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第四十四話『違えし道の果てに』

「まずい、これは――!」


 チンタローが言い終わる前に、視界が黒く塗り潰された。

 身構える間もなく闇の魔力の奔流に巻き込まれ、死を覚悟した次の瞬間には視界が晴れ、両側に街路樹を植えた石畳の大きな道路が目の前にあった。


「ここは……」


 周囲を見渡すと、壮麗な宮殿と困惑した表情を浮かべるモミーナたちの姿があった。


「チンタローさん……! 無事でしたか」

「うん……よかった、みんなも無事か」


 そこは、ベンピァックへ出発する際に出立式が行われた王宮前の広場だった。

 インモーハミダスが魔龍――ヴリーリァと同じ転移魔法を使えることにチンタローが気づくのと同時に、黒いもやの中から白い軍服を纏ったインモーハミダスが宮殿を背にして現れた。


「インモーハミダス……」


 思わず、その名を口にしたウォシュレの前に素早くネイピアが駆け寄り、長剣を抜いた。


「インモーハミダス卿。これ以上の狼藉は王家を守る侍従騎士として、このネイピアが許しません」


 インモーハミダスはネイピアの射るような視線を正面から受け止め、徐に口を開いた。


「ネイピア様。あくまでアナルニア王家の侍従騎士として、行動なさるのですね」


 インモーハミダスの左手が軍服の襟を掴む。

 その手から黒い炎が迸り、脱ぎ捨てた白い軍服が無数の勲章と共に空中で燃え上がった。


「なっ……!?」


 シリーゲムッシルが身を震わせた。

 白い軍服の下から現れたのは漆黒の衣装だった。

 銀の糸でつたを模した刺繍を施した詰襟の上着に、側面に白い二本線が縦に走る黒いズボン――。


「インモーハミダス卿……! その装いは……!」

「『きょう』だと。この姿の私を前にしてなおも、そう呼ぶか」


 そう言ってインモーハミダスが右足を上げ、憎々しげに地面を踏みつけた。

 長靴ブーツに打たれた鉄の鋲が石畳とぶつかり合い、甲高い音が響き渡った。

 チンタローには、シリーゲムッシルが震えた理由が、インモーハミダスがこの装いを選んだ理由が分かっていた。

 かつて、ネイピアの祖父であるクソシタール辺境伯ヨータス=レーストゥルムが黒衣を纏って王宮を訪れ、投獄されたという逸話――。

 シリーゲムッシルはずっと、アナルニア王家の忠臣という衣を纏った孤独な異邦人だったのだ。


「ティモ=シリーゲムッシル。もはや説明の必要はあるまい。私はもはや、アナルニア王の臣下ではない」

「うっ……」

「口では『アナルニア人とクソシタール人の橋渡しを』などと言いながら、君は何一つ理解しておらぬ。私がアナルニア王家を許さぬように、クソシテネーレ国民もまた、アナルニア王家を決して許しはしまい。君の語ったことは全て、アナルニアに都合の良い綺麗ごとだ」

「……インモーハミダスさん」


 しばしの沈黙を破ったのはチンタローだった。


「何だ。チンタロー」


 こちらを振り向いたインモーハミダスの目には冷たい光が宿っていた。

 チンタローは身震いを必死で抑えながら、言葉を紡いだ。


「旧クソシタール辺境伯領で起きたことは、俺も聞きました。鉱山開発でネシォーベンの自然が破壊されたことも、当時の辺境伯様が投獄されたことも」

「……その程度のことを君が知ろうと知るまいと、私にはどうでもよい。全ては終わったのだ」

「終わってなどいない!」


 シリーゲムッシルが声を張り上げた。

 インモーハミダスが無表情のまま、シリーゲムッシルを見下ろす。


「殿下のいらっしゃる場で言うのは心苦しいが……あの鉱山開発は、アナルニア王国にとって重大な失策だったと考えている。資源や技術とひきかえに、アナルニアは大切なもの……本当に大切なものを失ってしまった。それでも……」


