2/3 ドリームリードドリーネ (十月十日)
どうも、日明浩一です。本調書もクライマックスということで、前半は平尾台についてと私の回顧録をまとめさせていただきました(まとまっているとは言ってません)。当編はドリーネについてです。衝撃的な事実の数々。皆さんの目で実際に確かめて欲しいくらいです。
◇
私はマンション六階分に相当する高さで足場を失った。死と寄り添うように生きてきた私がまさかこんなところで人生を締め括ることになるなんて。
そんなことをフッと思ったくらいで特に後悔することもなく、自分の身長分ほどを落ちた頃だろうか。まず底に円形の白い円を見た。光の乱反射だった。水だ。白や赤の底は見えなかったので、ある程度の深さがあることが分かり、生存の可能性を見出すことができた。
さらに縦穴の四分の一ほどを落下した頃、その円が底の全てではないことに気がついた。先に落ちた岩が円の外側に吸い込まれ、波紋が光の当たっていない部分からも伝わってきていたのだ。
そして半分ほど落ちてから、壁が見えないことに気がついた。私たちが落ちた穴は崩れて広がっているのだが、それでもこのドリーネに対して入り口はすぼんでいたのだ。直径は百メートルを越えるかもしれない。
底へ至る頃には、私はスリルと探究心で興奮しきっていた。受け身をとるのも忘れ、全身で思い切り水面を叩きつけた。
当然のことなのだが、衝撃は凄まじく私は水中で呻き声を上げた。これまた当然のことで、大量の水を飲んでしまった。痛みで身体が動かせず数秒たっても足が底につく気配がないので、私は水面を目指した。その時、蹴伸びした足が何かブヨブヨしたものに触れた。あり得ない感覚に怯えた身体は嫌がらせのようにさらに感覚を尖らせた。
水は汚れているし、何かの破片が舞い乱れているぞ。あの気持ちの悪いのは落下した落ち葉の層だったに違いない。
そう自分に言い聞かせることで理性をつなぎ留めた。再び水面へ。水を蹴ったはずの脚は、今度はムースのように柔らかい何かに埋もれた。謎の層は不気味な生暖かさをもっており、私の脚は水中とは思えない速度で水を掻き回した。そんな激しい動きに思わず緩んだ唇から僅かに水が染み込んだ。
——刺激臭
いや、異臭。
味覚は気を失い、喉から伝わった空気にさえ嗅覚が緊急警報を出した。私は手を振り回して水面から跳び出し、思い切り咳き込んだ。
「クッサ!」
縦穴に二人の声がこだまして、やがて地響きのような音へと変わった。楽曲の余韻に聴き入っているかのように私たちは黙り込み、静かに水面を漂っていた。
音が大地に染み込んだ頃にはもう目が慣れてきて、私たちは壁の少し迫り出した部分に登ることができた。気温は他の鍾乳洞と同じく十五度ほどだろうか。風がないのですぐに体力を奪われる心配はなかった。
私は背負っていた鞄から時代遅れの二つ折り携帯と高性能の手回し充電式懐中電灯を引き摺り出した。生存が確認できたのは懐中電灯のみ。不幸なことに古賀も携帯電話を持っていなかった。
生身で壁は登れるわけがなく、仮に装備があったとしてもすぼんだ口には太刀打ちできそうにない。かといって洞窟が何処かへ繋がっている可能性に賭けるのはあまりにも無謀すぎる。最善の選択肢は、これ以上動かず体力を温存し救助を待つことだった。
が、何もせず待っているだけでは面白くない。古賀が防水パックに用意していた着替えを受け取り、無駄に素早く準備を進めた。もちろん、探索の準備をだ。
「おい。あれ見ろちゃ」
先に準備を終えた古賀が向こう岸を指差した。目は慣れていたが、入り口から注ぐ光に阻まれて対岸の壁は暗闇を見透すことはできなかった。古賀は私の肩を叩き、人差し指を目線の上で一文字に切ってみせた。どんな面白い構造に気がついたのだろうかと目を凝らしていると、今日の天気らしさが出てきたのだろう、光の柱がフッと力を弱めた。私たちは色彩を失ったが、その代わりにドリーネの対岸まで届く視界を手に入れた。
