第十五話『花園のひみつ』
「うぅっ……うぐっ、ひぐっ……もういや……助けて……」
五十メートノレ四方はある、広い中庭。
自身の足音で声を聞き逃すことがないよう、静かに歩を進める。
低木の緑に美しく映える、色とりどりのバラ、ラベンダー、チューリップ。
他にもチンタローが名前を知らない花や植物が豊かに繁り、歩きやすく切り開かれた歩道の端には簡素だが品の良いベンチとテーブルが置かれている。
手入れもよく、気配りの行き届いた庭園だと歩いているだけで分かる。
中庭の中心にある白い東屋の前まで進むと、傍らにバケツや植木鋏などの道具が落ちていた。
そのすぐそばに、うずくまる小さな背中が見えた。
麦わら帽子にエプロン、麻のズボンに長靴――庭師の服装に身を包んだ金髪の少女が、顔を覆って泣いていた。
「うぅっ……うぁぁん……どうしてぇ……どうして私がぁ……」
少女はすぐ後ろにいるチンタローにも気づかず、泣き続けた。
事件や事故ではないとわかり一安心したが、目の前で泣く少女を置いて立ち去るわけにもいかず、声をかけることにした。
「助けて……助けてぇ、お父さ――」
「あのー、大丈夫ですか?」
背後から声をかけられ、少女が大きく身体を震わせる。
「あっ。急に声かけちゃって、サーセン。『助けて』って声が聞こえたから……」
「……ありがとう。大事ありません」
返ってきたのは、野暮ったい服装には似つかわしくない可憐で上品な声だった。
やがて、背を向けていた少女が振り返った。
気分が悪いのか、帽子のつばで顔を隠すようにして背を丸めていた。
「本当に大丈夫ですか? 気分が悪いとかだったら、人を呼んできますけど――」
「誰も呼ばないで!」
それまでとは打って変わって、強い口調だった。
チンタローは驚いたが、それでも不思議と不快感は覚えなかった。
「……はい……わかりました」
そして、自然と返事をしていた。何故か、この声に従わねばならないような気がした。
数秒の間を置いて、少女がハッとして顔を上げた。
「ごめんなさい! そんなつもりでは……」
その瞬間、心地よいフローラルブーケの香りがチンタローの鼻を刺激した。
目の前にいたのは、泣きはらした目をした美しい少女――。
王女ウォシュレだった。
「あっ、えっ……? あの……王女様? ですよね……」
ウォシュレは一瞬「しまった」という顔をしたが、帽子を脱ぎ、居住まいを正してチンタローに正面から向き合った。
「いかにも。アナルニア王国第二百二十三代国王クミトリー九世が長子、第一王女にして摂政、第二百六十五代宰相ウォシュレです。あなたは聖なる剣の使い手、チンタローでしたね。私の身を案じ、こうして助けに来てくれたことに深く感謝します」
ウォシュレは王族らしい威厳溢れる態度で気品ある笑みを見せたものの、その顔は青白く息は荒く、今にも倒れてしまいそうだった。
「チンタロー。あなたには後ほど、褒賞を用意しましょう。よって――」
「あっ、あの! 褒賞とか、いいですから。少し休んだ方が……」
「心配には及びません。私は――」
そう言ったそばから、ウォシュレの身体がぐらついた。
「あっ! 大丈夫ですか!」
チンタローは反射的にウォシュレの身体を支えようとしたが、足元のバケツに蹴躓いて、うつ伏せに倒れ込んだ。
芝生の地面だったので痛くはなかったが、そのすぐ後で背中にウォシュレの身体がのしかかってきた。
「きゃっ!」
ウォシュレが可愛らしい悲鳴を上げた。
チンタローは背中に伝わる柔らかな感触と心地よい重みに現実を忘れかけたが、すぐに気を取り戻した。
「あの……王女様。お怪我は……」
「ごめんなさい。あなたこそ、怪我はありませんか」
「あ、はい。俺……じゃなくて、自分は大丈夫です」
ややあって、ウォシュレの身体が背中から離れる。
チンタローが地面に手を着いて身体を起こすと、顔のすぐ上にウォシュレの顔があった。
すぐ近くで見る王女――ウォシュレの美しさに、チンタローは時を忘れた。
