第一話 溟い霧を暴く者
物語は動きだす……
青いファイルを閉じるとシワだらけのスーツを着崩した不摂生な男が目に入った。髪先は縮れ、目には濃い隈をつくり、髭は剃り残しが目立つ。早くも不信感が危険信号を打ち鳴らしていた。腕の立つ探偵らしい振る舞いをしていたのは私が用件を伝えたときくらいで、依頼費を見てからというもの妙にへりくだった態度をとっている。ここへ来てからも子供のようにあたりをキョロキョロと見渡しては時折壁をなぞるように背表紙を眺めていたが、結局どの資料も引いて読もうとはしなかった。
「水透門大学附属図書館へようこそ」
図書館長が仕事の合間を縫ってお話をして聞かせて下さった時も、適当に相槌を打ってみたりあくびをしてみたりと呆れるようなことばかり、いや呆れるようなことしかしていなかった。
【十五時〇〇分】
館長の話が昔話に変わった隙を見計って時間を確認した。時計は私の焦りを歯牙にも針にも掛けず平然と同じ時間を刻み続けている。
「あの、ちょっとよろしい?」
男が館長の話を遮った。館長は笑顔で手のひらをこちらへ見せた。
「えっと、確認しておきます。お帰りになられたのが九月二十七日。行方知れずになられたのが九月二十八日。それから執筆を終える十月十三日までに何故か目撃者はおらず、十月二十日現在に至る。と」
男は手元の手帳に目を向けたまま、早口で訊いた。それに「間違いありません」と館長が答え——終わらないうちに今度は私に話しかけてきた。
「えっと、到津さん。ここで調べられることはもうないです。次いきましょう。あ、念のためそれは借りていきます。いいですよね?」
男はひとりで勝手に話を進めると誰の返事も聞かずに扉の方へと大股で歩き始めた。
私は慌ててその後を追った。途中で気がついて館長へ会釈したが、とても失礼なことをしてしまった。状況が状況なので仕方ない。いまは自分にそう言い聞かせて走った。図書館を。
「霧ヶ丘さん! 待ってください!」
そう叫ぶと彼の足取りは心なしかさらに速くなった。身長は私(百七十センチ)よりも低いくせに歩くのは恐ろしく速い。何より、人混みの中を小回りを効かせてすり抜ける様は同じ人間だとは思えなかった。それも、考え事をして下を向いている状態でである。
「霧ヶ丘サーン? オカネ払いませんよぉ」
試しに冗談でこう言ってみると彼はくるりとこちらへ向き直り、立ち止まった。
「あー、お前。勘違いしてるんじゃないか?」
「なにがです? そんなことよりちゃんと仕事してくださいよ。お金目当てだったんですか?」
彼はフゥと一息ついたかと思うと、鬼気迫る勢いで話し始めた。
「お前が追ってるのは何だ? 目先の俺なんかじゃないだろう。人の命だよ。俺はいくらでもお前を待つことはできるがな。状況からして、あの人の命に保証はないんだぞ。それともなんだ、命をお金で買おうとしてるのか?」
背中に針で刺されたような痛みが走る。焦りと行き場のない怒りで平静を欠いていた。
「それから。もちろん俺は人間だからお金が無いと生きていけないし、お金を得るには命の、人生の一部を差し出さなきゃいけない。そりゃ時には汚い仕事も請負ったりする。でもな、俺の仕事はまず第一に秘密を暴くことだ」
私は気がつくと建物の外に出ており、話が終わる時には彼の中古車に乗り込んでいた。
「シートベルト」
【十五時○五分】
エンジンがかけられた。