 シリーゲムッシルは一瞬だけ目を閉じ、再びインモーハミダスの目を見つめた。


「それでも、あの鉱山開発で豊かになったことをアナルニア国民は忘れてはいない。いつかきっと……アナルニア国民がクソシタール人に感謝する日が、いつか来るはずだ。アナルニア人とクソシタール人には、共に歩む未来があるはずだ!」


 チンタローはインモーハミダスの横顔を見つめていた。

 黙って耳を傾けていたインモーハミダスの目に一瞬、失望の色が灯り――やがて怒りへと変わった。


「何が……」


 インモーハミダスが全身を震わせながら言葉を発した。

 その身体から黒い靄が溢れ出し、周囲に冷たい風が吹き始めた。


「何が感謝や! ネシォーベンから奪った鉄でアナルニア人が贅沢しとる間に! ワシの故郷では緑の森が灰色になって! 蛍がようけ住んどった川が魚も泳げんようになって! 山は禿げ上がって鳥や獣は一匹も住めんようになった! ワシのじい様とばあ様は、先祖代々のブドウ畑が灰色になるのを見ながら、毒の煙を吸って死んでいったんやど!」


 空気が震えるような大声と共に、風が激しい突風へと変わった。


「うっ……うぁぁぁっ!!」

「ミャーコちゃ……あぐっ……」


 両手で頭を押さえてうずくまるミャーコにモミーナが駆け寄ろうとしたものの、その場に膝を着き両手を着いた。

 マッスロンは両腕で風を凌ごうとしたが、すぐに力を失い、糸が切れた操り人形のように倒れた。


「みんな……!」


 チンタローは次々に倒れる仲間たちを前に、ベンピァックでの戦いを思い出していた。

 魔龍――ヴリーリァが使った闇の嵐を、インモーハミダスは同じレベルで使いこなしている。

 疲弊しきったモミーナたちがこれに抗う術はないと瞬時に理解した。


「うぅ……」


 チンタローが思いを巡らせていると、背後で呻き声が聞こえた。

 振り返ると、シリーゲムッシルが前のめりに倒れていた。


「シリーゲムッシルさん!」


 すぐにシリーゲムッシルの元へ駆け寄り、助け起こす。


「チンタロー……君。君は、無事なのか……?」

「はい。俺は大丈夫で――」


 言いかけて、ウォシュレとネイピアの安否を確かめねばと思い直す。

 咄嗟に振り向いた先には、膝を着いてウォシュレの身体を抱き締めるネイピアの姿があった。


「ネイピアさん……王女殿下……!」


 チンタローの呼びかけに対する返事はなかった。

 二人は肩で大きく息をしながら、こちらに視線を送るだけだった。


「インモーハミダス卿……何ということを……するんだ。殿下に対して、貴君は……」


 チンタローの腕の中で、シリーゲムッシルがか細い声で詰った。


「何度も言わせるな。私はもはや、アナルニア王の臣下ではないのだぞ」

「インモーハミダス卿……思い留まってくれ。国王陛下も、あの一件には心を痛めておられたはずだ。現に――」

「せからしかァ! 国王陛下があの時、何をしてくださったァ! 鉱山の操業停止を訴える辺境伯様を……ヨータス様を、こともあろうに投獄し! ヨータス様の釈放を訴えて都に来た住民たちを、槍で追い散らしたやろがァ! お優しい国王陛下は、ワシらの苦しみを知らないだけや、このことを知ればきっと助けてくださるはずや……そう信じていたワシらの、あの絶望が! お前らアナルニア人にわかってたまるかァ!」


 畳みかけるように、インモーハミダスが方言で怒鳴りつける。

 肩を大きく震わせ、怒りに顔を歪めたその姿は、もはや歴戦の軍人でも政府の高官でもない。

 復讐の為に全てを捨てた、寄る辺なき男の姿がそこにはあった。

 ミャーコが語った表向きの歴史には記されていない、真の歴史がそこにはあった。

 見捨てられた人々の歴史がそこにはあった。

 真実は、歴史書よりずっと残酷だった。


「インモーハミダス……卿。もう……やめてください」


 息も絶え絶えに声を発したのは、ネイピアだった。


「……ネイピア様。喋ってはなりません。お身体に障ります」

「インモーハミダス卿。祖父を思うあなたの気持ちをありがたく思います。ですが……それを受け取るわけには、参りません。私は……そのように呼ばれる立場の人間ではありません。ましてや……王家に刃を向ける逆臣となった、あなたに」


