第三十五話『決戦! 魔龍対チンタロー(中編)』
魔龍が復活したことは偶然ではない。
アナルニアを滅ぼそうとする何者かの悪意によって、魔龍は復活した。
想定外の言葉だった。
しかし、チンタローの意識はその言葉よりも寧ろ、その目から流れた涙に向けられていた。
――涙……どうして……?
「黙りおれ!!」
魔龍はチンタローを一喝し、咆哮を上げた。
凄まじい声量と不快な響きに脳を揺さぶられ、チンタローが耳を押さえる。
「うぁぁぁぁっ!!」
魔龍のそばで反撃の機会を窺っていたモミーナとネイピアも、たまらず後ずさる。
「遥か昔……我はクソシタール人に大地の恵みを約束し、クソシタール人は対価として人間同士で手を取り合い、笑顔で生きることを約束した。だが、愚かにもクソシタール人はそれを捨て、醜い争いを始めた」
魔龍は動きを止め、咆哮の余波に苦しむチンタローたちを見下ろしていた。
攻撃を加える様子はなかった。
頭痛に喘ぐばかりで何も考えられないチンタローの視界に、力無く垂れ下がったミャーコの尻尾が目に入った。
「ミャーコ……おい、ミャーコ! うぅっ……!」
光る杖を握り締めたまま、うずくまるミャーコの肩を揺さぶるが、ミャーコは既に意識を失っていた。
「人間は惰弱なことよ。この中では最も大きな力を持っている魔獣狩りの小娘がこれか」
魔龍の声に嘲りの色は一切なかった。その口調から伝わるものは、ただ哀れみだった。
「弱い。人間は弱い上に愚かじゃ。アナルニア王家が四十年ごとに執り行っていた儀式の意義も、とうに忘れ去られていていたとは。オーベンデールが子孫たちの為体を知れば、悲しむじゃろうて」
魔龍は旧友を恋しがるように言った。
「……とはいえ、オーベンデールもしょうもない男であったのぅ。奴がベンピァックを訪れたのは巫女に請われてのことと、うぬらは語っておったが、そうではない。美貌の誉れ高い巫女を我がものとする為じゃ。まったく、色好みで強欲で尊大なくせに威厳は乏しく狡い、どうしようもない男であった」
伝説の初代国王を容赦なく罵るその声は、何故か優しげだった。
チンタローたちは身の危険も忘れ、いつしか魔龍の話に聞き入っていた。
「しかし、オーベンデールが来なければクソシタール人は滅んでいたであろう。オーベンデールはどこか憎めないところがあった。あ奴めと戦い続けるうちに、クソシタール人もいつしか毒気を抜かれていった」
ふと、魔龍がネイピアに目を向けた。怒りや憎しみの色はなかった。
ネイピアをはじめ、誰もその視線の意図が理解できなかった。
魔龍が聞かせるつもりのない声は聞こえないのか、チンタローたちは魔龍の心の声を聞くことはできなかった。
やがて、魔龍が顔を上げて遠くを見た。
視線の先にはベンピァック要塞の監視塔があった。
「あるいは……オーベンデールの言葉を信じた我が、愚かであったのか。ベンピァックの地は汚され、二つに分かたれ、アナルニア人とクソシタール人は互いを憎み合っておる。南から異民族の軍勢が攻めてきた時でさえ、手を取り合うことがなかったとは。道理で、四十年前もクソシタール人たちの祈りが聞こえなかったわけじゃ」
コンクリートの監視塔を見つめる魔龍の口調が、次第に暗く沈んだものに変わっていった。
その身体から、黒い靄が溢れ出す。
「クソシタール人と戦う為の要塞……美しい森を切り開いて、くだらぬものを作りおって」
――その森、あなたも燃やしてましたよね……。
チンタローは思わず心の中で突っ込んだが、魔龍はこの声を聞き漏らしたようだった。
魔龍の怒りの理由が、チンタローにはようやく見えてきた。
その怒りは歴史の捏造よりも、アナルニア人とクソシタール人が訣別したことに向けられている。
鉱山開発による環境破壊を発端として両民族が対立し、クソシタール辺境伯領は分離独立した。
十五年前の西方大戦においても、両者は手を取り合おうとしなかった。
魔龍はとりわけ、この事実に衝撃を受けている。
四十年に一度、行われるという豊穣祭。
それは豊穣の女神――即ち魔龍を奉る儀式だった。
しかし、アナルニア王家はその実相を覆い隠し、偽りの歴史を書き記した。
その結果、人々は千年に渡り女神という名の虚像を崇め続け、その実像を暗黒と邪悪の化身として憎み続けた。
アナルニア王家は、こともあろうに神を欺き国民をも欺いたのだ。
しかし、魔龍は自身が欺かれたことよりも、人間たちが自ら不幸を招いたことに嘆き、怒っている。
まるで、子供の不甲斐なさに怒る母親のように――。
チンタローの胸に鋭い痛みが走った。
今この瞬間、この任務に対する疑問をはっきりと抱いてしまった。
――魔龍の心には優しさが残っているんだ。さっきだって、俺たちを部屋に招いて笑顔でもてなしてくれたじゃないか――。
魔龍が、ぴたりと動きを止めた。
――俺たちは、魔龍を……いや。この神様を……倒してしまっていいのか?
