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「これより、『魔女裁判』を開廷します」
うら若き魔女の唇から発せられたのは、禁忌の響きだった。
煉瓦の洋館へ足を踏み入れたボクと小麦は、少し待たされた後で書斎へと案内された。しかし、洋紙、和綴じの書籍が一緒くたに収められた書架が居並ぶこの場所でボクたちを出迎えたのは、『不死の魔女』である坂下彩夏が口にした、『魔女裁判』という不穏そのものの言の葉だった。
「この裁判の被告人は貴女です、下総小麦さん」
仄暗い部屋の中、彩夏さんは静かな声で小麦の名を呼んだ。
「被告…人?」
想定もしていなかった呼びかけに、小麦の声は上擦る。
「…冗談だとしても、それは聞き捨てならないですよ」
そこで、ボクはようやく口を挟んだ。
彩夏さんが口にした『魔女裁判』とは、魔法などにより他者に害を及ぼしたとされる魔女たち(歴史上では相当数の男も含まれていた)を裁くための裁判だ。
中世ヨーロッパ…いや、古代ローマの初期には、既に魔法による犯罪が処罰の対象であることが規定されていて、その根拠は旧約聖書の『出エジプト記』に記された、『女呪術師を生かしておいてはならない』という記述にまで遡る。
現代社会では魔女の存在そのものが架空の産物として風化されつつあったが、『魔女裁判』は過去の遺物などではなく、現在でも秘密裏に行われていた。過去の『魔女裁判』よりも、醜悪な変革を遂げて。
当然、ボクは彩夏さんに喰ってかかる。彼女が、『異端の魔女』であるボクに手を差し伸べてくれた、唯一の恩人だったとしても。
「なぜ、魔女でもない小麦が『魔女裁判』にかけられないといけないんですか」
歴史上の『魔女裁判』では政治的、宗教的な理由から魔女以外の人間が裁かれた事例も多々あったが、現代の『魔女裁判』は、現行の法律では対処できない魔女犯罪を、魔女たちの手で内々に裁くための私設法廷だ。魔女ではない小麦が裁かれていい道理は、そこにはない。
「確かに、下総小麦さんは魔女ではありません。ですが、魔女にとって無害というわけでもありません。なにしろ、彼女は現存する最後の『ヒトオオカミ』なのですから」
泰然とした姿勢で安楽椅子に腰をかけたまま、彩夏さんは熱のない声で口にした。
下総小麦は、生き残りの『ヒトオオカミ』だと。
生まれついての、魔女の災禍だと。
「…小麦は、望んで『ヒトオオカミ』になったわけではありません」
一歩、ボクは踏み出した。
背中に小麦を隠すために。
「ええ、『ヒトオオカミ』とは、秘術により一切の魔力を削ぎ落とされて生まれた子供です。彼女が自身の意思で『ヒトオオカミ』になったわけではありません」
彩夏さんの口調は流暢で、立て板に水だ。だからこそ、その澄んだ声に熱はなく、底冷えさえ感じさせる。
「ですが、魔女同士が相食む時代の中、魔女が魔女を殺害するための手管として『ヒトオオカミ』という存在は産声を上げました。そして、歴史上、もっとも魔女を殺したのはその『ヒトオオカミ』です」
彩夏さんが語ったように、歴史の水面下では魔女たちが共食いめいた殺し合いをしていた時代もあった。その名目は、異なる宗派の派閥争いであったり、金銭が絡んだ俗な暗殺であったり、魔女特有の堕落した名誉であったりと一絡げにはできなかったが、そうした邪念が錯綜するキナ臭い時代の中、『ヒトオオカミ』と『操獣魔法』は生まれた。
魔女が魔女を殺すための手段として、『操獣魔法』が。
魔女が魔女を殺すための手駒として、『ヒトオオカミ』が。
