雪の足跡(ゆきのあしあと)
想いは歳月のなかで、どう形を変えてゆくのだろうか……。
その思いから生まれた物語です。
気に入って貰えたら嬉しいです。
足跡のない雪の降り積もった真っ白な道形が、無音の世界にずっと果てしなく続いていた。
吐く呼気は白く震えて、雪の冷たい匂いと凍てつく空気のなか、僕は静かな胸の高鳴りを感じている。
今日の街はまるで童話の光景みたいに、周りの家並みと枯れてしまっている樹木も、厚い純白のドレスコード。
君は紺色のブレザーとコート、青い小さな傘を差して僕の目の前、少し先を歩いている。
踏み締める雪の音が静かに響き、襟元のミント色のマフラーが細めた視界に鮮やかに映っていた。
舞い散る粉雪は儚さ(はかなさ)を漂わせながら世界を飾り立て、微かに聴こえる君の歌声は、僕の耳朶を優しく撫でていた。
その曲は、もう10年前に流行ったラブソング。
道に残ってゆく君の靴跡を崩さないように、そっと歩きながら後姿を見つめていた。
指先で頬を軽く擦る(こする)。僕の胸の奥深くに確かに芽生えたこの感情に、名前を付けることをためらっていた。
呼吸が少し熱く震えている。
降り積もる雪はいつまでも、くすんだこの街を幻想のように彩っていた。
週末の夜更けのファミレスは、普段通りに雑多な人々を呑みこんで賑わっている。
喫煙席のテーブルに座った紗羅は、12月初旬という冬の季節には少し軽躁ないつもの臙脂色のニットに、ブルージーンズという服装でピザを頬張っていた。
店内の喧騒を伴奏に、ソファー式の椅子には厚手のコートが丸められて、まるでペットの子犬みたいに可愛らしく鎮座していた。
僕は感動的なまでに薄いドリンクバーのホットコーヒーを飲みながら、ゆっくりと煙草を吹かしていた。
彼女の収入からすれば、もう少し高級な店に幾らでも行けるのだが、不甲斐ない僕の懐具合を慮って(おもんばか)、こういう店で会ってくれていた。
燻す(くゆら)紫煙の向こうで、紗羅は窓越しの夜の街を眺めていた。
彼女の口元のティーカップから紅茶の香りが仄か(ほの)に漂って来る。
整った細面に軽やかなウェーブのかかった栗色のセミロングの髪。
眠りを知らぬように、点り続けるネオンの灯に包まれた街並を見つめていた瞳が、ふっと僕を映した。
「私が肺ガンになったら、治療費は全額和弥の負担だからね」
苦笑する僕を真面目な顔で軽く睨む(にら)と、愛しそうにファミレスの安物のピザを再び頬張り始める。
無邪気な表情は昔と少しも変わっていない。
お互い27歳になる。
高校生の頃に出会って、砂時計の砂の零れてゆくみたいに、もう10年の歳月が流れた。
県下有数の進学校の生徒同士だったけれど、その後の道程は大いに異なってしまった。
順調な航海を続けた彼女は大手一流企業のエリート社員。
人生の途上でエンジンに支障を来たした我が方は、小さな町工場の派遣社員。
僕は視線を紗羅から逸らせると煙草を灰皿に揉み消した。
名残りの紫煙が僕らの間を漂い、やがて店内の喧騒に掻き消されてゆく。
僅かな(わず)沈黙が訪れて、僕の声がその扉をそっと開ける。
「直樹は今日はどうしてるの」
紗羅の恋人で、高校時代からの共通の友人の名前を、照明を反射しているコーヒーを啜りながら訊いた。
「……出張。来週の始めまで帰らない。今日も相変わらず短いメールが1通きりだよ」
紗羅は少し乱暴にティーカップをテーブルに置きながら答えた。
硬い音が余韻を持って響いた。
僕の脳裡に寒風のなか書類で一杯の鞄を抱えて、街を忙しそうに駆けている直樹の実直そうな相貌が浮かんだ。
がっしりした体軀と善良そうな柔和な眼には、僕の持ち合わせない現実社会をタフに生きてゆく幾つかの美徳が備わっていた。
「少しの間、ベッドの広さを持て余しそうだね」
「そうねえ。和弥のように習慣になっていると良いんだけれど」
僕の揶揄するような口調に、シニカルな微笑みで応えると、紗羅はまた窓の外へ視線を移した。
その横顔を見つめていると僕の心は遠い日々へと浮遊してゆく。
栗色のウェーブのかかった髪は艶やかに陽光を反射する黒髪となり、セミロングの長さから夏の風の良く似合うショートヘアへと変化していく。
当然、暗く厚い黒雲から冷たい雨の降る日もあり、鈍色の重い色調の曇天の日も存在していたはずなのに、17歳のあの日々は記憶のなかでは、彼方まで透けるような澄んだ青空しか僕には浮かばない。
煌く(きらめ)陽射しに紗羅の真白な制服のブラウスは眩しく(まぶ)映り、その細く長い指は直樹の手としっかり繋がれていた。
広く大きな彼の背中と彼女の小柄な背中。
灼けつくように蝉の声が降り注いで、僕の胸はいつも小さく痛みを抱えていた。
俯き(うつむ)夏の季節に目を瞑り(つむ)鼓動と対話する。
2人の穏やかな微笑から零れる笑い声を耳朶に納めながら、まるで砂上の朽ちてしまった石塔のような自分自身の心の襞を指先でなぞっている。
ざらついた砂粒の乾いて尖った感触。
「和弥」
僕の名前を呼ぶ声が聴こえた。