繊細な目鼻立ち、長い睫毛で飾られた切れ長の目に輝く青い瞳。肌はきめ細やかで、シミ一つない。
顔色は蒼白なままだったが、憂いをたたえた表情が美しさを際立たせているようだった。
ウォシュレは覆いかぶさるような姿勢で、チンタローを見下ろしていた。
互いの目が合い、チンタローとウォシュレはしばし言葉を失った。
こうしたことは初めてなのか、先ほどまで威厳たっぷりに振舞っていたウォシュレは瞬きするのも忘れてチンタローの目を見つめていた。
美しい王女との考えもしなかった状況に、胸が高鳴り身体が熱くなる。
やがて、沈黙に耐えかねてチンタローが口を開こうとした瞬間のことだった。
「うぅっ……」
ウォシュレは小さく唸って、苦しそうに眉根を寄せると――。
「王女様!? 大丈夫で――」
「うおぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
チンタローの頭上に、勢いよく吐いた。
「ひぇぇぇっ!?」
よける間もなく、チンタローの頭にウォシュレのゲロ……もとい、吐瀉物が容赦なく振りかかった。
「おぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
熱い液体に髪を濡らしながら、チンタローの心は妙に冷静だった。
王女様にゲロを吐きかけられる機会なんて、これからの人生で絶対にないはずだ。
ドエームが知ったら、どれほどうらやましがることだろう。
「うぐっ……あっ、はぁっ……はぁっ……はぁ……ご、ごめんなさ……うぅっ! うぇぇぇぇぇぇぇ!」
よほど具合が悪かったのか、ウォシュレの嘔吐はなかなか収まらなかった。
胃の中が空っぽになってしまうのではないか。
チンタローは吐瀉物を頭で受け止めながら、ウォシュレの体調を心配していた。
四度に及ぶ波が過ぎ、吐くものが無くなったのかウォシュレの嘔吐がようやく止んだ。
「はぁ……はぁ……はぁっ……」
ウォシュレから嘔吐の気配がなくなったのを見計らい、チンタローは顔を上げた。
髪にかかった吐瀉物が首筋から上着の中に流れ込み、背中を伝って落ちる。
ズボンとパンツまで吐瀉物まみれになった。
再び、チンタローとウォシュレの目が合う。
「あ……あの……王女様……」
チンタローが話しかけるも、返事はなかった。
ウォシュレはチンタローの目を見つめながら、ただ震えていた。
先ほどまでの威厳はもうなかった。
目の前にいるのは、ただの一人の小柄な少女だった。
何か話さねば……この空気を変えようと思案を巡らすチンタローの頭に、ある言葉が閃いた。
これだ――!
「ここは王都ケツァーナ……王都だけに、王都で嘔吐! なんちゃって。あははは!」
ウォシュレはしばし、ぽかんとしていたが、吐瀉物にまみれながら笑うチンタローを見ているうちに吹き出した。
「ぷっ……! ふふ……何ですか、それは」
「あははは……王都で嘔吐! 王都でぇぇ……嘔吐ぉぉ! イェイ!」
ウォシュレの笑顔を引き出したチンタローは、嬉しくなってポーズを取りながらダジャレを連呼した。
「ふふ……うふふふ……うっ……!」
再び気分が悪くなったのか、不意にウォシュレの表情が曇った。
「あっ……大丈夫で――」
「うぅ……うわぁぁぁぁぁぁぁん!」
緊張の糸が切れたのか、何かが壊れたようにウォシュレが大きな声を上げて泣いた。
「もういやぁぁぁ! もう耐えられない! 他に王族がいないというだけで、どうして私がこんな目に遭わなければいけないの!? 助けて! 助けて、お父様ぁぁぁ!」
ウォシュレの身体がチンタローの胸にもたれかかる。
突き放すわけにも抱き締めるわけにもいかず、チンタローはそのまま胸で受け止めた。
ウォシュレは激しく取り乱して、チンタローの胸で泣き続けた。
王女として、王の代理として、国民の代表として。
この小さな肩で、どれほど大きな責任を負っていたのか。
この広い中庭をたった一人で手入れしていることが、王女の孤独と苦悩の象徴に思えた。
