第四十五話『立て! 叫べ! 戦え!』
カツン、と軍靴が石畳を踏み締める音が静寂を破った。
この場で軍靴を履く者は、二人しかいない――。
「ネイピア様」
立ち上がった者の名をインモーハミダスが呼んだ。
「ネイピアさん!? どうして……」
チンタローは我が目を疑った。
ネイピアが何故、闇の魔力に抗う術を持っているのか。
その場にいる全員の視線を浴びながら、ネイピアが無言で歩み始める。
「ネイピア……」
ウォシュレが呟くのと同時にネイピアは歩みを止め、インモーハミダスを正面から見据えた。
インモーハミダスは驚いた様子もなくネイピアの視線を受け止めていたが、やがてその口を開いた。
「私が祖父母から聞いた言い伝えは、やはり事実でありましたか」
「言い伝え?」
「王家により葬られた……いいえ。『表向きには葬られた歴史』です、チンタロー殿」
「ネイピアさん、それは……うっ」
チンタローは不意に股間を抑えた。
聖なる力を持つチンコにビリビリと痺れが走った。
――ネイピアさんが王女様よりも強い聖なる力を持っていることは間違いない。でも、何故――。
両手で股間を抑えながら、思考を巡らせる。
アナルニアの隠された歴史……その焦点と言えるものが、旧クソシタール辺境伯領。
その始まりとなった、初代国王オーベンデールによるベンピァック平定の物語。
クソシタール人の若き巫女――ブルーレに請われて訪れたというのは偽りで、実際には好色なオーベンデールが美しいブルーレを我がものにする為にベンピァックを訪れたと魔龍――ヴリーリァは語った。
そして……ミャーコが語ったアナルニアの歴史では、オーベンデールに託宣を行った後のブルーレについて言及がなかった。
アナルニア王家の人間が聖なる力を持っていることはウォシュレとの謁見で目にしている。
ネイピアがそれより強い力を持っているとすれば、知り得た情報から導き出す答えは一つだった。
――ネイピアさんはオーベンデール王と巫女ブルーレの子孫……!
チンタローとモミーナが同時に息を呑んだ。
ミャーコとシリーゲムッシルは既に勘付いていたのか、動じる様子はなかった。
チンタローはあらためて考えを整理した。
――レーストゥルム家は、伝説の巫女ブルーレに連なる血筋だとミャーコは語っていた。ネイピアさんが伝説の預言者とアナルニア王家双方の血を受け継いでいるとすれば、王女様を上回る力を持っていても不思議じゃない。
成り行きで知ってしまった事実の重大さに、身震いがした。
――クソシタール辺境伯が釈放後も王都に留め置かれたこと、ネイピアさんが国外での修行に出ていないことも、その為だ。王家が……いや、国王が辺境伯を投獄してクソシタール辺境伯領を独立させたのは、辺境伯がクソシタールの指導者となってアナルニア王以上の権威を持つことを恐れたからだ。クソシタール人だけでなく、アナルニア人にとっても政治的・宗教的に正統な指導者として。ネイピアさんにしても同じだ。万一、クソシテネーレに亡命してその出自を明かせば、アナルニア王国そのものが揺らぎかねない。
そこまで考えて、チンタローは閣議室での出来事を思い出した。
ハインセッツ公がネイピアに見せた態度。その真の理由が理解できた。
――ハインセッツ公も、ネイピアさんの出自を知っていると見て間違いない。クソシテネーレ侵攻の話が出た時にネイピアさんの様子を窺っていたのは、きっとその為だ。建国神話から続く家柄に加えて、内務大臣として各省と各地方を統括している立場だ。知らない方がおかしい。
やがて、一つの疑問が持ち上がった。
――諸侯の筆頭であり内務大臣であるハインセッツ公が知っていたなら。摂政であり宰相でもある王女様も、このことを知っていたのか……?
