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「罪というものに色があるとすれば、それは何色だろうね」
坂下彩夏さんの屋敷の中、ホールの天井を眺めていた夕張雅さんが、優雅に珈琲カップを傾けながら呟いた。品のある佇まいは年季の入った館の調度品ともマッチしていて、腰まで伸びたストレートの黒髪は、風格や貫禄のようなものまで感じさせる。ただ、彼女のカップを満たしていたのは紅茶や珈琲といった舶来の飲料ではなく、純国産の梅昆布茶だったけれど。
「罪に色があるかどうかは知りませんけど、白じゃないことだけは確かじゃないですか」
先ほどの彼女の台詞に、ボクが言葉を返した。雅さんの対面には敦賀沙織さんが座っていたが、彼女はホールに置いてあった絵本を号泣しながら読んでいて、それどころではなかった。
一見すると、雅さんも沙織さんも妙齢の貴婦人ではあるが、二人して奇人だった。ただし、二人とも魔女だ。それも、かなり名の知られた魔女だ。
そして、この館の主である彩夏さんがこの二人の魔女を…いや、遠江柘榴を含めた三人の魔女を呼び寄せた理由というのが、酒盛りだった。女子会などではなく酒盛りというのがいかにもこの面子らしいが、その酒宴にはボクと小麦も強制的に参加をさせられることになった。まだ日も高い時間帯だというのに。
というか、小麦の『魔女裁判』の後で呑み会というのも落差が激しすぎてこちらとしては困惑するしかない。まあ、最初から、彩夏さんには小麦を有罪にするつもりはなかったようだけれど。
ただ、ホストである彩夏さんには急な仕事が入ってしまい、今は書斎にこもっている。なので、ボクたちはその仕事が終わるのをここで待っていた。
「なるほど、罪の色が白ではないというのは、潔白という言葉から想起したのかな」
梅昆布茶を優雅に啜りながら、雅さんは視線をボクの方に向けた。
「けど、私は少し違う見解でね。白色こそが、罪に相応しい原色だと思っているよ」
「…白が、罪の原色?」
ボクとしてはピンとこない話だった。
「面白そうなお話をしているようですね」
そこで、家主である彩夏さんがひょっこり顔を出した。先ほどとは違い、髪を後ろで束ねたラフなスタイルだ。ここだけの話、こっちの髪型の方が好みだった。言うと調子に乗るだろうから言わないが。
「仕事の方は片付いたんですか?」
ボクは首だけを彼女の方に向けて尋ねる。
「いえ、お待たせして申し訳ないのですが、もう少しだけかかりそうです」
「大変ですね、『調停人』も」
彩夏さんは、魔女たちの間で起こるトラブルを秘密裏に片づける『調停人』に任命されていた。彼女にその任を課したのは、魔女たちを束ねる『魔女協会』だ。
「ええ、調停だのなんだのと言っても、結局は協会の犬でしかないですからね」
自虐的に言った彩夏さんだが、先刻の『魔女裁判』では小麦を助けてくれたあたり、この人も相当のはねっ返りだ。協会からは、本当に小麦を消すように言われていただろうに。とはいえ、『不死の魔女』などと呼ばれるこの人でもなければ、魔女たちが起こすトラブルには対処できない。
「今日は、お昼から呑んだくれるつもりでいましたのに」
彩夏さんは、軽く唇を突き出してぼやく。先ほどまでの硬質な表情ではなく、それは柔和な面持ちだった。というか、こちらが彼女の本当の顔だと言って差し障りはない。
「最近は蜜柑から禁酒を命じられていて、一ヵ月も前から料理酒すら口にできなかったんですよぅ…」
「蜜柑から禁酒…?」
蜜柑というのは、彩夏さんが創造した生きた『魔法人形』で、彩夏さんたちの身の回りの世話を行う侍女のような存在だ。けど、そのメイド人形から禁酒を言い付かるというのは、どういうことだろうか。
「前に呑んだ時、酔っ払ってみんなの前ですっぽんぽんになってしまいまして…」
「どうしてボクはその場にいなかったんですか!」
過去に戻る魔法はないのだ。