下腹部深くに穴が開くような衝撃が走った。
世界には、切り立った崖に建てられた寺院や岩と見紛いそうな無人島に佇む灯台など、人間の成せる技とは思えないような建造物がいくつも存在する。それらが蓄えた古の時の流れと数多の人の思いの放つ波は我々の畏敬の琴線を震わせるのだ。私はこの時、理解に一抹の時間も与られることなく、この類の波動に貫かれた。衝撃はいまだかつて経験したことのない速さと力を備えていた。
やや反りのある均一な灰色の弓。短と長の二つ。鳥居。それは誰の目にも明らかだった。何故。こういう時は、疑問を解きたくば頭ではなく足を回すのだ。鳥居があるなら祠くらいはあるだろう。
私たちは軽く頷きあった後、壁伝いに鳥居を目指した。対岸いっぱいに広げた羽から水深を推し量るに、ドリーネの五分の一ほどは水没していた。と、なるとあの気味の悪い感触は一体何だったのか。考えることが他になくなったため、あの生暖かい感触と異臭が脳裏で反復横跳びを始めた。
滑らかな鍾乳石に何度も足元を掬われながらも鳥居のもとへ辿り着いるのがわかった。懐中電灯で辺りを照らすと、鳥居の正面の壁に大人ひとりがやっと通れるくらいの穴が開いていた。穴懐中電灯を向けると光は戻ってくることがなく、穴の向こうにはさらに空間が広がっていた。私は躊躇することなく、先導して奥の部屋へと身体を捻じ込んだ。
祠。堅木でできたもの。石材でできたもの。壁を削り出したもの。そういったものを期待していた私はこの部屋の真実に打ち震えた。光の針が暗闇に開けた点に巨大な木造建築の一部が映り込んだのだ。日本人には馴染み深い、少し高くなった床、真ん中の盛り上がった屋根、屋根の中心から伸びる二本の角……。古賀が穴を抜ける頃には私の身体は入り口の前に立っており、拍手が岩室の空気を揺さぶっていた。部屋には神殿がギリギリ収まる高さがあり、広さは縦穴の半分ほどだった。それでも懐中電灯は端から端まで光を届けることができなかったが。
神殿に上がろうとすると、鈍い音とともに刺されたような痛みが足を走った。床にできた大きなヒビ割れを見て、私は疑問を抱いた。湿気塗れの空間で、人の重みで崩れてしまうほど朽ちているのに形を保てているのは何故なのか。すぐにわかった。ひび割れから白寄りの灰色、骨のような色の粘液が染み出したのだ。
光を当てると煮立つ泥のように騒ぎ出し、もといた隙間へ帰っていった。アメーバのような何かだろうか。きっと、乾きかけの糊のようなそれが身体を木の隙間に張り巡らせていることで倒壊が防がれていたのだろう。
見てくれは神社そのものであったが、造りは簡易的で賽銭箱や鈴といったものはなく階段を登り引き戸を開けば御神体がすぐそにあった。屋内は長方形の空間で床の中心が円状にくり抜かれ、そこから注連縄のついた岩が顔を出していた。建物自体かなり傷んでいる様子だったため慎重に進んだが、円形にくり抜かれた部分は下から補強がしてあるようで岩には難なく近づけた。異臭を放つアメーバが縦横無尽の柱になっていたのだ。
平坦な部屋に鍾乳石がひとつだけ。それが御神体として祀られる理由だろうか。
「ヤマ、ト……なんだこれ」
岩には尺の形をしたものが立てかけられており「大和邇」と刻まれていた。
「オオワニ」
すっかり影を薄くしていた古賀が顔を近づけて声を発したものだから、私叫び声を上げてしまった。念のため懐中電灯を古賀の方に向けてしまうほどだった。
「おい。目が痛いけんやめろちゃ」
私はすまんすまんと口では謝りながらも目には精一杯の不満を浮かべてみせた。
「これはな」
