専守防衛のデッドライン
インド洋派遣中に母港となったのが、中東のオマーンの基地であった。
ただ、上陸は月に一度出来れば良い方で、ほとんどが、気分転換の為の上陸であった。
その為、艦内が主要な生活の場となった。こうした時にモノを言うのは、星の数(階級)ではなく、経験と飯の数(隊員としての生活期間)がモノを言う。
アメリカでの経験から、山島田は枕と調味料だけは大切にしていた。アメリカ滞在中、馴れない枕で眠る事で不眠症になりかけた苦い経験から、山島田は、許可を得てうみゆきにマイ枕を持参していた。その為、派遣中は毎日快眠だった。
調味料は、海外に行くと必ず恋しくなる、味噌や醤油等を多めに積み込み、隊員がホームシックにならないように、調整した。自分の作る飯が旨いという事を知らない山島田は、何が本当に必要なモノか、いらないモノか、判断基準が定まっていなかった。
苦労したのは、山島田のような経験豊富な中堅・ベテランよりも、若杉一等海曹のような入りたての新米(当時は一等海士)やその新米と同じ位の年の変わらない新米エリート士官達であった。
勝手が分からず、ストレスフルだし、性欲はたまるし、その処理に四苦八苦した。二年間の派遣は、色々な意味で彼等を成長させた。
身の危険な目に遭う事はほとんど無かった。日本をはじめとした、多国籍軍の艦艇に敵う海賊が、イラクやアフガニスタンには存在しなかったからで、陸上自衛隊の派遣された、サマワの方が余程危険な場所であっただろう。
陸上部隊の様に24時間体制下で駐屯する必要のない海上は、陸上のテロ対策よりも、緩くて済んだ。というのも、テロ対策特措法による、海上自衛隊の艦艇の派遣は、1990年代初頭から始まったPKOでペルシャ湾に掃海艇を出して以来の海外派遣で、事実上初めての艦隊派遣とも言えた。
だから、様々な国に囲まれて日本は首尾よくアメリカの求める、ブーツオンザロードの要請にも、死者を出すことなく応えられた。そもそも、日本の給油艦がなければ、アメリカの対テロ戦争はスムーズに行われる事は無かったであろう。
PKO協力法の施行から、10余年。日本にとってこの経験は、大きな一歩と言えるモノであった。
法律(テロ対策特措法)が期限を迎え、無効になるまで、撤収を終えるで一人の死者も出さなかった事は、自衛隊の錬度の高さを証明するモノであった。と、同時に日本が海外に派兵出来る能力を保有している事を、一部の者は冷ややかに見ていた。
インド洋の海上は、熱い時には甲板で目玉焼きが出来る程の猛烈な暑さであった。そこでの給油や哨戒任務というのは、訓練又はそれに準ずる鍛練をしている者でなければ、直ぐに根をあげる程のモノであった。
良い意味でこの海外派遣は、自衛官の質を試す場となった。と山島田は考えていた。口だけの専守防衛では無い事を、内外に示すにはこうした場を利用するのが、不浄の理。良くも悪くも、自衛隊は何かあれば動けるし、闘えるという事を証明したのであった。
帰還後一年程して、自衛艦隊所属護衛艦うみゆきの艦長は、貝沼一佐の定年退職により、貝沼一佐は退官され、副長であった森滝二佐が、一佐に昇進し新艦長となった。