思案を巡らせるチンタローの耳に、誰かが立ち上がる音が飛び込んできた。咄嗟に音のする方へ振り返る。
「殿下! お立ちになっては――」
「ネイピア。振り返ることは許しません」
立ち上がったのはウォシュレだった。俯いた額を左手で押さえ、肩で呼吸をしながら、それでも威厳に満ちた声で言い放った。
「しかし、殿下――」
「気遣いは無用です。忠義の臣と異国の勇者が逆臣に立ち向かわんとする時、跪いていて何が王女か!」
そして、全ての迷いを振り切るように顔を上げた。
謁見の間で見たのと同じ、気品と威厳をたたえた顔がそこにあった。
「ネイピア=レーストゥルム……わたくしの大切な侍従騎士よ。ティモ=シリーゲムッシル……わたくしの信頼せる重臣よ。そしてチンタロー。モミーナ=パイデッカー。ミャーコ=ケモニャンコ。マッスロン=マッチョナー。勇敢なる異国の強者たちよ。わたくしはあなたたちと共に、インモーハミダスに立ち向かいます」
チンタローは驚いた。
名前を呼ばれた全員の顔に、先ほどまでなかった気迫が宿っていた。
鏡を見れば、自身の顔も同じはずだ。
――これが王女の力か!
感嘆するチンタローの股間に強い痺れが走り、ズボンの中から光が溢れ出す。
ネイピアの力にウォシュレの力が加わり、聖なるチンコが強く共鳴を始めたのだ。
そのことに気づいた瞬間、背後でカチャリ、と物音がした。
振り向いた視線の先に、仁王立ちするモミーナがいた。
「モミーナ!」
「お待たせしました、チンタローさん。私はもう大丈夫です!」
そう言って微笑むと、二振りの刀を抜き放った。暗がりの中に切先が煌めき、美しい弧を描いた。
「はっはっはっ! 俺もいるぞ!」
豪快な笑い声と共に、マッスロンが真っすぐに立ち上がった。
「マッスロン!」
「はっはっはっ。もう心配はいらんぞ!」
溌溂とした笑顔で天地上下の構えを決めるマッスロンの傍らで、ミャーコが地面を蹴って宙を舞った。
「ミャーコ!」
「にゃーっはっはっはっ!」
高笑いを上げながら前方宙返り二回ひねりを成功させると、完璧な着地を決めて両手で杖を回転させた。
青く輝く先端の宝玉で円を描きながら、チンタローに不敵な笑みを見せる。
「さぁ! 戦いはこれからなんだゾ!」
「よろしく頼む!」
ミャーコに対して力強く頷くと同時に、もう一人の存在を思い出す。
「そうだ! シリーゲムッシルさん!」
「お、おぅ……」
頼りない返事がした方へ視線を向けると、シリーゲムッシルが辛うじて上半身を起こしながら、震える右手を上げていた。
「あっ……はい! 無理しないでいいですよ!」
「あ、ありがとう……チンタロー君」
シリーゲムッシルは、やっとの様子でチンタローに応えると傍らの縁石に寄りかかった。
チンタローの鼓動は激しく高鳴っていた。
ウォシュレとネイピアの力、そして自らのチンコが奇跡を起こしたのだ。
シリーゲムッシルは元より戦闘要員ではないとして、全員が戦闘能力を取り戻した。
戦況はこちらに傾きつつある。
チンタローは横目でウォシュレの様子を窺った。
アナルニア王国第二百二十三代国王クミトリー九世の長子、第一王女にして摂政、第二百六十五代宰相ウォシュレは凛とした立ち姿で逆臣インモーハミダスを見据えていた。
傍らに立つ小柄な少女が、ずっと大きく見えた。
王女、摂政、宰相――。これらの肩書は名前だけのものではない。
ウォシュレは名実共に人を率いて立つ力を持った人間なのだと確信を持った。
チンタローはウォシュレの立ち居振舞いにしばし目を奪われていたが、その拳が震えていることに気づいた。
王宮の中庭で自身の胸に縋って泣いていた少女が勇気を振り絞り、王女の誇りを以て必死に立っている。
その姿に奮い立ち、チンタローもウォシュレとネイピアの視線の先――インモーハミダスに目を向ける。
視線を受け止めるインモーハミダスは無表情だったが、やがて徐に口を開いた。
「殿下。あなた様は真の王たる資質をお持ちです。国民を愛し、国民の苦しみと向き合い、国民を救う為に必死で努力しておられる。国民があなた様を尊敬するように、私もまた、あなた様を心から尊敬申し上げております。ネイピア様が、あなた様の侍従騎士となられたことも運命でしょう」
その口から出た言葉は意外なものだった。
「この期に及んで何を言うのです。インモーハミダス」