「というわけで、頼まれた仕事を早く終わらせるためにも、ちょっと外の蔵に資料を取りに行ってきます」
「はい、いってらっしゃい」
ボクは、彩夏さんに軽く手を振った。
「あ、そうだ」
そこで、彩夏さんは無垢に笑った。悪戯でも思いついた、少女のような笑みで。
「呑み会の時、一緒に斑くんのお祝いもしますから、楽しみにしていてくださいね」
「お祝い…?」
ボクとしては何の心当たりもなかったのだが、それを聞く前に彩夏さんはホールの先にある玄関へ向かった。その背中を見送ったボクの視界に、ホールにある柱時計が映る。その文字盤は、ぼんやりと青く光っていた。だが、彩夏さんが館の外へと足を踏み出すと同時に、文字盤の色が青から赤へと色を変える。
これは、この館に施された魔術的な仕掛けだ。彩夏さんが外に出れば、時計の文字盤が青から赤へと変わり、中へ戻れば赤から青へと、彼女の魔力に反応して変化する。ただ、この仕掛けのことを彩夏さん本人は知らない。
どうしてこのような仕掛けがあるのかというと、彩夏さんには、仕事を放り出して館を抜け出すという逃走癖があったからだ。しかも、抜け出すのは近所の男の子たちと買い食いやらカードゲームやらに興じるためだ。いい年をしたお姉さんがそれではさすがに外聞が悪すぎるので(実際、近所の小学校からはちょっとした苦情が来ている)、その逃走に気付けるように、彼女の弟子がこの仕掛けを施した。
というか、逃走癖やら酒乱の気がある『不死の魔女』というのはどうなのだろうか。
「それじゃあ、話を少し戻そうか」
彩夏さんの後ろ姿を見送ってから、雅さんが口を開いた。
「罪とはどんな色かという話だったけれど、やはり、白色こそが罪に相応しい原色だよ」
梅昆布茶で舌を潤しながら、彼女は再び語り始めた。
暇なのだろうか。
「罪という行為は人間にしかなくてね、他の生物はその概念すら持ち得ていない。だから、人が罪という禁忌を犯そうとする時にこそ、その人間が持つ最も純粋な根幹が浮き彫りになる。たとえば、欲に目がくらんで詐欺を働く時、たとえば、空腹に耐えかねて窃盗を行ってしまった時、たとえば、自分本位にスピード違反を繰り返している時…そういった瞬間こそがその人間の根幹であり、その人間の本質だ」
「それは…」
ボクは言葉に詰まったが、そこで、ポケットの中の懐中時計の重みを感じた。これは、小麦の『魔女裁判』の後で彩夏さんから手渡されたものだ。彩夏さんはお守りだとか適当なことを言っていたが、懐中時計にはベラドンナの花が刻印されていた。これ、『魔女協会』の紋章なんだよな…。
「だから、人が罪を犯すその瞬間だけは、白色という原色なんだよ」
雅さんはカップの梅昆布茶を飲み干した。そして、流し目気味にボクを見る。
「要するに、斑くんも自分の原色を卑下しなくていいということだ。ソレ自体は君の根幹であり、第三者が踏み込めない不可侵の領域なのだからね」
「…ボクの原色?」
何の話だ?
「年端いかない少女に対して劣情を抱いてしまったとしても、その未成熟な肢体に手を伸ばしてしまったとしても、それは君の原色だということだよ」
「そもそもボクはロリコンじゃあねえんだが…」
何の問答かと思っていたが、何の問答だったのか理解できないまま話はそこで終わった。この人はこの人で、世界が傾くレベルの魔法が扱える先代の『調停人』だというのに。
そこで何かが割れる音がして、ボクは振り向いた。視線の先にいたのは、ミニスカの割烹着にエプロンをかけた、彩夏さんの弟子である山月楓だった…だが、その足元には割れた皿の破片が散らばっていて、その表情には苦悶にも似た驚きが浮かんでいた。
「…斑さんは、まだ小麦ちゃんに手を出していなかったんですか?」
「なんで手を出してないことに驚いてんだよ」
しかも、それで皿まで割るという粗相をやらかしている。
「だって、賭けてたんですよう。一月以内に斑さんは小麦さんを手籠めにするって」
「なんて不道徳な賭けをしてるんだ…」
というか、そんな賭けが成立するか?
