12
「小麦くんは、『転移魔法』であの書斎に転送されていた」
夕張雅の声に、起伏はなかった。
だが、その魔力に波紋が浮かぶ。
「…小麦が書斎に飛ばされていたのなら、外に出たときに、ホールにいた雅さんと鉢合わせをしたはずだ」
もはや、水掛け論の様相を呈していた。
…いや、雅さんは次の手を差してきた。
「彩夏の書斎でコトを終えた小麦くんは、廊下から屋敷の外に抜け出たんだ」
「廊下から…?」
一瞬、雅さんの言葉が理解できなかった。
「正確には廊下の窓から、だ。だから、小麦くんはホールを通らずに屋敷の外に出ることができた」
「確かに、廊下には窓があった…けど、この館の窓には、どこも格子が嵌められている」
この人がそれを知らないはずはない。さっき館の捜索をしていた時にも、この人は窓と格子に視線を向けていた。
ボクは傍にあった窓の格子に触れる。
乱暴に揺すろうが、びくともしない。
「小麦くんは、その格子を壊して廊下の窓から外に出たんだよ。『操獣魔法』で操られた『ヒトオオカミ』なら、それくらいの狼藉もお茶の子さいさいだ」
「小麦がそんな狼藉とやらを働いていたら、目撃されていたんじゃないですか…ホールにいた、雅さんに」
「この屋敷はコの字型の造形だ。私がいた中央のホールからだと、廊下の角を曲がった先にある書斎周辺は死角になっていた。小麦くんが格子を壊していたとしても、私からは見えなかったよ」
打てば響くテンポで、雅さんは言葉を重ねる。
そのたびに、彼女の魔力がこの場に根を張る。
「…けど、格子が壊された痕跡なんて、ボクたちが調べた時にはなかったはずだ」
彩夏さんの遺体を発見した後、ボクたちはこの屋敷を隅々まで調べている。そういった異変は、どこにも見つけられなかった。
「直せばいいだけじゃないか」
「直せ…ば?」
「壊れた格子は元に戻したんだよ。魔女が、『修繕魔法』で」
その名の通り、『修繕魔法』は壊れた物体を復元することができる。生物には使用できないが、『普遍魔法』なのでほとんどの魔女が扱えた。
「小麦くんが格子を壊して廊下から屋敷の外に出た後、犯人はその形跡を隠蔽するために『修繕魔法』で格子の修復をしたんだ。だから、あの廊下の格子は壊れていなかった」
夕張雅の言葉に妥協はなく、ホールの中で反響する。
乾くほどの静寂の中、雅さんは次の言葉を口にした。
「今日この場では、住人である彩夏と楓くん以外の魔女が三度の魔法使用をしていたことが、結界によって観測さている。そして、観測された三つの魔法のうちの一つが『転移魔法』だ」
雅さんの声は、フラットだった。
だが、その魔力は膨張を始める。
「私が中央のホールに居座っていた以上、そこを通らずに書斎へ行くには、『転移魔法』で館の外から直接、彩夏の書斎に侵入するしかなかった。それが可能だったのは、一切の魔力を持たない『ヒトオオカミ』の小麦くんだけだ」
雅さんは平坦な声で続ける。
加速もせず、減速もせずに。
「そして、先ほど言った『修繕魔法』も、この屋敷内で使用された魔法の一つだ」
雅さんは、悠然と続ける。この場は、彼女の独壇場だった。
「書斎でコトを終えた小麦くんは、私に目撃されるホールを避けるため、格子を壊して廊下の窓から館の外に抜け出たんだ。壊れた格子は小麦くんを操っていた魔女が『修繕魔法』で元に戻していたから、その痕跡は残っていなかった。観測された三つの魔法のうち、二つ目はこれだ」
雅さんの声色は、微塵も変わらない。
その魔力は、膨らみながら濃度を増していたが。
「ただ、そうなると、犯人は残る一回の魔法で彩夏の息の根を三度も止めたことになる」
雅さんが指摘したように、『醒生誕魔法』に守られていた彩夏さんを殺害するには、二十四時間以内に三度の死を与えなければならない。
