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小さな電灯が灯る煤けた蔵の中に、ボクたちはいた。
もう少し正確に言うのなら、そこは彩夏さんの屋敷の離れにある土蔵で、ボクたちとは、ボクこと逢坂斑と夕張雅、そして、彩夏さんの弟子である山月楓の三人だ。なぜ、この三人がそのような場所にいたのかというと、捜索だ。
「ここにも、手がかりになるような物はないか」
雅さんは、雑然とした蔵の中を手当たり次第に物色していた。ホールで優雅に梅昆布茶を啜っていた時とは違い、その所作に無駄はなく機敏だった。
「雅さま…あまり、ここにある物の配置を変えてしまうと、彩夏先生に怒られてしまいますので」
か細い声でぼそぼそと言ったのは、楓だ。その表情には血の気がなく、蒼白だった。
「彩夏に怒られる心配なら、必要ないよ。あいつは既に、この世にいない」
簡素な言葉で、夕張雅は言い切った。
坂下彩夏は死んだ、と。
先ほどまで、彩夏さんは生きていた。それこそ当たり前に。何の変哲もなく。にもかかわらず、大した予兆も誇張もなしに、彼女は死んでいた。殺されていた。
ボクも、何度も思い知らされてきたはずだった。現実では、人が死ぬ時にフラグなど立たない、ということを。
「けど、どうして、彩夏先生が…」
唐突に師を失った楓の手と声は、震えていた。その振幅の大きさが、彼女の動揺の深刻さを代弁している。
「確かに不思議だね。どうして、あの彩夏を亡き者にすることができたのか」
雅さんは、彩夏さんが殺された理由より、殺害手段の方を気にかけている節があった。
だが、彼女が言うように、彩夏さんの殺害は不自然なことだった。魔法などという埒外のインチキを扱う魔女の台詞ではないかもしれないが、魔女だからこその疑問が浮かぶ。
なぜ、『不死の魔女』であるはずの彩夏さんを殺害することができたのか、と。
西暦が始まる以前から、様々な魔女がこの世界に生まれ落ちた。しかし、魔女という言葉だけで、全ての魔女を一括りにすることはできない。魔法という特異な能力を持った魔女の中でも、さらに特異で固有の魔法…『唯一魔法』を扱える魔女が、僅かではあるが、存在していたからだ。当然、『不死の魔女』である彩夏さんも、その『唯一魔法』を持つ稀有な魔女の一人だった。
「あの彩夏が殺されることなど、本来はありえないはずなんだけどね」
雅さんの声に起伏はなく、ルーティンワークのように懐から取り出した乾燥梅を口に運ぶ。慣れたはずのその動作がほんの少しだけ、ぎこちなく感じられた。
「そう…ですね」
ボクもぎこちなく相槌を打った。殺害されておいて死なないも何もあったものではないが、それでも、彩夏さんは死なないはずだった。
二十四時間以内に、三度の死を迎えなければ。
正確には、一日が始まる午前零時から一日の終わりである二十四時までの間に三度の死を繰り返さなければ、彩夏さんの息の根は止まらない。
それが、歴史上でも彼女だけが持ち得た奇跡級の『唯一魔法』…『醒生誕魔法』だ。
バグとも言えるこの『唯一魔法』があり、さらには魔女としての格が違ったアノ人だからこそ、彩夏さんは『不死の魔女』などというふざけた異名を持ち、『魔女協会』の懐刀として辣腕を振るってきた。
「信じられるかい。彩夏は、五体を泣き別れにされても死なないんだ」
無駄のない動きで捜索を再開しながら、雅さんは緩慢な声で呟く。
「いや、一度はそこで死ぬ。それでも、ビデオの逆再生のように、彩夏の体は再構築されていくんだ。挽き肉みたいに飛び散った肉片や押し潰されて水分の漏れた眼球、破裂して裏返った臓器や折れて飛び出た白い骨、無造作に飛び出た腸、さらには床にこびり付いた赤錆のような血液も元通りに復元されて、彩夏が死んだという痕跡は微塵も残らない」
スプラッターな表現をしていた雅さんだったが、そこで手を止めた。手を止めて、少し遠くを眺める。その場所に、彩夏さんとの過去を投影していたのかもしれない。
彩夏さんとの付き合いが最も長いのは、この人だったはずだ。
「やはり、ここにも彩夏の殺害に関係するようなものは、ないようだ」
其処彼処に物の置かれた土蔵の中を、端から端まで物色した雅さんは小さく呟く。
彩夏さんが殺害されたのは、小麦の『魔女裁判』が行われたあの書斎だ。
最初は、現場であるその書斎を調査した。それから館の中の全ての部屋を徹底的に調べあげ、離れにあるこの土蔵の中まで漁ったが、彩夏さんの死と結びつきそうな物は何も見つけられなかった。
彩夏さんは、頭部に外傷を負わされ、殺害されていた。
