原因?」
「いえ、きっかけにはなりましたが、前々から辞退しようと考えてたんです」
そう。俺はあの日──。
セイラが泣いた日に、陛下に謁見を願い出てマシュー殿下の側近を辞退したい旨を伝えた。
『考え直すことはできないか。お前だけがマシューに諫言して道を正そうとしてくれた。そのような臣下にはなかなか出会えないものだ』
『・・・申し訳ありません。私はもう──殿下に忠誠を誓えません。そんな者を側に置いてはマシュー殿下の足枷にしかなりません。それに私は嫌われていて側に寄らせてもらえないですから』
『───そうか。お前を失望させてしまったのは私達にも責があるな。・・・受理しよう』
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「俺は忠誠を誓うべきマシュー殿下に、軽蔑と、怒りと、殺意しか湧かないんですよ。そんな危ない側近が近くにいたらダメでしょう」
俺は側近であり、幼馴染でもあるのに、終ぞあの男の人間性を好きになれなかった。
さほど苦労しなくても何でも器用にこなせてしまうゆえに、大人達に天才等と有望視され、挫折を経験した事がない。
本人は死に物狂いの努力をしたと思い込んでいるが、学友でもあった俺ら側近から見たらあの男の努力など取るに足らない。
憎らしい事に才に恵まれているのは事実なのだ、あの男は。
セイラや俺らは、そんなマシューに追いつこうと子供の頃から必死だった。
更に地位が王子であるがゆえに、周りは自分を尊重し、愛されるのが当たり前であると信じて疑いもしない。要は頭が花畑なのだ。
それでも、学園に入るまでは許せた。当時の殿下は純粋にセイラを愛していたから。
だから俺は何度もセイラを諦めようと思ったんだ。
なのに学園に入学して阿婆擦れに会ってから変わってしまった。
正直言って、あの阿婆擦れ女の件で殿下の評判はあまり良くない。
当たり前だ。あの女に引っかかったのは下位貴族の男ばかりで、高位貴族で引っかかったのがよりにもよって殿下ただ1人。
俺以外の側近も毒牙にかかってはいるが、殿下が阿婆擦れを独占しているために、かろうじて一線は超えていない。
ここ1ヶ月ほどのサロンでの痴態は側近達が隠しているのと、一般生徒は立ち入りできないエリアな為に他の生徒に知られていないが、
それも時間の問題だ。あの阿婆擦れがしおらしく黙っているとは思えない。
周りの有能な高位貴族の令息令嬢達が、学園内でセイラではなく阿婆擦れを隣に置いている殿下をどんな目で見ているのか、セイラをどんな目で見ているのか、あの男はまるで気づいていないのだ。
いくら学年首席でも、人望がなければ人はついていかないというのに。
そんな愚か者に成り下がった男に、
セイラは傷つけられたのだ───。
許せるわけがない。
護衛なんかできるか。
「俺が命をかけて守りたいのは、セイラだけです」
そう言うと、
夫人がセイラによく似た顔で、柔らかく笑った。
セイラ。
今度こそ、俺に守らせてよ。
またアップルパイ持って行くから、
だからまた、あの幸せそうな笑顔を見せて。
好きだよセイラ。