「しかし、一度の『詠唱』で三度の死を与えられる魔法は、存在しない」
雅さんの言葉は、ボクたちを引き寄せる。引き寄せて、手放さない。
「例外となる、『操獣魔法』は別だけれど」
平坦な声のまま、雅さんは忌むべき魔法を口にした。
「一般的な魔法は一回こっきりの使い切りだが、『操獣魔法』は時限性だ。魔法の効果時間内ならば、魔女は『ヒトオオカミ』を自在に操ることができる」
雅さんの声には、やはり起伏がな…。
微かに、その声に振幅が生じていた。
「つまり、『醒生誕魔法』を持つ『不死の魔女』であろうとも、一度の魔法でその命を三度、まとめて刈り取ることも可能だったということだ。そして、『操獣魔法』と『転移魔法』に『修繕魔法』を加えたこの三つの魔法ならば、結界で観測された三度の魔法使用とも合致する」
雅さんの声の振幅は、ゆるやかに時を加速させる。
真綿で首を絞めるように、ゆるやかに、念入りに。
「これらの理由から、下総小麦くんこそが彩夏殺しの凶器だと、私は主張する」
ここでの雅さんの声は、平坦だった。
何事もなかったように、語り終える。
坂下彩夏という、とある『不死の魔女』殺しの顛末を。
だが、そこで語られたのは、容疑者でも犯人でもない。
…一人の少女が凶器だったという、人を喰った結論だ。
「…………」
周囲は、静まり返っていた。
時が堰き止められたように。
しかし、この時が動き始めれば、それは波濤となり、小麦を呑み込む。
アノ時と、同じように。
夕張雅は、静かに眺めていた。
文字盤をぼんやりと赤く光らせる柱時計を。
当然、その視線の先に、ボクはいない。
ボクの存在など歯牙にもかけていない。
このままでは、小麦は裁かれる。
先代『調停人』の手に、よって。
…いや、雅さんが『あの魔法』を詠唱していれば、先刻の喧々諤々すら必要なかった。
文字通りの問答無用で、下総小麦を下手人に仕立て上げることが、できた。
夕張雅だけが扱えるその『唯一魔法』は、世界の認識を、独り善がりに塗り替える。
雅さんがカラスを白だと言えば、世界中の人間がカラスの羽を白色に錯覚するようになる。
現実がどうであれ。
雅さんが下総小麦をクロだと言えば、小麦が坂下彩夏さんを殺害したという根も葉もない妄言が、シンジツとしてボクたちの記憶に植え付けられる。
虚実が、どうであれ。
それが、『改変魔法』…雅さんだけが扱える、世界規模で人の認識や記憶を根こそぎ塗り替えるトンデモ魔法だ。だからこそ、彼女は『最悪の魔女』の異名で呼ばれていた。
ただ、雅さんが『廻改変魔法』を解除すれば人々の認識は元に戻るし、その認識を狂わせ続けるには、この人は『廻改変魔法』を使い続けなければならず、その間、他の一切の魔法が使えなくなる。
しかし、小麦は魔女たちから恐れられる『ヒトオオカミ』で、ボクは魔女たちから疎まれる『異端の魔女』だ。魔女世界の鼻つまみ者を、二人まとめて処理することもできた。
にもかかわらず、雅さんは『廻改変魔法』をここでは使わなかった。
…その必要すら、なかったということか。
「まだ、ら…」
ボクの手を握る小麦の手は、小刻みに震えていた。いや、小麦が震えていたことに、ボクが気付いていなかっただけだ。小麦はずっと、救難信号を出し続けていたはずだ。
「小麦は…」
ボクは口を開いた。このままでは、小麦は『魔女裁判』で裁かれる。『ヒトオオカミ』である小麦を守る魔女など、皆無といって過言ではない。
「気絶していた小麦が…何かの鍵を握っていたんだ」
ようやく絞り出した言葉は、それだった。藁にも縋るように記憶を手繰り、出てきた言葉がそれだけだった。
周囲の魔女たちの反応は、薄かった。既に趨勢が決まっていることを、彼女たちも察している。これが悪足掻きだということにも、気付いている。