自問するチンタローと魔龍の目が合った。
魔龍はしばしチンタローの目を見つめていたが、やがて後足を大きく踏み鳴らした。
「……話し過ぎた。皆、死ね」
言い終わる前に、魔龍がモミーナめがけて前足を振り下ろした。
大鎌のような爪をモミーナが二振りの刀で受け流す。
硬い爪と刃がぶつかり、激しく火花が散った。
「ほぅ、心を読まれているというに」
次の瞬間、魔龍の背後からネイピアが斬りかかったが――。
「うぬらの心は読めると言ったであろうが!」
剣を上段に構えたネイピアの眼前に魔龍の尾が迫る。
咄嗟に身体を丸めて胴体への直撃を避けたが、衝撃で身体が弾き飛ばされる。
大木の幹に衝突する寸前のネイピアを受け止めたのは、モミーナだった。
「モミーナ殿! ありがとうございます」
「ネイピアさん。心が読まれていても戦いようはあります」
「あるならば見せてみよ!」
魔龍は一声叫ぶと、長い尾をもたげて黒い炎を噴射した。
二人が炎を避ける先も、魔龍は読んでいた。
激しく放電する角が迫り、すんでのところで飛びのいてかわす。
魔力を伴った電撃が周囲の木々を裂き、冠水した地面で水蒸気爆発が起きる。
その光景を見たモミーナがハッとした。
「ネイピアさん。出血を止める魔法は使えますか?」
「モミーナ殿! どこか怪我を!?」
「使えるんですね!」
モミーナは返事も聞かずに大地を蹴り、魔龍の眼前へと迫った。
角から放電を続ける魔龍が不意に身をこわばらせた。
「おのれ狂ったか!!」
「いいえ」
モミーナが左手に持つ刀の刃がその首筋を滑り――魔龍の視界が真っ赤に塗り潰された。
勢いよく噴き出した血が角から迸る電火に触れ、激しい火花と共に魔龍の目に降り注ぐ。
帯電した血液が眼球の表面で爆ぜ、水蒸気爆発が起きた――!
「ウァァァーッ!!」
この戦いで魔龍が初めて悲鳴を上げた。
モミーナの心を読んでいながら……否、だからこそ常軌を逸した戦法に困惑し、対処が遅れた。
角からの放電をやめ、目をつぶる。それだけのことが、すぐにできなかった。
「もらった!」
モミーナが右手で繰り出した突きが、立ち昇る蒸気を貫き魔龍の目に迫る。
しかし、間一髪で鋼鉄のような瞼が切先を阻む。
「モミーナ殿!」
ネイピアが血しぶきを浴びながら声を発した時には、モミーナは魔龍の肩を踏みつけて跳躍していた。
魔龍にはモミーナがどこを狙っているか分かっている。
しかし、目を焼かれ血のニオイで嗅覚を遮られ、モミーナの動きが掴めない。
「イィィヤァァァッ!!」
モミーナは落下の勢いを刃に乗せ、上段からの斬撃で右の角を叩き斬った。
象の牙ほどもある角が、音を立ててネイピアの足元に突き刺さる。
やがて魔龍の身体が傾き、前足が地面に着いた。
大きく大地が揺れる中、モミーナがネイピアの前に降り立った。
「ネイピアさん止血を!」
刀の一振りを地面に突き刺し、右手で傷口を押さえながらモミーナが言った。
ネイピアは返事をするのも忘れて左手をモミーナの首にかざし、呪文を唱えた。
「ドシア・ムサキネラート・ナードア……我は内なる恵みに訴えるものなり」
ネイピアの掌が光り、モミーナの傷が塞がってゆく。
モミーナは小さく息を吐くと、懐から干し肉を取り出して食べ始めた。
「ありがとうございます、ネイピアさん」
「あれが侍の戦い方ですか。あまりに無茶です」
「父の教えに『肉を斬らせて骨を断つ』という言葉があります。今のは『肉を斬って角を断つ』でしたが。ネイピアさんもどうぞ」
ネイピアはモミーナが差し出した干し肉を会釈して受け取り、かじった。
塩味の利いた肉を噛み締めるほどに、胸の奥が熱くなってゆくのを感じる。
同時に、あることを思い出し振り返る。
視線に気づいたチンタローがミャーコを抱きかかえたまま、声を発した。
「モミーナ、ネイピアさん。ミャーコがまだ目を――」
「ミャーコちゃんなら大丈夫でしょう。もし、駄目なら私たちだけでやります。ネイピアさん、攻撃を続けましょう」
