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こうしたウェブ投稿は初めてです。
読みづらいところやミスなどがありましたら、すみません。
「表と裏は、等価値ではない」
この世界に存在する事象の大半は、相反する表裏の現象が一対となり形成されていた。
たとえば、経済における生産と消費。
たとえば、競技における敗者と勝者。
たとえば、生命における成長と老衰。
これらのどちらを表、どちらを裏とするかの境界は曖昧で、本来は卵と鶏のどちらが先か、程度の些細な差異しかない。それでも、表と裏は等価値ではなかった。
「社会が、耳障りのいい方を表と定めたからだ」
そして、社会にとって不都合な異物が混じる側を裏として、軽視をした。
「元々は合わせ鏡でしかなかったはずの裏と表が、人の社会により不当に格付けをされてしまったんだ」
以来、表と裏は等価値ではなくなった。
「けれど、表と裏に分類をされてそこでお終い、というわけでもない」
裏側に分類をされた後でも、そこからさらに表と裏に振り分けられるからだ。裏の裏は表ではなく、裏の中の表、裏の中の裏へと幾重にも細分化され、分岐のたびに先細りを続ける。それらは末端に近づくほどにか弱く、か細くなる。滋養の行き届かない、日陰の枝葉)と同じように。
「そして、裏側の行き着く先は、切除という末路だ」
裏側の裏側の裏側になど、誰も興味を示さない。誰にも見向きをされないということは、世界に存在しないことと同じで、切り捨てられていることと同義だ。
「また、斑が益体もない独り言を呟いてるのさ…」
ボクの名を口にしたのは、風呂上りの下総小麦だ。ほこほことした裸体にバスタオル一枚を巻いただけという艶姿だが、十歳の少女を煽情的と感じられるほど、ボクの性根は傾いてはいない。ただ、もう少し大きいサイズのタオルにしないと、小振りなお尻がこぼれてしまいそうだと思ったが言わなかっただけだ。
そんな小麦は冷蔵庫からパックの牛乳を取り出しながら、年不相応に達観した瞳でボクこと逢坂斑を遠巻きに眺めていた。
「…独り言っていうのは、一人暮らしの長さに比例して増えていくものなんだよ」
だから、その目はやめてくれ。
視線ってけっこう痛いんだぞ。
特に、小さな女の子の視線は。
「独り言がどうとかじゃなくて、斑の場合は言ってることがほぼ世迷言なのさね」
「そこまでひどいかな…」
少しは減らした方がいいのだろうか、独り言。
小麦は、牛乳パックとガラスのコップをそれぞれの手で持っていた。小麦と同居して一月ほどになるが、ようやく、パックからのラッパ飲みではなく、コップに注ぐという行為を憶えてくれたようだ…と思った矢先、小麦はコップではなく牛乳パックの方に口をつけて飲みを始めた。口の端から、軽く牛乳を溢れさせるほどの勢いで。そして、その後でコップに牛乳を注ぎながら言った。
「普段から眼帯なんてしてるのは、チューニ病っていう病気のロリコンだけだって、柘榴姉さまが言ってたのさ」
「この眼帯はボクの力が暴走した時の保険なんだよ!」
…いや、この弁解だと本気でそっち方面の患者みたいだった。
などという不毛なやりとりをしていたが、不意に、ガラスが割れる音がした。
「しまった…」
「どうしたんだ、小麦?」
「コップを落としちゃって…ごめん、割れちゃったのさ」
「怪我とかはしてないか?」
座っていた座布団から立ち上がり、ボクはリビングからキッチンに向かった。といっても、学生向けの安アパートなので大した移動距離ではない。
「それは大丈夫だったけど…」
「そうか」
なら、ボクにとっては大した問題はない。