しかし、『操獣魔法』は、創造された当初はただの欠陥魔法でしかなかった。この魔法は、魔女が人形などの無機物を操る『傀儡魔法』から派生させたものだった。魔法で人形が操れるのなら、人間を操ることも可能なのではないか、と。だが、魔女が対象者を操ろうと『操獣魔法』を唱えても、その人間が持つ生来の魔力が『操獣魔法』に干渉してしまい、人間を操ることはできなかった。
そして、魔女であろうがなかろうが、どのような生き物でも幾許かの魔力を持って生まれてくる。いや、母親の母胎にいる時に、母親から魔力を分け与えられて生まれてくる。なので、『操獣魔法』では生物を操ることはできず、この魔法はそのままお蔵入りとなるはずだった。
しかし、一人の魔女がその欠陥の打開策を打ち立ててしまった。生来の魔力が邪魔をして操れないのなら、最初から魔力を持たない赤子を生み出せばいい、と。
そうして、とある魔女の秘術により誕生したのが、一切の魔力を持たない『ヒトオオカミ』と呼ばれる魔女の猟犬だ。その魔女の思惑通り、『ヒトオオカミ』は『操獣魔法』で自在に操ることが可能だった。それだけではなく、操られた『ヒトオオカミ』は一時的に人間の領分を越えた挙動を可能とし、他の魔法による『操獣魔法』の無効化も受け付けなかった。
つまり、魔女に対してこれほど有用な尖兵はいなかった、ということだ。
その後、『ヒトオオカミ』を意のままに操り、とある魔女は幾つもの魔女殺しを完遂させた…いや、魔女の生き血を集め、歴史上、最も多くの魔女を屠った『魔女の血を啜る魔女』と呼ばれ、現在でも恐怖の代名詞となっていた。
だからこそ、『ヒトオオカミ』は魔女にとっての天敵で、『操獣魔法』で容易く操られてしまう『ヒトオオカミ』にとっても、魔女は天敵だった。
「…………」
縋るように、小麦がボクの手を握る。その手は『ヒトオオカミ』の呪縛に震えていた。
「…『ヒトオオカミ』だという理由だけで小麦を裁くのは、さすがにお門違いだ」
ボクは小麦の手を握り返す。それでも、か細く震える小麦の手を、止めることはできなかった。
小麦も、身をもって知っている。
狂気を支柱としているのが、『魔女裁判』だということを。
近年の歴史学者たちが行った研究により、数百万もの魔女が『魔女裁判』によって極刑にされたというのは、虚構や空想が入り混じった捏造であるとされている。それに、『魔女裁判』には当時から反対意見も多く、裁判にかけられたからといって必ずしも有罪にされたわけでもなかった。さらには、それが魔法による犯罪であった場合でも、他の犯罪と同程度の罰しか科せられなかったという調査結果も出ている。
それでも、歴史上の『魔女裁判』が健全な裁判だったとは、言い切れなかった。
集団ヒステリーによる『魔女裁判』の名を借りた私刑も、数多く横行したからだ。むしろ、そのリンチこそが『魔女裁判』の本質とも言えた。そのことは、長期にわたってヨーロッパ全土で行われたとされていた魔女狩りが、実際には社会不安の増大した一時期以外は、それほど大掛かりには行われていなかったことからも窺える。
「いえ、お門違いだろうと筋違いだろうと、『ヒトオオカミ』である下総小麦さんの存在は、魔女社会では看過のできない大過でしかありません」
坂下彩夏は、澄んだ声で毅然と言い放つ。
「そして、これから行われるのは前時代の異端審問などではなく、現代の魔女による、現代の魔女のための『魔女裁判』なのです」
彼女が語るように、歴史上の『魔女裁判』と現代の『魔女裁判』とは形態が大きく異なる。中世などの『魔女裁判』は教会や地元の領主などの主導で行われていたが、現代の『魔女裁判』は魔女が主体となって行われていた。『盟約魔法』を基盤とした、呪縛の儀式として。
