第四十二話『復讐の旅路(中編)』
優しい雨が降るような音がした。
温かい、恵みの雨が降るような――。
雨の 雨の 降りし時
我はうつむき 涙せん
我の 我の 悲しみを
雨は優しう 忘れしむ
いつか 空は ほほえみて
我は あおむき 歩み出す
幼い頃に聴いた、ベンピァックの地に伝わる歌を思い出す。
クソシタール人たちはかつて争いにかまけて神への敬意と人々への思いやりを忘れ、恐ろしい魔龍を呼び覚ましてしまった。
クソシタール人の神官の一人が自分たちの過ちを恥じ、詠んだ一篇の詩。
やがてこの詩が歌となり、クソシタール人のみならずベンピァックに住む人々によって唄い継がれてきたという。
この逸話を知ったのは、クソシタール辺境伯領が分離独立した頃のことだった。
王家に背きアナルニア人と決別したクソシタール人を愚かと蔑む大人たちの姿に疑問を抱いたことが、政界を目指したきっかけだった。
しかし、必死に学んで王立ケツァーナ大学へと進みはしたものの、大きな壁が立ち塞がった。
同じ道を目指す者たちは多くが古くからの名家の出身者であり、家格でも資産でも能力でも自身を大きく凌いでいた。
零細貴族の次男である自身には思いもつかぬ世界があった。
男爵家とは名ばかり。猫の額ほどの領地に資産も乏しく、使用人を雇う余裕すら無い家で育ち、加えて生まれつき身体が弱く、剣術の稽古も満足に受けられなかった。
古くから尚武の気風が根付くアナルニア王国では文官といえども剣術は必修科目であり、政界を目指す者は遊学を兼ねた剣術の武者修行を済ませてから大学へ進むことが不文律となっていた。
同期の中でこれを済ませていない者は自身を除き、一人もいなかった。
自信を失い、栄達を諦めかけた、ある日のことだった。
雨の降りしきる中、王立図書館へ入る巨漢の姿が目に止まった。
白い軍服を着た、クソシタール人の青年将校だった。
その名はソラーヌ=インモーハミダス。
少尉に任官してすぐ、千人から成る武装集団をたった一人で壊滅させたという話を学友たちから伝え聞いた。
その後、図書館を訪れる度に彼の姿を見かけるようになった。
軍務の傍ら必死に学ぶその真摯な姿に憧れ、心から敬意を抱いた。
彼のようにはなれずとも、少しでも近づきたいと思った。
彼はいずれ、この国の防衛を担う要職に就くに違いない。
いつか、彼と共にこの国を守りたい。
彼が軍人として、この国に尽くすのであれば――。
雨の 雨の 降りし時
人はたたずみ 顧みる
人の 人の 憎しみを
雨は優しう 忘れしむ
いつか 人は ほほえみて
いくさ 忘れて 歩み出す
そうだ。
人々の憎しみを和らげ、互いに手を取り合う手助けをしたい。
外交官となって他国との、他民族との融和を、クソシタール人との融和を実現したい。
分かたれたアナルニア人とクソシタール人が互いに手を取り合う日を夢見て、必死に勉学に励んだ。
やがて念願かなって外交官となり、ペンペコ王国に領事として赴任してすぐ、南方の超大国――フィンエンダス帝国を盟主とする南部同盟の大軍が北上を開始し、瞬く間にアナルニアとペンペコの国境へ迫った。
祖国存亡の危機に際して各地からの情報収集に奔走していた時、中佐となった彼が南部同盟軍に痛打を与え、侵攻を食い止めているとの報告が届いた。
立場は違えども、彼と共に祖国を守る時がやって来たのだ。
それからは必死に、自分にできる戦いをした。
寝る間も惜しんで情報を集め精査し、報告をまとめ、本国へ逐一送る。
自身の知る限り誰よりも努力家で、誰よりも強い男と同じ務めを果たしている。
そう考えると、微塵も疲れを感じなかった。
やがて、インモーハミダス中佐が戦時昇進で少将となり、軍の精鋭を率いて南部同盟軍を一掃したとの報せが届いた。
彼がこの上ない武功を上げた感激と、その役に立てた誇らしさと、祖国が守られた喜びと、極度の疲れからか、溢れ出る涙を止めることができなかった。
涙を拭う袖は肘までびしょ濡れになり、それでも涙はなおも滴り落ちて、床を濡らした。
後に『西方大戦』と呼ばれる一連の戦いでアナルニア王国の勝利が確定したことが分かると、そのまま倒れて気を失った。
そして、夢を見た。
彼が国防大臣となり、自身は外務大臣となって共にアナルニア王国を支える夢を。