「けど、本当に危ないところだったのさ…牛乳が体にかかってたら、風呂上がりのアタシをペロペロする大義名分を斑に与えてしまうところだったさ」
「その言い草はさすがに心が折れそうなんだが…」
このいたいけな少女の瞳には、ボクという人間がどのような汚物に映っているのだろうか。
「雑巾を取ってくるのさ」
小麦はぴょこんと小さく跳ねた。その際、背中まで伸びた髪も小さく揺れる。その小麦の小さな背中を、ボクは呼び止める。
「その必要はないよ」
「まさか、斑はこの床をペロペロするつもりなのさね?」
「もう少しボクのことを信じてくれたら、二千円くらいは差し上げてもいいぞ…」
それでこの少女の信頼が買えるなら、それは破格と言っていい。
「これぐらいは、雑巾なしでも処理できるってことだよ」
そこで、ボクは左目の眼帯を外した。
ただの黒目がちの瞳がそこにあった。
「え、それは…」
言いかけた小麦を遮るように、ボクは『詠唱』を始める。
「我が威に従い、我が意を為せ…我が声を聞き、我がを誓を汲め」
「え、それは…」
小麦の台詞は同じだったが、二度目の台詞は残念な人に向けられる声音だった…だが、小麦の表情はすぐに驚きに変わる。円らな瞳を、さらに丸くして。
「開け、『魔眼』…我が名は、『独り歩きの災厄』」
ボクの左目に鈍色の白銀が宿り、その鈍い白銀は、時間差で左手にも灯る。やや緩慢な仕草で、ボクはその左手を砕けたコップへと翳した。そして、『現象』は起こる。
「割れたコップが…元に戻った、のさ?」
砕けたはずのコップが逆再生で復元されるその光景に、小麦は目を白黒させていた。
「お次は、零れた牛乳だ」
ボクは、同じ手順で『詠唱』を繰り返す。再び、『現象』は起こった。
「今度は、床に零れてた牛乳が…いきなり消えた、のさ」
床を濡らしていたはずの牛乳が、一瞬で跡形もなくなったことに小麦は驚きの声を上げる。
「割れたコップは形を再現して、零れた牛乳はシンクに瞬間移動させたんだ」
ボクは左目を眼帯で覆い、軽く息を吐く。
「コップは再現して、牛乳は瞬間移動…?」
小麦が小さく小首を傾けると、風呂上がりの濡れた髪も後追いで小さく揺れる。
「ああ、割れたコップを再生したのは、その物体が持つ記憶を手繰って形を復元する『修繕魔法』で、零れた牛乳を消したのは、『転移魔法』…物質を瞬間移動させる魔法だ。そいつを使って、牛乳は台所の流しに飛ばしたんだ」
少し得意気に語ってしまったかもしれないが、これぐらいなら許容範囲のはずだ。
「この魔法は、まだ小麦にも見せてなかったかな」
「というか、斑が魔法を使うところ自体…初めて見たのさ」
「あれ、そうだったか?」
言われてみれば、前の件でボクが魔法を使った時、小麦はそれを見ていなかった。
というか、この一カ月、ボクは小麦の前で魔法を使っていなかった。
「本当に…斑も『魔女』だったのさね」
「今までボクのことをなんだと思ってたんだよ」
ハンサムなお兄さんなどと、身の丈に合わない高望みはしない…が、せめて、親切なお兄さんくらいのカテゴライズはして欲しいところだった。
「ロリコンっていう不治の病の人だと思ってたのさ」
「ボクの名誉のために言わせてもらうが、ボクにそんな病状はない…」
精々、小麦のパンツを洗った時に軽い動悸を感じた程度だ。
などと、十歳の女の子にすらぞんざいな扱いを受けていたボクだけれど、それでも、ボクは魔女だった。
それも、裏の中の裏の裏…おそらくは、最果ての末端にいる、『異端の魔女』だ。
そして、これはボクと小麦の物語だ。
不器用な『異端の魔女』と頑張り屋の『ヒトオオカミ』の、二人三脚の物語だ。