 言い終わると、ネイピアはインモーハミダスの目を静かに見据えた。


「ネイピア様。今のあなた様は王家に仕える侍従騎士。そして、全てはあなた様がお生まれになる前のこと。そう仰るのも無理からぬことです」


 いくらか落ち着きを取り戻したインモーハミダスが、ネイピアの視線を真っすぐ受け止めながら言った。


「ネイピア様。私は幼い頃に一度だけ……ヨータス様に、あなた様のお祖父様にお会いしたことがあるのですよ」

「お祖父様に……!?」

「はい。ネシォーベンにあった、祖父母の農園で」


 インモーハミダスの口調が柔らかなものに変わった。


「ヨータス様は一通の書状をお持ちになり、祖父母をねぎらってくださいました。書状は国王陛下が下賜された表彰状でした。そして、私を抱き上げ祖父母の功績を讃えてくださいました。生まれてすぐに両親を亡くし、祖父母が親代わりだった私にとって、そのことがどれほど誇らしかったか。そして、御自ら領民を労いにお越しくださったヨータス様のお心遣いが、どれほど嬉しかったか」


 思いがけぬ言葉にネイピアは言葉を失い、唇を震わせていた。


「そして、私はこう思いました。こんな素晴らしい方が深く敬う国王陛下はどれほど偉大な方なのだろう、と。私の心には国王陛下を敬う気持ちが、自然と育まれてゆきました」


 いたたまれず、ネイピアが視線を逸らす。

 インモーハミダスはなおもネイピアを見つめたまま、言葉を紡いだ。


「ネイピア様。私は今でも、ヨータス様の笑顔とその手の温もりを覚えております。侍従騎士となられたあなた様に王宮でお会いした時、一目で分かりました。レーストゥルム家の方に違いないと。あなた様には、ヨータス様の面影があります」


 インモーハミダスの表情が、いつしか柔和なものとなっていた。

 チンタローはその横顔から目が離せなかった。


 ――これが……この人、本来の表情なんだ。故郷を思い出し、故郷の思い出を語る時だけ、この人は本来の自分に戻るんだ――。


「月日は流れ……ヨータス様は投獄され、私は祖父母を亡くし、王都へ移住させられました。かつての辺境伯領がクソシテネーレ共和国として独立したのは、そのすぐ後のことです。私はクソシタール人として生きてゆく機会すら奪われました」


 チンタローは、インモーハミダスの言葉に聞き入っていた。

 出会った時と同じように、力強く落ち着いた声音に心惹かれる自身がいることを理解していた。


 ――俺には、この人を憎むことはできない。


 自身がアナルニア人ではないから。

 アナルニア人とクソシタール人の歴史と確執を知らないから。

 この国にとって、アナルニア人にとって、クソシタール人にとって、部外者に過ぎないから。

 そんなことは分かっている。それでも――。


「叶うことなら……もう一度、ヨータス様にお会いしとうございました。あの日、あなた様に抱かれた幼子は成長しアナルニア王家を守る将校になりましたと……そう、申し上げたかった。せめて……葬儀だけでも、参列したかった」


 同じ王都にいながらインモーハミダスがヨータスに会えなかった理由は、チンタローにも察しがついた。

 軍の関係者が反逆者であるヨータスに接触することは禁じられていたのだろう。

 それがクソシタール人であるインモーハミダスであれば、猶更のこと。

 少しでも反乱につながる要素を摘んでおく為、という理屈は理解できる。

 しかし、あまりにも残酷過ぎる。


 ――インモーハミダスさんは、最初から復讐だけを考えて軍に入隊したのだろうか。もし、そうでないとすれば……いや、そうであったとしても。インモーハミダスさんがヨータスさんに会うことができれば、きっと今の事態は起きていなかったはずだ。