夢を、夢のままで終わらせてなるものか。
必ず夢を現実のものとする。
その思いなくば、こうして外務大臣となることはできなかった。
そのきっかけをくれたのは、その力をくれたのは、ソラーヌ=インモーハミダス。
自身が最も尊敬し憧れる、アナルニアで最も強い男――。
「あっ……瞼が動いたんだゾっ……チンタロー、早くしまえ!」
「わっ、ちょっ……急かすなって!」
聞き覚えのある声が耳に届き、外務大臣――ティモ=シリーゲムッシル男爵は夢の世界から現実へと呼び戻された。
頬をあずけるビロードの絨毯が濡れていた。
「あっ! 目が開いたんだゾ! ほら、早く!」
「わーってるって! ちょっと黙ってて!」
シリーゲムッシルが声のする方へ視線を上げると、若き異国の冒険者が慌ててズボンを履いていた。
「……きみ、は……チンタロー君……?」
「あっ、はい! 外務大臣閣下! こ、こんばんは!」
チンタローは傍らのミャーコに手で急かされながら、ズボンのベルトを留めた。
「何故、君がここに……ん。何だろう。妙に頭が冴えるような……おや? 髪が濡れているな。このニオイは……」
「あわっ! そそそ、そんなことより! インモーハミダスさんは……あっ、インモーハミダス閣下はどこですか!?」
「……? インモーハミダス卿なら、先ほど国防省から戻ってきたが。おそらく、まだ王宮内にいるはずだよ」
シリーゲムッシルがそう言って頭に手をやろうとすると、モミーナが慌ててタオルを頭にかぶせた。
「はわわ……か、閣下! あのあの……雨漏りがあったみたいですねっ! あ、頭をお拭きしますぅ……!」
「おっと……すまないね。ところで、そんなに畏まる必要はないよ。閣下などと呼ばれるのは気恥ずかしい。それに、君たちは私の部下ではあるまい。大切な国賓だ」
モミーナに頭をごしごしと拭かれながら、シリーゲムッシルが苦笑した。
「あ……ありがとうございます。シリーゲムッシル閣下……じゃなくて、シリーゲムッシルさん」
「礼には及ばないよ、チンタロー君。インモーハミダス卿も私と同じことを言ったのではないのかな?」
「あ、はい……よく、ご存じですね」
チンタローが眼鏡を拾い、両手でそっと差し出した。
シリーゲムッシルは再び苦笑すると、静かに身体を起こして両手で眼鏡を受け取った。
「ありがとう。よく知っているかはともかく、インモーハミダス卿を見習ってはいるつもりだよ」
シリーゲムッシルはそう言って、そっと眼鏡をかけた。
チンタローは言葉を失った。
シリーゲムッシルがインモーハミダスを深く敬愛していることが、このやり取りだけで分かった。
一連の事態はインモーハミダスによる可能性が高いと知れば、どれほどのショックを受けるだろうか。
そう考えると、話すことが躊躇われた。
「ん……どうしたのかね、チンタロー君」
「はい。これからお話しすることを、どうかよく聞いていただきたいと思います」
チンタローの様子にただならぬものを感じ、シリーゲムッシルが居住まいを正すと、チンタローたちもシリーゲムッシルの前に跪いた。
「シリーゲムッシルさん。最初にお知らせすることがあります。ここにいる仲間とネイピアさんのおかげで、魔龍を無力化することに成功しました」
「なんと!? やってくれたか……そうか。やってくれたか!! ありがとう……本当にありがとう」
「……恐れ入ります」
シリーゲムッシルは両手をチンタローの肩に置いて冒険者一行の顔を見回したが、誰一人として笑っていないことに気づくと静かに手を下ろした。
「最初に……ということは、まだ何かあるのだね?」
「はい。突然の話ですが……今、この国は古代クソシタールの闇魔法によって外界と隔絶され、俺たちを除くほぼ全ての人々が眠りに落ちています」
「なんだって!?」
「それだけではありません。この魔法の術式には魔法陣の中にある全てを焼き尽くす、闇の劫火が組み込まれています。これが発動すればアナルニア王国全土が焦土と化し、千年は人の住めない土地となります」
「待っ……」
シリーゲムッシルは手を挙げてチンタローの話を制止しようとして、すぐにその手を下ろした。
そして、しばしチンタローの目を見つめた。