モミーナはチンタローに見向きもせず言い放つと、再び刀を構えた。
ネイピアは迷いを飲み込むように干し肉を飲み下すと、自身も両手で剣を構えた。
「チンタローさん。私も同じ気持ちです。ですが、魔龍さんが戦いをやめない限り、私たちも戦いをやめるわけにはいきません」
モミーナはチンタローに背を向けたまま言うと、傍らのネイピアに振り向いた。
「ネイピアさんには聞きたいことがあります。ネイピアさんも知りたいことがあるはず。ですが、全ては戦いに勝ってからです」
「モミーナ殿……はい、承知しました」
モミーナがにっこりと微笑んだ。先ほどの狂気じみた戦いぶりが嘘のような優しい笑みだった。
「潰した目はすぐに回復するはずです。心を読まれたまま戦うのも変わりません。二人で攪乱しながら隙を窺いましょう」
「はい。うまくいけば、いいのですが」
ネイピアの返事を待っていたかのように、魔龍が身体を起こした。
「寄るな慮外者めが!!」
叫びと共にトンボのような翅を羽ばたかせ、突風を吹かせる。
今まさに斬りかかる寸前だったネイピアが風に煽られ怯んだ。
「うっ……!」
「イィィヤァァァッ!!」
ネイピアと反対の側に回り込んだモミーナが魔龍の右後脚を斬りつける。
しかし鋼鉄のような外殻は斬撃を寄せ付けず、火花が散るのみ。
ミャーコが意識を失ったことで、斬撃の威力を打撃の威力に変換する魔法は効力を失っていた。
しかも外殻は全身を隙間なく覆い、刃が刺さる余地はない。
「無駄なことを!」
魔龍は長い尾を大きく振り回し、円を描くように黒い炎を放った。
たちまち周囲は火の海となり、モミーナとネイピアが炎を避けて後退する。
戦いの様子を見ていたチンタローが、拳を握り締めた。
――俺にできることはないのか。何か、俺にできることは……!
「何もありはせぬ。仲間が殺される様を、そこで見ておれ」
魔龍はチンタローが発した心の声を斬り捨てると、翅を羽ばたかせて巨体を宙に浮かせた。
両目は開いているが右の角は欠損したままで放電は消え失せ、その声には疲れの色が見える。
少しずつ魔龍の力を削いでいることは間違いないが、それでも無力化には程遠い。
風に煽られて炎が勢いを増し、モミーナとネイピアは容易に近づけない。
空から攻撃する為か、魔龍が上空へ飛び上がろうとした時、急激な下降気流が魔龍の真上から吹き荒れた。
たまらずバランスを崩した魔龍の両足が大地を揺るがす。
「この風、まさか!」
魔龍が視線を向けたものは、うずくまったミャーコの杖だった。
先端部に埋め込まれた宝玉は青く光り続けている。
「ミャーコ……!」
チンタローの呼びかけに応えるように、彼方で大きな爆発が起きた。
「今の爆発は……!?」
ネイピアが声を発する間にも爆発が相次ぎ、大地に激震が走る。
モミーナがにやりと笑うのと同時にミャーコの右手が動き、光る杖が地面に突き立てられた。
「小娘、おのれ!」
魔龍の叫びをかき消すように、大きな爆発が連続して起こった。
今いる場所を取り囲むように広い範囲で爆炎と煙が上がり、立て続けに大木が倒れる音がした。
周囲を見渡し、爆発の起きた場所を知ったネイピアは全てを理解した。
「魔法陣……!」
うずくまっていたミャーコが、ゆっくりと立ち上がった。
魔龍を見据えるその表情には傲慢なまでの自信がみなぎっている。
「全て見破ったんだゾ。お前がウンコで作った汚い魔法陣は、もう存在しない!」
「莫迦な……これだけの範囲で、しかも正確にウンコの位置を見破るとは……!」
「にゃーっはっはっはっはっ! これでもう使い魔も、洗脳術も使えない! ミャーコたちの心も読めない! 魔力と体力を回復することもできない! この乱気流では飛ぶこともできない! お前の戦術的優位は全て崩れたんだゾ!」
精神的な打撃を狙ってか、ミャーコが畳みかけるように言い放った。
魔法に疎いチンタローにも理解できた。