 チンタローはここへ来る直前に、シリーゲムッシルと交わしたやり取りを思い出した。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「君達に言っておきたいことがある。先日の魔龍災害対策会議のことだが……君たちの前でハインセッツ公が他国への侵攻という重大な計画を示唆したことを、疑問に思わなかったか」


 マッスロンの腕の中でシリーゲムッシルが問いかけた。

 チンタローがハッと息を呑んだ。

 モミーナとミャーコはシリーゲムッシルの問いとハインセッツ公がとった言動の意味を理解していたのか、特に反応を示さなかった。


「言われてみれば……確かに」

「君たちがいる場でクソシテネーレ侵攻を示唆したのは、王国が認めた勇士達に王国の立場を伝える為だ。アナルニア王国は国王陛下の名誉に依って立つ国であると」

「どうして、わざわざそんなことを」

「それもまた、内務大臣としての責任感の為せる業だよ」


 シリーゲムッシルは迷いなく言い切った。その口調に、侮蔑や嫌悪感は含まれていない。


「……シリーゲムッシルさんは、クソシテネーレ侵攻には反対なんでしょう?」

「無論だよ。断固反対だ。だがね」


 シリーゲムッシルは言葉を区切り、呼吸を整えた。

 これから話すことが不本意であると示すようだった。


「ハインセッツ公の考えは理解できる。私も同じ立場であれば、同じことを主張したかも知れない。私はクソシテネーレ侵攻が周辺国を巻き込む大戦争になることを危惧してあのように申し上げたが、王国が周辺国に侮られることもあってはならない。クソシテネーレとの交渉は、やり方を間違えれば全ての国に誤ったメッセージを送ることになる」


 チンタローは驚いた。

 シリーゲムッシルはハインセッツ公の考えを支持こそしないものの、深く理解し尊重している。

 自らが届かぬ知性の一端に触れた思いがした。


「同じ閣僚であっても、それぞれ立場は違う。閣僚の筆頭であり元宮内大臣であるハインセッツ公には、何を差し置いても王室の権威を守るという強い思いがある。私は外務大臣として、異なる立場から主張すべきことを主張するまでだ」


 そう語るシリーゲムッシルの顔は、どこまでも精悍で頼もしく見えた。

 マッスロンの腕の中でなければ、もっと様になっただろう。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「さて……ティモ=シリーゲムッシル。お前たちアナルニア人も、国土が汚され、美しい景色が過去のものとなる苦しみが少しは分かったはずだ」


 インモーハミダスの低く重い声が、チンタローの意識を呼び戻した。

 シリーゲムッシルを罵るその横顔は、険しいものに戻っていた。


「待ってくれ……インモーハミダス卿」

「くどい。私はもうアナルニア王家の臣下ではないと何度、言えば分かる」


 二人のやり取りを前に、チンタローの心は一つの結論へと向かっていた。

 インモーハミダスは見捨てられた人々の生き残りとして、復讐の為に。

 シリーゲムッシルはアナルニア王家の臣下として、与えられた使命の為に。


 それぞれの事情が、それぞれの立場がある。

 そのことは理解できる。

 自らの置かれた立場に忠実な姿勢は、それだけで尊敬に値する。

 それでも――それぞれが立場に忠実なだけでは、運命は決して交わらない。


 インモーハミダスは仇であるアナルニア王家の為に命懸けで戦い、アナルニア国民を慈しみながらも、復讐者の鎖を断ち切ることができない。

 シリーゲムッシルはインモーハミダスをはじめクソシタール人の苦しみに理解を示しながらも、立場を超えて歩み寄ることができない。

 立場の違いが運命を隔ててしまったならば……立場に縛られない者が、この状況を変えねばならない。


 ――ヴリーリァを説得した時と同じだ。みんな、それぞれの事情がある。立場がある。そのせいで言いたくても言えないことだって、あるんだ。それなら、俺が……いや、違う。


「俺たちが、やるしかないんだ」


 動きを封じられながらも五感を研ぎ澄ませていたモミーナとミャーコの耳だけが、チンタローの言葉を捉えていた。

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