「臣下としての、最後のお願いを申し上げます。どうかネイピア様と共に、この国を脱出なさいませ。アナルニアという国が無くなっても、あなた様とネイピア様だけはお救い申し上げたい」
ウォシュレは眉一つ動かさなかった。
「インモーハミダス。わたくしを尊敬しているというのであれば、わたくしの答えは分かっているはずです」
「インモーハミダス卿。私の答えも同じく。この国を出るつもりはありません」
王女とその侍従騎士は迷うことなく言い切った。
インモーハミダスが深く息を吐いた。チンタローには落胆したようにも、安堵したようにも見えた。
「……愚問でしたな。それでこそ王女殿下。それでこそネイピア様です。かくなる上は、力ずくでも――」
「ま……待て!」
息も絶え絶えに声を発したのは、シリーゲムッシルだった。
インモーハミダスが微かに眉をひそめた。
「……何だ。私にはもう、話すことはない」
「インモーハミダス卿……聞きたいことがある。この国を滅ぼして、君自身はどうするつもりだ。頼む……答えてくれ」
インモーハミダスはしばし目を伏せた後、静かに瞼を開き、シリーゲムッシルを見据えた。
その眼差しに敵意や憎しみはなかった。ただ、真剣な眼差しでシリーゲムッシルを捉えていた。
「このインモーハミダス、恥だけは知っている。私は二つの大罪を犯した。一つは、クソシタール人でありながらアナルニア王室に仕え、アナルニアの軍と民を養ったこと。そしてもう一つは、二心を持って国王陛下と王女殿下の臣下となったこと。私はクソシタールを裏切り、アナルニアを裏切った男。アナルニア王国が地図から消える時は、この私も地上から消える時だ」
「なっ……!」
シリーゲムッシルが絶句するのと同時に、重い沈黙が訪れた。
その場にいる全員の視線を浴びるインモーハミダスは眉一つ動かすことなく、静かに佇んでいた。
やがてシリーゲムッシルが両手を地面に着き、大きく肩を震わせた。
「見苦しいぞ。大臣ともあろう者が、人前で涙を流すなど」
インモーハミダスは吐き捨てるように言った。
「君の……君のしていたことは何だったんだ。君はアナルニアの為に戦い、アナルニア軍を鍛え、国政改革に大きく尽力した。君の忠誠を疑う臣民は一人もいないだろう。君のしてきたこと全てが偽りだったとは、私にはどうしても思えない。頼む……どうか。どうか思い留まってくれ!」
叫びと共に、シリーゲムッシルが涙に濡れた顔を上げた。
インモーハミダスは無表情のままシリーゲムッシルを見下ろしていた。
「泣き脅しか。君がどう思っていようが、私にはどうでもよいことだ」
「聞いてくれ、インモーハミダス卿。私が……私が外務大臣になれたのも、君という存在があったから……外務大臣としてやってこられたのも、君の助けがあったからだ。君はアナルニアにとっての忠臣というだけではない。私にとって、君は大切な――」
「黙れ!! アナルニア人が!!」
インモーハミダスに一喝され、シリーゲムッシルの身体がのけ反った。
広場にしばらくの間、反響するほどの大声だった。
「お前が私の何を知っているというのだ。私の時間は、あの美しい故郷で……あのブドウ農園で止まったままだ。お前が見ていた私の姿は虚像に過ぎぬ」
インモーハミダスは再び吐き捨てるように言うと、顔を上げた。
「お喋りはここまでだ。計画の仕上げに入るとしよう」
インモーハミダスの全身から黒い靄が溢れ出した。
同時に、石畳の地面に激しい音を立てて亀裂が走った。
「あれは……!」
チンタローが目を見張った。
割れて浮き上がった石畳の破片が集まり、人の形になる。それも一体や二体ではない。
瞬く間に身長三メートノレ余りの岩石巨人が五十体以上、現れた。
「チンタロー。クソシタールの古代魔法の恐ろしさは魔龍との戦いで知っていよう。ここは我が魔力の勢力下にある。お前たちは決して私に勝てぬ」
インモーハミダスの低く鋭い声音にチンタローの背筋が凍りつく。
魔龍――ヴリーリァと同じ魔法を操るインモーハミダスを相手に、疲れきった自分たちがどこまで戦えるのか――。
「……嘗めてもらっちゃ困るよ、インモーハミダスさん」
「ほぅ?」
チンタローは震える拳を握り締め、インモーハミダスに向けて突き出した。
続いてモミーナ、ミャーコ、マッスロンが一歩、進んでチンタローと肩を並べ、それぞれ構えを取る。
「俺たちは! 絶っっっ対に!! 負けない!!!」
心に巣食う恐怖と絶望を追い出すように、チンタローは力の限り叫んだ。




