父は三ツ星の名店総料理長
山島田のモットーは、大きな銅鍋で大量のカレーを作ると、カレーはその量に比例して旨くなる。だから海軍カレーは旨いのだ、というものであった。
護衛艦うみゆきには、彼を含めた200名以上の隊員達が乗り組んでいる。海外派兵の経験もある山島田にとって、船上での調理は、丘勤務(陸上勤務)の時とは、比べ物にならない程気を使うという。
それは、艦上生活特有のものであり、経験しなければ分からないものであった。生鮮食品の管理から、水や非常食の確認。献立の作成、仕入れるものリストの作成。と、毎日血気盛んな200名以上の胃袋を満たす為に、山島田は艦内の厨房で汗を流していた。
イラクでの給油艦護衛活動や、アデン湾での海賊対策に参加した頃、一等海曹に昇任した。その時は33才であった。
ノンキャリア(防衛大学を出ていない叩き上げ)にしては、昇任は早い方だった。それも全てはプロのシェフ並みの料理の腕が、彼にはあったからである。
横須賀教育隊での3ヶ月以外は、そのほとんどを護衛艦うみゆきで過ごし、ほぼ毎日(休みの日を除いて)包丁を握り、フライパンを回し続けていた。
それから、正宗が最先任炊事隊員になってからは、護衛艦うみゆきの飯は、海上自衛隊で一番旨いと、そう言われる様になった。
実際、彼の腕は本物だった。イラクで士官(三等海尉以上の階級)同士の親睦会があり、アメリカ海軍の若手士官や、イギリス海軍の若手といった、次世代のネイビーを背負って立つ各国のレセプションで、海上自衛隊No.2の大岩野修平護衛艦隊司令(海将)が、評判を知って正宗にコックを任せたところ、素晴らしい評価をもらったというエピソードも残っている。
正宗にとって料理は小説家が小説を容易く書き上げてしまうのと、同じだった。
正宗の料理の腕が良かったのは、父親譲りだった。
正宗の父は、ミシェランガイド三ツ星の名店である、ル・ジャポネ・フィアゼの総料理長である山島田元海の影響が大きかった。
正宗も父親の後を継ごうと、仏料理を学びたかったが、父親と絶縁状態になってしまった為、正宗は仕方無く自衛隊に入った。
なぜ、絶縁状態になったかは明らかである。正宗が、料理人の命とも言える大切な包丁を、勝手に使ってしまったからであった。
包丁はコックの魂。それはいくら自分の息子でも許される事ではなかった。
それ以来、仏料理の未練を抱えたまま、今日に至っている正宗であった。