「ちなみに、彩夏先生は半年に賭けていました」
「…オッズとかどうなってんだ」
「私は三カ月に賭けたから、手を出すのならそれくらいの時期にして欲しいな」
どうやら、雅さんまでもがその賭けに加担していたようだ。というか、この分だと柘榴のヤツも一枚噛んでる可能性がある。
「失礼しマス」
また新しい声がかけられたが、それは無機質な声だった。声の主は、有機物ではなく無機物で生成された、魔法人形の蜜柑だ。その手には『m』のルーンが刻まれた箒が握られている。
「お片づけしマス」
声は無機質だが、蜜柑は手馴れた動きで割れた皿の破片を拾い集めていた。さすがは、彩夏さんが制作した魔法人形だ。いや、最近では、創造主であるはずの彩夏さんでさえ、このマジカルメイドさんには頭が上がらなくなってきている。
それに、魔法人形とはいえ、面立ちなども人間との区別はつかず、体型も女性として理想の曲線美を描いていた。その体型に憧れた柘榴が、魔法で豊胸ができないものかと研究を始めたほどだ。というか、この女性陣の中で一番の真人間が魔法人形というのは、どういうことなのだろうか。
「ああ、その皿ならボクが直すよ」
ボクが、割れた皿を『修繕魔法』で直そうとしたのだが。
「いえ、こちらの尻拭いをお客さまにさせるわけにはいきませんノデ」
魔法人形の蜜柑は丁重に断った。
「それに、斑さまがここで魔法を使用してしまいますと、『ろぐ』が残りますノデ」
「ああ、そうか」
このお屋敷には、住人以外の魔女が魔法を使用すると、その記録が残る『魔法検知』の結界が張られていた。といっても、残るのは魔法が使用されたという形跡だけで、誰が何の魔法を使用したかという詳細までは分からない。それでも、この場所での魔法使用禁止という不文律の役割りは十分に果たしていた。
「では、私はこれで失礼しマス。この後は二時十五分から部屋のお掃除、二時半から洗濯物の取り込み、四十五分から花壇の水遣り、三時からは夕食の仕込み、その後は同人誌の仕上げがありますノデ」
「同人誌の…仕上げ?」
最後の最後に意味の分からない一言が聞こえてきた。
「壁サークルですノデ」
「…蜜柑先生とお呼びした方がいいのだろうか」
そして、掃除を終えた蜜柑は箒を持って立ち去ろうとしたのだが、そこで振り返った。
「それと、楓さんはまた私の掃除道具を勝手に持ち出しましたネ。魔法人形の私は『るーん』の刻まれた道具しか使用できないことぐらい、分かってるはずですヨネ。『るーん』の刻まれた道具は一種類ずつしかないのですヨ。勝手に持って行かれたら、仕事に支障が出るのデス」
楓に対して、蜜柑はお小言を発していた。最近では、創造主である彩夏さんですら蜜柑には頭が上がらなくなってきている。なら、その弟子である楓などは言わずもがな、だ。
まあ、この家で起こるトラブルの七割は楓が起こしているのだから、身から出た錆だと言われればそれまでだ。ちなみに、残るトラブルの三割は家主である彩夏さんが原因だ。なので、蜜柑がこの館のヒエラルキーのトップに収まるのも、当然と言えば当然か。
その後、蜜柑はこの場を立ち去ったが、今度は楓の愚痴が始まった。内容は、蜜柑に叱られたことに対するものが大半だったが、それは自業自得でしかない。ただ、徹夜で同人誌の手伝いをさせられたという点だけは、同情の余地があったかもしれないが。
そんな愚痴を延々と垂れ流していた楓が、不意に呟いた。
「あ、そうだ…焼き芋をしましょう」
「焼き…芋?」
唐突だったが、楓の会話がラグビーボールのように転々とするのはいつものことだ。