柱や塔など高さのあるものに魔力を込めて魔法陣を形作るよう配置すれば、その中には結界が出来上がる。
魔龍は魔法陣を形成するよう大木の根本に闇の魔力を含む大便をして結界を作り、その中で魔法と能力を駆使していたのだ。
ミャーコは心を読まれぬよう意識を失ったままで魔法を操り、この地域一帯に張り巡らされたウンコの位置を割り出し、魔力の込められた木々を爆破した。
音から察するに、ミャーコは半径十キロメートノレ先のウンコまで探り当て、爆破したことが分かる。
全ては膨大な魔力と、それを正確に操る技術がなければできない芸当だった。
しかも、ミャーコは意識を失った状態でそれを行う術を持っていた。
先ほどはタケヤたちを気絶させるまで魔力を吸い取っていたが、こうした魔法に備えてのことだったのか。
チンタローはミャーコの力と智謀をあらためて頼もしく、恐ろしいと思った。
「ミャーコ。作戦の第二段階だ、やれるか」
「承ォー知! 任せるんだゾ!」
ミャーコは不敵な笑みでチンタローに応えた。
「図に乗るな人間共! 我の鱗を斬れもせぬくせに!」
魔龍が口を開けて咆哮を上げた――が。
ただ、大きな声がチンタローたちの鼓膜を震わせただけだった。
「なっ……!」
魔龍が絶句した。
状態異常の効果を増幅する魔法陣が消えた今、魔龍の咆哮はただの大声でしかなかった。
チンタローも、ミャーコも、平然と立っていた。
炎の外から攻撃の機会を窺っているモミーナとネイピアも同じく、全く怯む様子がない。
全員の表情に恐怖や焦りの色は一切なく、必勝の自信と闘志が燃えたぎっている。
「下がりおれ!!」
魔龍が足元のモミーナを追い払おうと前足を振りかざす。
それを待っていたかのように、モミーナが両手の刀で宙に弧を描いた。
「死ね!」
魔龍が繰り出した爪による攻撃を、右手の刀が弾き返す。
魔龍がもう一方の手で攻撃を繰り出すと、モミーナはこれも左手の刀で弾き返す。
「おのれ……!」
魔龍が両手で交互に攻撃を繰り出すが、モミーナは全てを弾き返す。
「おのれぇぇぇぇっ!!」
「イィィヤァァァッ!!」
絶え間なく散る火花が周囲を照らすほどの目にも止まらぬ攻撃の応酬――。
その期を逃さず側面からネイピアが斬りかかると、魔龍は長い尾をもたげて黒い炎を噴射した。
だが――。
「無駄です!」
ネイピアが無数の斬撃を繰り出し、その風圧で炎を四散させる。
「嘗めるな! 消し炭にしてくれる!」
「せぃぃぃぃぃぃっ!!」
勢いを増す炎を、ネイピアは斬撃で払い続ける。
モミーナもまた、魔龍が絶えず繰り出す爪の攻撃を弾き続ける。
電撃と熱線を封じられ、心を読むこともできず、飛ぶこともできず、手詰まりとなった魔龍の背中を見据えながら、チンタローが大きく深呼吸をした。
頭痛をもたらすほどの悪臭が消え、雨と木々の優しい匂いがした。
チンタローは足元の丸太――自身が小便をした丸太の中央部を持ち上げた。
その後ろで、ミャーコが丸太の後端を持ち上げる。
「ミャーコ、丸太の後ろは持ったな!! 行くぞォ!!」
「よっしゃ!」
チンタローとミャーコの身体に赤い光が灯る。
丸太を介してミャーコの魔法がチンタローにも施されたのだ。
「行くんだゾォォ!!」
ミャーコの喚声と共に、チンタローが足を踏み出す。
魔法の効果により、通常の三倍の速度で足が動く。
赤い光が尾を引くその姿は、モミーナとネイピアからは赤い彗星のように見えた。
一瞬遅れて、魔龍の目が背後から迫るチンタローとミャーコの姿を捉える。
「丸太だと!? そんなものが我の鱗を貫けるとでも……」
言いかけて、魔龍はハッとした。
この抜け目ない奴らが、そんな間抜けなことを考えるはずがない――。
「ここなら鱗もないだろぉぉぉ!!」
「やめっ――」
魔龍がチンタローたちの狙いを理解した時には、既に遅かった。
「ひぎぃぃぃぃぃ!!!」
太い丸太を肛門に突っ込まれた魔龍の絶叫が、森の中に木霊した。




