第三十二話「同情」
「珍しいな。ソフィーナがチェスをしたいなんて」
「外ではたまにやってるんですよ」
「そうだったのか。それは知らなかったな」
廊下を二人並んで歩く。
父は、自分が使う部屋のほとんどの所にチェス盤を用意している。
行き先はどこでも良かったが、方角的に書斎だろうか。
「おっと。忘れていた」
「?」
父が唐突に足を止め、身体の向きを変えた。
「少し寄り道させてくれないか」
「いいですけど、どちらへ?」
「談話室だ。ソニアに声をかけておきたい」
以前は母→父のほぼ一方向だったが、今は父の方からも積極的に声をかけている。
二部屋に分かれていた寝室も一つになり、とても仲睦まじい様子を見せている。
浮気イベントを経て、心から母に信頼を寄せるようになったおかげだ。
談話室に入ると、母が飲み物を片手にリズベラと談笑していた。
「ソニア。先に寝室に行っててくれないか」
「あら。どうかしたんですか?」
「ソフィーナがチェスをしたいらしくてな。私は遅れて行くよ」
以前の母だったら、今の一言で機嫌が悪くなっていただろう。
「私を差し置いて娘を優先するなんて!」と。
それを父には直接言えないから、リズベラやお姉様、あるいは私への当たりを強くしていた。
家庭内の不和が解消された今、そんな回りくどいことで機嫌の帳尻を合わせることはなくなった。
「わかりました……あまり遅くならないで下さいね?」
「もちろん。ソフィーナとの時間も大切だが、ソニアとの時間も大切だからな」
「あなた……♡」
すっ――と、母の頬に手を添える父。
母はうっとりとした表情で、父の胸に顔を埋めた。
「……」
夫婦仲が良いことは大変に喜ばしい。
二人が微妙なすれ違いを起こしていたおかげで、お姉様に余計なストレスがかかっていた昔を考えれば、家庭内環境はこれ以上ないほど良い。
いいのだが……娘の前でいちゃつくのはやめてもらいたい。
そう考えるのは、贅沢な悩みというやつなのだろう。
「こほん。こほんこほん!」
わざとらしく咳払いをして自分の存在をアピールすると、父は照れくさそうに、母は「邪魔しないでよ!」と言いたそうな目で私を睨んだ。
睨む、と言っても本気で怒っている訳ではなく、拗ねているような表情だ。
殺意すら向けられたことのある身としては、可愛さすら感じてしまう。
「ぷふっ」
「ソフィーナ、何を笑っているの!?」
「いえ、なんでもないです」
「早くこてんぱんにやられてきなさい!」
「はーい。お父様、行きましょうか」
絶対に分かり合えないと思っていた母の胸中を、こんな簡単に察せる日が来るとは。
人生は何が起こるか分からないものだ。
▼
「書斎でやるのは久しぶりだな」
そう言いながら、父は書斎の端に置いてあるチェス盤を引っ張り出した。
気のせいか、その声はいつもより上機嫌そうに弾んでいるように聞こえた。
「オズワルド殿下とチェスはするのか?」
「いいえ。殿下はボードゲームをあまり好まれません」
奴は頭を使う遊びがてんでダメだ。
かといって、体を動かす遊びもてんでダメだが。
ダメというか、自分が一番になれない遊びはすべて嫌がる。
もう学園に入る年頃だというのに、性根はまだ子供のままだ。
勉強はある程度できるようになっているから、そろそろ情操教育もしたほうがいいのかもしれない。
チェス盤をテーブルに置き、対面に座って駒を並べていく。
使うのは久しぶり……と言っていたが、駒はどれも綺麗に手入れされていた。
昔の私は「仕事をサボってチェスに興じている」と父のことを見下げていたが……。
(チェスが拠り所だったんだな)
父や兄――私から見れば祖父や叔父たち――に虐げられていた父にとって、チェスは嫌なことを忘れられる唯一の娯楽だったんだろう。
そう考えると、あらゆる場所にチェス盤が置いてある理由もなんとなく察せられる。