「はい、さっきまで蜜柑が庭掃除をしていましたので、庭に落ち葉が集められていると思うんですよ。だから、焼き芋をしない手はないんです」
「焼き芋、か…」
正直、それほど興味はなかったが、小麦は喜ぶかもしれない。なぜなら、女の子は光る物と焼き芋が大好きだからだ。
「ただいま戻りました」
そこに、鶴賀沙織さんがホールに入ってきた。というか…。
「いつの間に外に出てたんですか?」
さっきまで、そこで絵本を読んで号泣していたはずだ。
「ちょっと北風に呼ばれていたんだ」
すまし顔の沙織さんだったが、先ほどの大泣きのせいでマスカラがずれていた。
「そんなにじろじろと私の臀部を眺めるなんて、斑くんは未亡人にも食指が動くんだね」
「アンタのずれたマスカラが気になっただけだよ」
あと、未亡人にもってなんだ、とは思ったが、そっちは口にしなかった。二年前に夫と娘を事故で亡くしたこの人の、あまりにナイーブな部分だからだ。しかも、沙織さんの娘は、五歳になったばかりの小さな女の子だった。
…ただ、彼女の娘は、秘術なしに生まれた天然の『ヒトオオカミ』だったという噂が、まことしやかにあったけれど。
「では、沙織さまと雅さまもご一緒に焼き芋はいかかでしょうか?」
楓が、戻ってきた沙織さんと雅さんも誘ったが、大人女子の二人は断った。
けど、最終的には柘榴と間宮姉妹の二人も合流して、そこそこの大所帯で焼き芋会が始まった。言い出しっぺの楓はさすがに手馴れていて、火加減の調整や消火用のバケツの準備も万全だ。ただ、そのバケツには、ルーンが刻まれていた。それ、後で蜜柑が花壇の水遣りに使うやつだろ。また小言を言われるぞ。
「もう少しで焼き上がりそうですよう」
楓は、焼き芋よりもほくほくとした笑みを浮かべている。
「じゃあ、そろそろ小麦を呼んでくるよ」
ボクは、小麦を探しに行くことにした。先ほどの『魔女裁判』の後、少し一人になりたいと小麦が言っていたからだ。そして、ボクは小麦を探しに庭を歩く。
「いないな、小麦…」
すぐに見つかると思っていた小麦の姿は、すぐには見当たらなかった。
「アンタが色魔みたいな目で見るから、あのロリっ子が雲隠れしたんだろ」
「…いたのか」
いつの間にか、ボクの背後には口の悪い女の子がいた。といっても、幼馴染の遠江柘榴ではない。そこにいたのは、間宮灯子の妹である間宮京子ちゃんだ。
「相変わらず、ボクと二人の時は辛辣だな」
なぜか、京子ちゃんはボクに対してだけ悪態をつく。姉である灯子ちゃんの前ですら、内気な女の子の擬態を貫いているのに。
「ロリコン相手に愛想を振りまいたら、どんな妄想に使われるか分かったものじゃないだろ」
「…ボクがロリコンだという前提がまず破綻していると思うんだが」
「ところでさ、ロリ坂さん」
「そのロリ坂というのはボクのことか…?」
実は、柘榴にその蔑称で呼ばれていた一時期があった。
「もしかして、彩夏先生から懐中時計とか受け取らなかったか?」
軽く腕を組み、京子ちゃんはボクを見上げる。眼鏡の奥の瞳が静かにボクを捕捉していた。
「ああ、これか」
ボクはポケットから件の懐中時計を取り出そうとしたが、それどころではなくなった。
「あれ、は…」
そこには、一本の欅の木があった。
この屋敷の中に一本だけある、欅の木だ。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
どうでもよくなる光景が、眼前にあった。
欅の木の下で、下総小麦が横臥していた。
その小さな手に、なぜか、小さな鍵を握り締めて。