チンタローはその間、一瞬たりとも目を逸らさなかった。
「いや……すまない。話を続けたまえ」
「はい。闇の劫火は魔法の術者がその気になれば、いつでも発動させることができます」
「なっ……!?」
シリーゲムッシルが身体を大きく震わせたが、チンタローはなおも言葉を紡いだ。
「俺たちはこれを発動させないよう、術者を止める為に王都へ戻ってきました」
「術者を、止める……? その、術者とは誰なのか。君たちには心当たりがあるのかね」
シリーゲムッシルはチンタローたち全員を見回しながら問うた。
誰一人として目を逸らす者はなかった。
「はい。国土防衛計画と称した各地の魔法装置建設に魔法陣の形成、それによる魔龍の復活と闇魔法の発動……それらは全てアナルニア王国を滅亡させる為の、インモーハミダスさんによる計画だった可能性が高い。俺たちは、そう考えています」
シリーゲムッシルが不意に目を伏せ、無言で立ち上がった。
「シリーゲムッシルさん?」
「私の見解は保留とする。すまないが、君たちの話はまだ仮定に過ぎないようだ。インモーハミダス卿に会って確かめるのが一番だろう。王宮は広い。君たちも案内役が必要なはずだ」
「ありがとうございます。みんな、行こう」
チンタローたち全員が立ち上がると、シリーゲムッシルは目を大きく見開いて一人一人の目を見た。
「侍従騎士殿と、他の仲間たちは眠ったままなのかね」
「タケヤ、ヤーラシュカ、ドエームは眠っている為、近隣の街に置いてきました。ネイピアさんは国防大臣特命の徽章に組み込まれた転移魔法によって、王都に来ているものと思われます」
「……そうか」
シリーゲムッシルは落ち着き払っていた。
チンタローはその姿に感動を覚えた。
インモーハミダスやハインセッツ公ら他の閣僚と比べてシリーゲムッシルは体格で見劣りする上、押しの弱い印象があった。
しかし、自分たちの突拍子もない言葉をしっかりと受け止め毅然としている姿を見るに、外務大臣の肩書は伊達ではないと思った。
「ところで侍従騎士殿は、インモーハミダス卿の計画という推測について何か言っていなかったかね」
「はい。ネイピアさんが言うには、インモーハミダスさんは故郷を奪われたクソシタール人としてアナルニア王国に復讐する気だと」
「そうか、分かった。では急ごう。後の話は走りながら聞く」
シリーゲムッシルはそう言って資料室の出口へ向かった。
「シリーゲムッシルさん、待ってください。万一の事態に備えて、ここから先は陣形を組んで進むことにします。申し訳ありませんが、俺たちの言う通りにしていただけませんか」
「承知した。よろしく頼む」
シリーゲムッシルが口元を緩めた。
その笑顔の頼もしさにチンタローは再び感動した。
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「ハッ……ハヒッ、ハヒッ……! も、もう駄目だ……もう走れない……!」
「えぇぇぇ……」
王宮の廊下を五百メートノレも走らないうちに、シリーゲムッシルは膝を着いた。
チンタローはその情けない姿を前に「さっきの感動を返してくれ!」と叫びたくなった。
「マッスロン。シリーゲムッシルさんを抱えて走れるか」
「お安い御用だ」
「ありがとう。というわけでシリーゲムッシルさん。よろしいですか」
「ああ、かまわんよ……いや。こちらこそ、よろしく頼む」
「はっ。では、失礼します」
マッスロンはシリーゲムッシルの身体を両手で支えると、軽々と抱え上げた。
右手を背中に、左手を膝の裏に入れて支える、いわゆる『お姫様抱っこ』。
一国の大臣がマッスロンの屈強な腕の中に可愛らしく収まる光景を前に、チンタローとモミーナは困惑の表情を浮かべ、ミャーコは必死で笑いをこらえていた。
「すまないねぇ、私は他の閣僚と違って体力がないからねぇ……」
「あっ、いえ……それじゃ、行きましょう! シリーゲムッシルさん、案内をお願いします」
「心得た。では、君たちからはベンピァックでの出来事を聞かせてくれるかい」
「分かりました。それじゃ、走りながらお話ししますね」
チンタローたちは暗い廊下を再び駆けて行った。
王宮内は不気味に静まり返り、チンタローたちの足音以外に音は聞こえなかった。