「この文明社会の中では、魔女という存在はただのお伽噺として色褪せました。しかし、そもそも魔女とは秘匿されて然るべき存在なのです。もし、この情報化社会で魔女の存在が明るみに出てしまえば、社会はあの手この手で私たち魔女を根絶やしにすることでしょう」
端整な表情で、『不死の魔女』は魔女の理屈を捏ねる。
「なので、魔女の存在を社会の明るみに出しかねない異物は、手遅れとなる前に剪定されなければなりません。そのために、今日この場に下総小麦さんをお呼びしたのです」
「…さすがにそれは、暴論だ」
確かに、『操獣魔法』でケモノと化す『ヒトオオカミ』は、異物だ。
人の社会においても、魔女の世界においても。
「この裁判は『魔女協会』の総意です」
「協会が…」
現代の魔女は社会の片隅で生きる希薄な存在で、だからこそ、同族同士の横のつながりが血と同じ重さを持つ。その魔女たちが寄り添い組織されたのが派閥で、その派閥の集合体が『魔女協会』だ。そして、その協会が小麦の『魔女裁判』を決定したということは、魔女世界そのものが小麦の存在を否定した、ということに他ならない。
ボクの手を握る小麦の手が、硬直した。硬直し、手の平から熱が少しずつ失せていく。
これまでにも、出自を理由に、小麦は疎まれてきた。
白い目で見られ、露骨な悪意で迫害に近い扱いを受けてきた。
そんな中、小麦は口にしたはずだった。
助けて、と。
その声を、世界は聞き入れなかった。
魔女の世界では、その声は不都合でしかなかったからだ。
十歳になれば、『ヒトオオカミ』は『操獣魔法』で操られるようになる。
小麦を使えば、どこでも、だれでも簡単にだれかを殺害することが可能となる。
魔女の世界において、それは不都合以外の何物でもなかった。
それでも、ボクは彩夏さんを見据える。
「この場にはボクたち三人しかいない…それで、どうやって真っ当な裁判をするんですか」
現代の『魔女裁判』は現行の裁判員裁判を模していて、裁判を進行する裁判官と罪を立証する検察官、そして、被告の弁護をする弁護人と被告の罪を裁定する裁判員で構成されている。だが、ここにはボクと小麦を含め、彩夏さんの三人しかいない。これでは、まともな裁判を開廷できるはずもなかった。
そもそも、『魔女裁判』自体がまともな司法制度ではない。現代の『魔女裁判』は、魔女たちにとっての異分子を排除するためのサバトだ。
「下総小麦さんの『魔女裁判』は、この場の三人で役割りを分担して執り行います。裁判官と検察官は、私が兼任です」
熱のない声で言った後、彩夏さんは祈るように両手を胸の前で組み合わせた。同時に、彼女の魔力が対流と膨張を始める。無尽蔵とも思えるほどに、その魔力は膨らみ続けた。
「我が意に従い、我が威をなせ。我が命を聞き、我が銘に応えよ」
膨れ上がった彩夏さんの魔力が仄暗い書斎を満遍なく埋め尽くす。その魔力は比重も重く、隙間がないほどにみっしりと室内を圧迫した。同時に、組み合わせていた彼女の両手が、淡く光り始める。
「聞け、『祈紋』。我が名は、『慈悲のない凍結』」
淡い光が徐々に肥大化し、幾何学模様となり仄暗かった書斎を照らした。頭上に浮かんだ幾何学的な紋様はさらに裾野を広げていたが、その後、収束をして球状となる。それは『秤』と呼ばれる『盟約魔法』の核だ。
「では、下総小麦さんの『魔女裁判』を開廷します」
宣誓と同時に、比重の重い彼女の魔力がじわりと弾ける。
彩夏さんが、現代『魔女裁判』の基盤となる『盟約魔法』を発動させた。
空気が張り詰め、気圧が不規則に増減を繰り返す。
この場は現世とは隔絶され、『不死の魔女』の支配下に置かれた。