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「社会とは、多数の人間が折り重なって形成される樹形図だ」
そこでは個性を抑制し、社会を回すための歯車に徹することが美徳とされていた。
「こうした社会の在り方には否定的な意見も多い。けど、社会における歯車は、悪者扱いをされるだけの病巣ではない。歯車とは、他の歯車により固定されている楔でもあるからだ」
そうした楔がなければ、個人などは社会の重みによって簡単にへしゃげてしまう。
「ただし、その歯車の一端に加わるには、自分が一端の歯車であることを社会に認めさせる必要がある」
歯車としての価値を周囲に認知されなければ、社会の枠組みには入れない。
「…また斑が素っ頓狂な独り言を呟いてるのさ」
早くも恒例になりつつある、小麦からの遠巻きの視線だった。
「いや、別に…ここに来るまでけっこう時間がかかったなって、ぼやいていただけだよ」
「社会が樹形図だとか歯車だとか、青臭いお題目が羅列で聞こえてたのさ」
小麦には溜め息をつかれたが、そこそこの遠出になったのは本当だ。ここまで三本の電車を乗り継ぎ、そこからさらにバスまで使っている。
「あ、そうだ」
少し痩せた銀杏が並ぶゆるい坂道を歩きながら、小柄な小麦が小さく跳ねる。年相応のおしゃまなステップで、薄紅色のワンピースを軽快に翻しつつ。
「一昨日の『転移魔法』ってやつを使えば、ここまで一瞬で来られたんじゃないのさ?」
珍しく、無邪気な小麦の声だった。久しぶりの遠出で気分が高揚しているのかもしれない。そんな小麦に水を差すようで申し訳なかったが、ボクは否定の言葉を口にした。
「それは無理なんだ」
「どうしてなのさ?」
小麦は、ちょっと不服そうに軽く口を尖らせる。こうした蓮っ葉な仕草も、日焼け跡の残る小麦にはとても似合っていた…のだけれど、少しずつ肌寒くなりつつあるこの季節にも関わらず、どうして小麦の肌は褐色のままなのだろうか。名前が小麦だけに、肌まで小麦色だと暗に主張しているのかもしれない。
「あの魔法で移動させられるのは、十メートルが限度なんだよ。というか、『転移魔法』にしろ『修繕魔法』にしろ、生き物に対しては効果がない」
「そう…なのさ?」
やや残念そうな表情を浮べていたが、やはり今日の小麦は機嫌がよさそうだ。ボクも、つられて饒舌になる。
「そうなのさ、なんだよ。目には見えないけど、どんな生き物でも大なり小なりの魔力を持って生まれてくる」
人間であろうが、そうでなかろうが。
魔女であろうが、そうでなかろうが。
「どんな生き物でも、魔力を持って…」
そこで、小麦の表情が微かに翳っていた。
けど、ボクは大した頓着もせずに続ける。
「で、その生来の魔力が魔法に干渉してしまうから、『修繕魔法』や『転移魔法』を生物にかけようとしても、魔法はうまく機能しなくて不発に終わってしまうんだ」
それでも、この二つの魔法は日常生活で重宝する。壊れてすぐの物体なら『修繕魔法』での復元が可能だし、移動可能な範囲内であれば、『転移魔法』は空間を飛び越えて物質を瞬間移動させられる。しかも、大きめの箪笥なども転移させられるから、部屋を跨いだ模様替えも容易に行えた。
「…なるほど、理屈は分かったのさ」
そう言った小麦の表情は曇っていた。
無機質なまでに、感情が消えている。
「…………」
…これは、ボクが迂闊だった。
先ほどはどんな生き物でも多少の魔力を持っていると言ったが、例外はあった。魔女により一切の魔力を削ぎ落とされて生まれてくる子供が、きわめて僅かではあるが存在していたからだ。
そのうちの一人が、小麦だった。
その所為で、小麦は地獄を見た。
それを、ボクも目の当たりにしたはずだったというのに。
「…ところで、アタシたちはどこまで歩けばいいのさ?」
小麦には先刻までの喜色はなく、色の褪せた声をしていた。出会ったあの時と同じく、その声音は抜け殻めいている。街路樹の痩せた銀杏の木々も、小麦の表情に陰を落としていた。
「…そこの角を、曲がればすぐだよ」
ボクのくぐもった声と共に、閑静な街角を右折した。その少し先に、蔦に覆われた煉瓦造りの洋館が見えてくる。洋館の門構えは重厚で無骨だったけれど、煉瓦は暖色系の薄い赤色をしていて、魔女の棲み処にしてはそれほど排他的な印象は受けない。
「あの家なんだけど…」