顔を上げると澄み渡った青空を背景にして、紗羅が肩越しに笑顔で振り向いている。
その微笑みは風のように僕の胸を吹き抜けて、心を覆っていた砂塵は蒼穹へと舞い散る。
僕は笑う。
直樹も微笑していた。
鼓動に確かに温かな何かを共有しながら。
僕らのなかで空は何処までも青く透き通っていた頃。
「和弥」
紗羅の声に僕は現在へと連れ戻される。
店内の喧騒。
食器の触れ合う硬質な音。
ピザのチーズの匂い。
コーヒーと紅茶の仄かな香気。
彼女のウェーブのかかった栗色の髪。
そして、ネオンの灯でも全ては照らせない窓の外に広がる深い暗闇。
漆黒の夜。
軽やかな微笑みを浮かべた紗羅の瞳。
遠い昔から僕を魅了している黒の彼方の水平線。
僕の脳裡に彼女の背中が映る。
周りには脱ぎ散らした臙脂色のニットとブルージーンズ。
裸身の紗羅の背中は滑らかで、僕は静かに抱きしめる。
温かく冷たい肌の感触。
腕に柔らかな彼女の胸が触れる。
2人の鼓動が高く重なり鳴っていた。
俯いた紗羅の首筋に唇をはわせる。
吐息と一緒に洩れる声。
直樹の顔が浮かんだ。
実直そうなその表情が僕の心に裂け目を刻む。
痛みを伴う罪悪感はそのまま悦楽へと繋がってゆく。
背筋が震えた。
紗羅の胸にも今直樹の面影が在るのかもしれない。
嫉妬と困惑を振り払うように、僕は彼女の顎を荒々しく掴み瞳に僕を映らせる。
何かを訴えるような表情を掻き消すみたいに、唇を重ねて舌を絡ませた。
熱を帯びた彼女の指が僕の頬に伸びて求めるように触れる。
深い闇が窓越しに、僕と紗羅を真夜中に灼きつけて包んでいた。
夢だったのかもしれないと思うことがある。
僕は今でも紗羅と直樹の後姿を見つめている。
紺色の制服は趣味の良いビジネススーツに変わり、やはり2人の指は眼前でしっかりと繋がれていた。
穏やかな談笑の声は鼓膜を震わせている、
夢だったのかもしれない。
紗羅の声も。
表情も。
温かい軀も。
あの夜は僕の見た幻影。
僕は手元のカップから立ち上るコーヒーの香り越しに紗羅を見つめる。
テーブルの向こう君は僕を瞳に映して微笑んでいた。
空になったピザの皿。
紅茶の仄かな香気。
煙を燻らせる(くゆ)灰皿の煙草。
幻なのかもしれない。
この世界全てが。
背中で僕の血に滲む爪。
君の指先が確かに僕を希求していることを証明する靭さ(つよ)。
僕自身を包んでいるその瞳が黒から翡翠のような煌く色に移ろってゆくことを。
その彼方の変わらぬ水平線を、僕はまだ覚えていた。
僕らは会計を済ませて外の街に出る。
冬の凍えた風を頬に感じて少し身震いする。
アスファルトの硬質な感触が靴越しに伝わって来た。
大地は間違いなく存在しているようだった。
少なくとも今のところは。
「賑やかだね」
紗羅は立ち止まると街路から、さっきまで居たファミレスの窓越しの喧騒を眺めながら呟いた。
その隣で僕はジャンバーのポケットに両手を突っ込み無言でうなずく。
深く暗い夜に、眩しい照明のなか浮かび上がるみたいに、高校生くらいの3人の男女が愉しそうに談笑していた。
少女が1人に男の子が2人。
小柄なショートヘアのよく似合う彼女を囲むように、がっしりした体軀の善良そうな少年と、痩身の蔭を感じさせる少年。
音は聴こえない。
古い時代のサイレント映画のようだった。
綺麗な眼をしていた。
彼らはいつまでも終わらないと信じている煌いた時間のなかに存在していた。
大通り(メインストリート)を歩きながら僕が言う。
「直樹が帰ったら……また3人で会おう」
夜の街を僕と紗羅はゆく。
何人かの通行人とすれ違う。
週末の真夜中の息吹を感じていた。
少し気怠さを伴った活気と隙間に訪れる沈黙。
「うん」
紗羅は足を止めることなく、真っ直ぐに正面を見つめたまま答えた。
夜に高く彼女の靴音が響く。
少し前を歩く彼女がミント色の手袋越しに、息を吐きかける。
白い呼吸が舞い上がり、やがて凍てついた漆黒に溶けてゆく。
僕は不意に、本当に不意にあの真白な雪の道形を思い出す。
降り積もる粉雪のなか、紗羅の小さな靴跡を崩さないように、そっと後姿を見つめて歩いていた。
何も変わっていない。
君の歌を今でも僕は覚えていて、きっとあの頃から君は僕の全部だった。
自分の靴音が初めてはっきりと響いて聴こえた。
「雪降らないかなあ……」
紗羅はそう言うと肩越しに振り向いて微笑った(わら)。
瞬間、夜更けの街並は全て消えて紗羅だけが視界に映る。
紺色のブレザーとコート。
青い小さな傘。
鮮やかなミント色のマフラー。
微かな粉雪が降っていた。
黒い瞳の彼方には、君だけの遠い水平線が在って、僕はずっとそれを見つめている。
「……降るよ。きっと降る」
そう応えた僕の声は何故か遠方から響いているようで、誰か別人の声みたいに聴こえた。
僕は青い空と深い夜の狭間で、何処なのか分からなくなりそうな場所から、静かな漆黒をそっと仰いでいた。
ずっと片想いだった人に、ずっと好きだったと告げられる人は、幸運な人だと思います。
そう思います…。
読んでいただきありがとうございました。