「お父様ぁぁ……! 私はどうすればいいの!? いつになったら、この状況は終わるの!? 魔龍討伐にかこつけて、股間を見せつける変態まで来たのよ! もういや! どうして私が……うぁぁぁぁぁん!」
ドエームの野郎……。
チンタローが露出狂でドMの変態への怒りを募らせていると、背後で足音がした。
ハッとして振り返ると、白い軍服を纏った巨漢――インモーハミダスが目の前に立っていた。
その険しい表情に、たちまちチンタローの背筋が凍りつく。
「あっ……えっと……これは、その……そういうわけじゃなくて……」
しどろもどろになって弁解を試みたが、言葉がうまく出てこない。
他国からの冒険者が王女と密会――しかも、王女を泣かせたとなれば、どんな刑罰が待っているのか。
アナルニアの法律を殆ど知らないチンタローには見当もつかなかった。
インモーハミダスは小さくうなずくと、その場に膝を着いた。
ウォシュレはようやく落ち着いたのか、泣くのを止めて顔を上げ、チンタローの肩越しにインモーハミダスを見上げた。
身長二メートノレ近いインモーハミダスは、跪いてもなお大きかった。
「インモーハミダス……」
「殿下。お迎えに参りました。庭のお手入れをなさるのでしたら、せめて一言お申しつけください」
「インモーハミダス、心配をかけました。彼……チンタローが、具合を悪くした私を助けてくれたのですよ」
「左様でございますか」
インモーハミダスはチンタローに向き直ると、膝に手を着いて頭を下げた。
「礼を言う、チンタロー君」
「あっ……いえいえ! どうも……」
しばらくすると、インモーハミダスは立ち上がってウォシュレのそばに歩み寄った。
「殿下、お立ちになれますか。御典医の所へ」
「大事ありません。ありがとう、インモーハミダス」
ウォシュレが立ち上がるのを待ってから、チンタローも立ち上がった。
「チンタロー。先ほどはありがとう。恥ずかしいところを見せた上に、ひどい目に遭わせてしまいましたね。どうか許してください」
「あっ……はい! どうも……」
チンタローはかしこまって何度も頭を下げた。
王女の威厳を取り戻したウォシュレは謁見の間で見せたのと同じ、気品ある笑みをたたえていた。
「チンタロー君。兵に案内させるゆえ、第一近衛歩兵大隊の浴場を使ってくれ。代わりの衣類も用意させよう」
「あっ……はい。ありがとうございます」
「近くに兵を控えさせてある。そこまで君もついて来るがいい」
インモーハミダスは背中を向け、ウォシュレに付き添って歩き出した。
二人から、このことを口外しないよう言われるのではとチンタローは思っていたが、そうした気配はない。
「あ……あの! このことは誰にも――」
「戒めの言葉は疑いの証だ」
「えっ……?」
インモーハミダスの言葉の意味が理解できず、チンタローはしばし考え込んだ。
やがて、インモーハミダスがゆっくりと振り向いた。
笑顔ではない。しかし、不信感や侮蔑の色も窺えない。
ただ、真剣な表情がそこにはあった。
「このインモーハミダス、人を見る目はあるつもりだ。念を押さずとも、君は口外すべからざることを口外しはしまい」
「あっ、えっ……は、はい!」
言葉の意味をようやく理解したチンタローは、妙な気恥しさを覚えながら二人の後に続いた。
不意に、ウォシュレがこっそりと振り返り、チンタローに微笑んだ。
気負いの感じられない、少女らしい可憐な笑みだった。
「王都で、嘔吐……ふふっ、おかしい」
ウォシュレは楽しそうに囁きながら、いたずらっぽく笑った。
チンタローは頬を赤らめながら、ウォシュレに微笑んで返した。
可愛らしい王女様の、誰も知らない笑顔を独り占めした嬉しさと恥ずかしさがない交ぜになり、胸がいっぱいになった。
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王女ウォシュレの知られざる一面を垣間見たチンタロー。
決意も新たにマッスロンと連れションするチンタローの前に現れたのは――!?
次回にご期待ください!