そこで洋館を指差したのだが、館の前には見覚えのある二人組の先客がいた。一人は高校生の少女で、もう一人は中学生の少女だ。どちらも、ショートカットと眼鏡の似合う利発そうな制服姿の女の子たちだ。
そして、あの二人は姉妹で、魔女だった。ボクのようなぽっと出の雑種とは違い、血統書が付くほどの家柄の。
「…あの二人と鉢合わせか」
これは想定外だった。そして、向こうもこちらに気付く。ボクに気付いた姉妹の表情が小さく強張ったのが、遠目にも窺えた。どうやら、向こうもボクが呼ばれていることは知らなかったようだ。
「やあ、こんにちは」
なので、こちらから先に声をかけた。当たり障りのない言葉で、できるだけ気さくに。
「あ、あの…こんにちは、逢坂さん」
ぎこちなくも挨拶を返してくれたのは、姉で丸眼鏡をかけたセーラー服の間宮灯子だ。
「久しぶりだね、灯子ちゃん。二ヶ月ぶりくらいかな?」
「そう、です…ね」
間宮姉妹とは何度も顔を合わせているが、それでもボクに対する警戒心は弛んでいない。真っ当な魔女なら、『異端の魔女』であるボクを忌避するのは当然だからだ。
…いや、少し違った。
間宮姉妹の怯えた視線の先にいたのは、ボクではない。たった十歳の小柄な少女である、小麦だ。魔女の姉妹は、『異端の魔女』のボクよりも、下総小麦を恐れていた。
けど、怯えていたのは、小麦も同じだ。小麦も、初対面のはずの間宮姉妹に、怯えていた。
間宮姉妹の気配や視線から、小麦は察していた。
この二人も魔女だ、と。
だから、小麦も強張っていた。
下総小麦は全ての魔女の天敵になりうる存在で。
下総小麦にとっても、全ての魔女は天敵だった。
あどけない少女たちには不釣り合いな、重くて息苦しいだけの時間が流れる。
「おや、みんなもお呼ばれしてたのか」
そこで、背後から馴染みのある声がかけられた。
「柘榴まで来たのか…」
振り返った先にいたのは、遠江柘榴だ。薄いベストを羽織ったパンツルックという男装めいた出で立ちで、さらには細身の高身長だった。シルエットだけなら優男に見えないこともないので、性別としては宝塚寄りの女の子という分類だ。そして、魔女でもあった。
ただ、小麦も柘榴には懐いているから、それほど問題はないのだが。
「ああ、彩夏ちゃんに呼ばれたんだ」
遠江柘榴は、人懐っこい笑みを浮かべる。
「相変わらず斑はちびっこいな。小学生の頃から変わってないんじゃないか?」
背の高い柘榴がボクの目の前に立ち…というか、かなりの距離にまで接近してくる。鼻チュー寸前だ。
「けど、ここまで肉薄しても柘榴の胸はボクには当たらな…」
聞こえないはずの小声で呟いていたはずなのに、ボクは柘榴から地味な肘打ちを鳩尾に喰らっていた。
「柘榴姉さま」
膝から崩れたボクを素通りして、小麦は無垢な瞳で柘榴に駆け寄って行く。
「元気だったかい、小麦ちゃん。どうやら、まだ斑の毒牙にはかかっていないみたいだね」
「お、い…」
抗議の声を上げたかったが、十分な酸素が確保できない現状では擦れた発声しかできなかった。
「それと、そっちにいるのは間宮姉妹じゃないか」
魔女の姉妹を見つけた柘榴は、そちらにも手を振っていた。普段から姉御肌の柘榴は、同性から慕われることも多い。ただ、その慕われ方がやや性的なことも、多々あったけれど。
「お久しぶりです、柘榴さん」
丸眼鏡で姉の灯子ちゃんが挨拶を返し、フレームなし眼鏡で妹の京子ちゃんがその後ろで小さく会釈をしていた。
「うん、二人とも元気そうだけど…なんかちょっと表情が固いな」
柘榴は、間宮姉妹が緊張していることに気が付いた。それから、ボクの方に…いや、小麦の方に視線を向け、この場に充満する重苦しい空気から事情を察した。
「ああ、分かったよ。灯子ちゃんたちは、あそこにいる変質者が怖いんだね」
「おい、そこでボクを指差したら、ボクがその変質者みたいなんだが…」
どちらかといえば、ボクはジェントルマンのはずだ。
「よし、変質者の魔の手が届かないところまで逃げるぞー」
お巡りさんに聞かれたら大変なことになりかねない言葉を残して、柘榴は間宮姉妹と小麦を連れて洋館の敷地内へと駆け出して行った。すぐに、その背中は見えなくなる。
「…まあ、いいか」
柘榴が潤滑油になってくれなければ、ボクと小麦、そして、間宮姉妹は今もこの場でぎくしゃくと固まっていた。それだけ根の深い溝が、小麦と魔女の間にはある。
「さて、と」
ボクも、館の中へと足を踏み入れた。
ボクにとって無二の恩人であり、『不死の魔女』でもあるアノ人が住む、赤い煉瓦の洋館へと。