当然、そこには犯人となる人物がいる。
しかし、彩夏さんが殺されていたことを、警察などには知らせていない。普通の人間を相手に、『不死の魔女』が後れを取るはずはない。
彩夏さんの命を絶ったのは、魔女だ。
引き金を引いたのが魔女ならば、その幕を引くのも魔女でなければならない。そうやって、魔女は魔女の存在を隠匿してきた。『魔女狩り』の再来など、二度とごめんだからだ。
「その先は『倉庫』だよ」
唐突に言われた言葉を、ボクは理解できなかった。
「アー…カイブ?」
声をかけてきた雅さんの目線の先には、小さな扉があった。考え事をしていたボクは、知らず知らずのうちにその扉を眺めていたようだ。
「その扉の先には、『魔女協会』が闇に葬ってきた『資料』が山ほど眠っているんだよ」
雅さんが、そう説明してくれた。
「けれど、その扉は誰にも開けられない。ここの主だった、彩夏にもね」
「彩夏さんにも…ですか」
「その扉を開けるには、専用の鍵が必要になる。ただし、その鍵は結界に守られていて、誰にも持ち出すことはできない。だから、誰にもその扉は開けられない」
雅さんは、魔女の声で語る。
平坦で、摩擦のない、魔女の声で。
「…詳しいんですね」
「その資料の番犬をするのが、『調停人』の役目でもあるんだよ」
先代の『調停人』である夕張雅さんは、微笑んだ。その笑みは、薄氷より薄い。
「そろそろ戻ろうか」
踵を返し、雅さんは蔵の外へ出た。ボクと楓も続いて外に出たが、そこで、世界の色彩ががらりと変わる。光源の乏しかった土蔵の中とは違い、外界は日の光に溢れていた。鬱陶しい、くらいに。
「彩夏の異変に気付いたのは、楓くんが最初だったね」
煉瓦造りの館の角を曲がったところで、前を歩く雅さんが軽く振り返る。その少し先では、水を浴びた花壇の花見月たちが悠々と咲き誇っていた。この館で起きている凶事になど、見向きもしないままで。
「…はい」
返事をした楓だったが、その表情には陰が差したままだ。
「控室で動かなくなっていた蜜柑を、見つけたんです…だから、お師匠様にも何かが起こっているのでは、と」
この館で起こった異変は、殺害された彩夏さんではなく魔法人形の蜜柑から始まった。
「それは何時くらいのことだったかな」
雅さんが楓に尋ねる。
「三時ちょうど…くらい、だったはずです」
「つまり、その時間には彩夏は息を引き取っていた、ということか」
魔法人形である蜜柑は、創造主である彩夏さんから供給される魔力で活動していた。だが、彩夏さんが絶命し、その魔力の供給が途絶えれば、蜜柑は元の人形へと戻ることになる。
倒れていた蜜柑を発見した楓は、血相を変えてボクたちに異変を伝えた。彩夏さんの身に何かが起きている、と。そして、気を失っていた小麦と、その介抱をしていた柘榴を除いた全員で、ボクたちは彩夏さんの書斎へと向かった。書斎の扉をノックしても、返事はなかった。
その扉を開けた先で、ボクたちは遺体となった『不死の魔女』と対面した。
誰かが叫び、誰かが狼狽し、誰かが泣いていた。
当たり前が、そこで瓦解した。
世界の主軸は、そこで傾いた。
それからしばらくして、ボクたちは館の中の捜索を始めた。彩夏さん殺害に関係しそうなモノを、調べるために。いや、彩夏さんが死んだという現実から逃避するために、だったのかもしれない。
「…けど、屋敷を虱潰しに探しても、ただの徒労に終わった」
ボクは、聞こえない声で呟いた。
「収穫ならあったよ」
いや、聞こえていたようだ。前を歩く、夕張雅さんには。
「それは、どういう…」
言いかけたボクだったが、雅さんは既に歩き始めていた。館の入口へと、向かって。
二人を追いかけようとしたボクだったが、そこで足を止めた。
雅さんは、歩き出す前にどこかに視線を向けていた。その場所に、ボクも視線を向ける。
この屋敷の廊下には、窓があった。
窓は、強固な格子で守られていた。
その窓の真下…日陰の中に落ちていた黒いパスケースを、ボクは見つけた。大した考えもなく、そのパスケースに手を伸ばす。中に入っていたのは、一枚の写真だった。
そこに写っていたのは大きなランドセルを背負った、小柄な少女だ。小学校の入学式のようで、校門に立てかけられた『入学式』の看板の横で、少女は照れくさそうにはにかんでいる。
ボクは、その写真の少女を知っていた。
ただ、最後にボクが彼女の姿を見たのは、遺影の中だ。
彼女の享年は、五歳のはずだった。
「なの、に…」
その写真の中、ランドセルを背に微笑んでいたのは、二年前に死んだはずの、鶴賀沙織の娘だった。