古賀が言うことには、和邇とはワニもしくはサメを指す言葉であり、今回の場合「八尋の大和邇」のことである可能性が高いという。平尾台の鍾乳洞には内部に神社があるものがあり、その神社の祭神が「八尋の大和邇」なのだ。日本神話には竜宮城の姫、豊玉姫として登場しており、日本神話における異類婚姻譚の典型として知られているのだとか。他にも歴史的価値の高そうな品物が沢山あったが、ここでは紹介しきれないので是非自らの目で確かめていただきたい。
一通り探検を終えた後、再び古賀が話しかけてきた。
「このコンコンいう音はなんなん?」
確かに、それは不定期に壁の向こう側から響いていた。
「多分、別の雨水が削った空洞がこの先にあって、そこが水で満たされとるんやろ」
「それがなんで」
「全方位から加わってるはずの圧力が、この空間の方向には存在しないから水が押し出されようとしてるんだよ」
「そしたら……水位が上がったら出られるっちゃない?」
「じゃあこの部屋にいるのは危ないな」
突如、足に何かがまとわり付いた。私が神社から出るために歩き出そうとした、その足が床を踏み抜いていたのだ。濡れた靴に水は簡単に侵入したが、その不快感が伝わることはなかった。
寒気が全身を貫いて私は意識を手にした。視界は靄がかかったようにどこまでも白かったが、しばらくすると幕が上がるように二つに分かれて見覚えのある風景が現れた。
私はひとりの人間を目にした。
赤い蛍光のウェアが、まるで真っ白な刃を伝う血のように鋭い山頂を登っていく。
それは私が世界の最も高い場所へと辿り着いた時の光景だった。どうして上から眺めているのだろう。明晰夢なのだろうか。思考が戻ってくるにつれて視界は再び真っ白になり、やがてその白も元の暗闇に溶け帰っていった。
揺れ動く線が現れたかと思うとそれ輪郭を成し、古賀が私の両肩を掴んで口をパクパクさせているのだとわかった。
「おい。しっかりしろ」
私は返事をすることなく足元へ光を向けた。靴は濡れているのだが、踏み抜いたはずの床は元通りになっている。見たものをそのまま伝えると、古賀は鼻で笑った。
「さっきもう山には登れんっちいいよったな」
「ああ、六十と二つだ。体力的にな」
「違うな」
古賀は神社の中心、御神体の方へと歩き始めた。
「何故、生き物はこんなにも弱く短命なんやと思う」
「何だい。いきなり」
「なあ、お前は学者だ。お前は何のために生きるんだ」
「そう急に言われてもなぁ」
古賀は岩に足を掛けた。
「退屈なんだろう? もう自分を滾らせてくれる発見も冒険もない。そう思っちょる」
「いや……」
私が言葉を詰まらせていると、古賀はまた笑った。
瓦解。
視界にあったもの全てが、テレビ画面のように上へ下へと入り混じった。何も見えず、息もできない。空間そのものが崩れるかのようだった。浮遊感に包まれ姿勢を保てなくなったので、腕に通した懐中電灯が落ちないように抑えながら頭を庇うことしかできなかった。
落下の衝撃も何かにぶつかった衝撃などもなく、浮遊感だけが残ったまま揺れは収まった。下降しているならば風を感じるはずだが、湿っぽい空気に圧迫されるだけだった。光も音も無い世界。ただ、それらを埋め合わせるかのように、空間いっぱいに例の刺激臭がのさばっていた。
私は頭上の懐中電灯を両手で握り締め、恐る恐る前方を照らした。
が、何も見えない。
電源が切れたのだろうかとこちらへ向けると白い矢はしっかり私の目に突き刺さった。驚いた私は声を発した。それははじめ、小さな呻き声だった。しかし何度も、それも不規則に反響を繰り返して、やがて野太い雄叫びと悲痛な叫び声と女性の金切り声に変わった。
爪先から指先まで氷水に浸されたかのようだった。手汗のとまらない硬い両手で懐中電灯を力の限り締め付けた。何でも良いからすがるものが欲しかった私は、その目で光の生まれる場所を一度も閉じることなく見つめ続けた。
あのモノの存在を認めるまで。