「…これ、なんだけど」
上擦る声で、ポケットから鍵を取り出した。小さな鉄製の古めかしい鍵ではあったが、妙に重い。
「それ、は…」
その鍵に反応したのは、彩夏さんの愛弟子である楓だった。
「…『倉庫』の鍵じゃあ、ないですか」
楓は血相を変え、恐る恐る、ボクの手の平の上の鍵に触れた。
その『倉庫』の中には魔女が関わったとされる全ての案件の資料が眠っていて、歴代の『調停人』たちは、その資料を守るのが暗黙の任務だったそうだ。
「…ですが、この鍵は結界に守られて、厳重に保管されていたはずです」
ボクから鍵を受け取った楓は、消え入りそうな声で、うわ言のように呟いていた。
「鍵を持ち出そうとしても、触れた人間の魔力に反応する結界が、この鍵を守っているはずで…」
そこまで口にしたところで、楓の視線は小麦に向けられた。油のきれたからくり人形のように、きわめてぎこちなく。
「魔力に反応する結界…なら、魔力を持たない人間には、反応しなかった、ということでしょうか」
生気の抜けた楓の面持ちは、本当に人形じみていた。
「魔力を持たない小麦さんなら、この鍵を持ち出すこともできた…ということ、でしょうか」
虚ろな瞳で、楓は小麦を視界の中心に捉えた。
持ち出されたこの鍵と、彩夏さんの死を、楓は結び付けている。
あの『倉庫』の鍵を小麦が持っていたとなると、小麦の容疑は、さらに色濃くなる。
「いや…」
そこで、ボクは小さな違和感を感じた。
彩夏さんを殺すだけなら、この鍵は必要ない。そして、それ以前に。
「…どうして、小麦はこの鍵を握ったままだった?」
状況からみても、小麦を操った魔女が『倉庫』の鍵を持ち出させたのは間違いない。
けど、それなら犯人は、その鍵を小麦から回収していたはずだ。
「…なのに、鍵は小麦が握ったままだった」
そして、あの『倉庫』では、この鍵が使われた形跡も、なかった。
ボクがその違和感に気をとられていた間に『声』が聞こえてきた。
「我が威に従い、我が意を為せ…我が音を聞き、我が怨に震えよ」
鶴賀沙織が、『詠唱』を始めていた。
焦点の合わない瞳だった。
少し傾いた、不安定な姿勢だった。
それでも、沙織さんの瞳は、魔女特有の薄暗い眼光を灯していた。
「灯れ、『種火』…我が名は、『浮揚する葦』」
鶴賀沙織は紅色の水晶を取り出し、そこに魔力を注ぐ。
水晶に光が灯り始め、彼女の背後に、拳大の水の玉がいくつも浮かび上がる。沙織さんが唱えていたのは、『操水魔法』と呼ばれる水の『攻種魔法』だ。彼女の魔力は、すでに臨界だった。沙織さんの背後に浮かんでいた球状の水が、鋭利な鏃へと研ぎ澄まされていく。
「矛先は…」
当前、ボクと小麦に向けられていた。
「…渡りに船だ」
ボクは、左目を覆っていた眼帯を乱暴に外す。
理詰めでこの場を切り抜けることは、もはや不可能に思えた。そして、腕尽くで突破することも、不可能だった。ボクには、『攻種魔法』のような破壊的な魔法は扱えない。
それでも、ボクは『異端の魔女』だ。
「我が威に従い、我が意を為せ…我が声を聞き、我が誓を汲め」
ボクも『詠唱』を始めた。眼帯で覆われていた左目に有りっ丈の魔力を注ぎ、濃縮させる。ボクの左目に宿るのは悪食の悪魔だ。その悪魔は、魔女の魔法を好んで喰らう。
「開け、『魔眼』…我が名は、『独り歩きの災厄』」
魔力を帯びた左目は、鋭い痛みを伴う。
その痛みは眼球を貫き、脳裏に刺さる。
「小麦の痛みは、こんなものじゃない…」
痛みを引きずりながら、ボクは、『心侵蝕魔法』を発動させた。
だが、痛みに気を失いそうになっていたボクに、ダレカが、叫んでいた。
「ダメ…お兄ちゃんが魔法を使ったら、お兄ちゃんは死んじゃうんだよ!」
え…。
ボク、死ぬの?