「ソフィーナと最後に対戦したのは四歳の頃だったか」
「そうですね」
ループのスタート位置は五歳から。
なので、私にとって四歳の頃は数百年前の出来事だ。
さすがにその頃の記憶はほとんど残っていない。
そちらよりも、浮気イベントの時のチェスのほうが記憶に新しい。
もっとも、そちらは今の父にとっては未経験の出来事だが。
「どれほどの腕前になっているか、見せてもらおうか」
「……お手柔らかにお願いします」
チェスに関しては私もそれなりに自信がある。
……しかし、父には逆立ちしても勝てないだろう。
まあ、勝つことが目的じゃないので構わないが。
▼
勝負は中盤に差し掛かっていた。
やはりというか、父は強い。
盤上は一見すると膠着状態のように見えるが、私が攻め込めないよう、要所要所にクイーンやビショップを配置している。
一体、何手先まで予想しているのか。
「――そういえばお父様。お聞きしたいのですが」
「何だ?」
「フィンランディ家についてです。彼らをどう思われているか――」
だん! と。
父が強く駒を置いた。
意思とは無関係に、私の肩が驚いて跳ねた。
「す、すまん。つい……」
「いえ。お気になさらず」
「正直、あの家については進んで口にはしたくないな」
苦々しい表情で、父は視線を逸らした。
「色々……苦労をされたんですよね」
「ああ。まだ青二才だった頃、相当な煮え湯を飲まされたよ。フィンランディだけじゃない。ホームホール家やヴァレンティ家にもな」
イグマリート家は祖父の代から公爵家に格上げされた、いわば新参者だ。
祖父や叔父が相次いで病死し、なりゆきで当主となった父は輪をかけて舐められやすかった。
父がイグマリート家の繁栄にこだわりを見せていたのも、それが原因だ。
「ソフィーナ。フィンランディ家の人間には気をつけろ」
盤面に視線を向けたまま、父は警告を促した。
「我々とは違う常識で動いている連中だ。お前やレイラは魔法を使えるから、無下にしてくることはないだろうが……それでも注意しておくに越したことはない」
「肝に命じておきます」
盤面に視線を落とすと、さっきまでは無かった父のキングに付け入る隙ができている。
勝機を見出し、攻めに転じる。
駒を動かしながら、さらに質問を重ねる。
「仮に、ですけども」
「?」
「フィンランディ家の中にいながら、あの家の思想に染まっていない子がいたとして、その子が私やお姉様と友達になりたがっていたとしたら。お父様はどうされますか」
「そんな仮定が成立するとは思えんが……もちろん許可しない」
ほとんど思考時間なしに、父が駒を動かした。
「貴族の家にはそれぞれのルールがある。家の思想に賛同する・しないに関わらず、その家の一員でいる限り逆らうことはできない」
その一手で、私の勝機は完全に封殺されてしまった。
(あっ)
ハメられた、と思った時にはもう遅い。
さっき見せた隙は、私が手を崩して攻め込む理由を与えるための罠だったのだ。
「ソフィーナやレイラがどのような友人を作るかは本人の自由だが、相手が公爵家なら話は別だ。そのときだけは介入させてもらう。私は、イグマリート家を守る義務があるからな」
父が作った見せかけの勝機に、私はまんまと飛びついてしまった。
「負け……ました」
「まだまだだな。ソフィーナ」
「くぅ……」
負けた。
勝てないと分かってはいたが、今の負け方は悔しい。
「さて。もう夜も遅い。そろそろ休もう」
すっ、と父が立ち上がる。
「そうそう。さっきの話だが」
「?」
「フィンランディの人間と友人になることは絶対に許可しない。しないが、もしあの家の思想に染まっていない子供がいたとしたら、同情はする」
表情をくしゃりと歪ませながら、父。
「あの家の中にいて、なお正常を保っているとすれば、それはもはや拷問だろう」
ぽつりとそう呟いて、父は部屋を後にした。




