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1/3 ヒアガリダイアリー (十月三日)

 物語が生まれるのは「普通」の中に歪みが生じた時だと言うが、そもそも人間の「普通」という尺度は至って脆弱なものなので、宇宙は物語に溢れているのである。

 どうも、日明浩一です。初めての方は初めまして。読み方は水が「干上がる」の日明です。どうぞよろしく。さて、今回の調書は私の地元は平尾台を題材にしております。本来ならば前回のアメリカはマサチューセッツ州、ダニッチの項で終いにするはずだったのですが、とある依頼が舞い込みまして。まあ、オマケとしては十分に相応しい題材でしたのでこちらに載録した次第です。



 野焼きが嘘だったかのように緑が息づいている山頂のひとつで私はふと立ち止まった。


 昼を前にして霧が出てきている。


 太陽が雲よりも上に昇ってから後に発生する霧に出くわすのは初めてだった。元々曇りの予定であったが、私が登っている間は青い切れ目が見えていた。


 晴れていれば海に浮かぶ空港までも視界が届く見晴らしを少しばかり期待してここまでやって来たのだが、やがて辺りは薄灰色のドームに包まれてしまった。


 九月の平尾台で朝露を結んだ花々が曇天の中に輝いている。これはこれで幻想的な景色だと自分に言い聞かせながら、私は地図を取り出した。


 待ち合わせの場所はもう少し先。ドリーネと呼ばれる縦穴がいくつか集まっているエリアだ。


 つい昨日のことだった。古い友人から「平尾台に新しいドリーネを見つけた」とメールが届いた。私はアメリカへの出張からちょうど北九州に帰ってきたばかりであったが「新しい鍾乳洞かもしれない」「是非見てもらいたいものがあるのだ」と半ば強制的に予定を組まれ、今朝、勤務先の大学に報告書を提出する足で平尾台へと車を走らせたのだった。


 正直なところ、私はこの丘に大した魅力を感じていない。山を観賞用の剣に例えるとわかりやすい。私は地質学者として世界各地を転々とし、数多の圏谷、嶮岨、霊峰を目にしてきた。それらは美しく、鋭く、荘厳な剣であり、従える丘陵、つまり柄にさえ抜け目のない貫禄があった。実際に鞘を払ってみれば、私の身体などバターのように両断してしまえる猛々しい刀身と人間の生死など歯牙にも掛けることのない神々をも思わせる風格に私は恐縮するばかりだった。


 ではここはどうか。確かに、野焼きにより作り出される半自然の草原やカルスト地形の石灰岩が群れる様は類稀な景色なのだが、いくら清廉な装飾が施されていようとこの丘は剣の柄の部分に過ぎないのだ。人間を嘲笑うかの如く君臨する神秘の山岳たちに比べれば、故郷の山のなんと可愛らしいことか。人間に制圧され、神秘も剥がされ。悠久の時の秘密を曝け出してしまっている。新たな発見があったとしても、それはもはや過去をなぞる作業、既存の事実の裏付けにしかならないだろう。


 それでも私の足を突き動かしたのは、込み上げてくる懐郷の念だった。私の実家は平尾台の麓にあり、この一枚の岩でできた台地は地質学者である私にとっての「はじまりの地」なのだ。私の仕事は地球の歴史を調べること。つまり「地球の時間」を測ることだ。


 最初に「地球の時間」を知ったのは十歳の時。この平尾台にある千仏鍾乳洞を訪れた時だった。当時の私といえば、自分の齢が二桁になったのを契機に「ヒトの時間」についてばかり考えていた。人は何歳まで生きられるのかとか、私はいつまで生きられるのかとか、寿命の間で何をするべきなのかとか。まあ、将来の夢を見つけそびれた子供にありがちなループに陥っていた。


 そんな私にとって「地球の時間」との出会いは革新的な出来事だった。千仏鍾乳洞では、ほんの小さな石の氷柱が一ミリメートル伸びるために十年の歳月を要する。冷気を吐く怪物の口のような洞窟の入り口で天井から伸びる鍾乳石を眺めていた私に誰かがそう言った。自分の短い一生が地球の歴史のほんの薄皮にしか値しないという事実を目の当たりにした私は、腹の底が押されるような気がして俯いた。そうすると鍾乳洞から流れてくる水が視界に入った。誰かは私の肩に手を置いてこう言った。


「ほら、見てみ。集まった水たちが川になっちょるやろ。川は海に流れて、雲になってな、また雨になってここへ戻ってくる。そんで雨が山の石灰を溶かして、これを伸ばすんや。水ってのは、生き物みんなの中に通っちょるやろ。そしたら鍾乳洞ってのは地球の記憶ってことにならんかね。みーんな地球が覚えてくれちょる。お前が流しちょる涙もな」

 私は体の中で何かが破れたような気がした。顔を上げた時、目の前の石筍がただの石などではなく、底光りのする鉱石や煌びやかな宝石にも引けを取らない存在であることを理解した。そして、その向こう側に並ぶ無数の柱たちそのひとつひとつに凝縮された「地球の時間」を感じた。私は「ヒトの時間」の矮小さを認めるのと同時に「地球の時間」の雄大さに取り憑かれてしまったのだった。


 「地球の時間」に魅入られる前は、ふとしたタイミング——灯の落ちた部屋で布団を被った時とか——に私の思考はひとつの単純で果てのない議題に埋め尽くされることが多々あった。自分の短い生を振り返れば、その前にも後にも途方も無い時間が広がっている。半永久的に続くフィルムのほんの数コマにだけ私の人生が映し出されており、その後は何も感じない永遠の闇が続いている。悔しさと虚しさが混じった恐怖に涙が流れることもあった。だが、あの出来事を境に私が泣くことはめっきり無くなっていた。


 山稜をしばらく歩いてから山道へ逸れると、竹林の日陰を抜けた先でひとりの男が手を振っていた。友人の古賀だ。かつての面影を重ねると、短髪に白が混じって薄くなった以外は二十年前の高校同窓会で会った日から一切変わっていないように見て取れた。霧を払ってしまいそうなほどの笑顔には今でも呆れてしまう。私たちは軽く手を振って挨拶にもならない会釈を交わし、そのまま流れるように目的地へと歩を進めた。


 山道を外れ、茂みを超えて坂を下るために大股になったかと思うと、古賀が不意に口を開いた。

「晨星落々。還暦を迎えぬまま逝っちまう人間の多いこと多いこと。命知らずのお前が生きてるっちゅうのになぁ」

私が返事に困っていると、今日一番の風が吹いて二人して頭から落ち葉を被った。

「で、何。今度はなんしよったん」

古賀は何もなかったかのように訊いてきた。

「アメリカの大学に出張」

「ロッキーか」

「いやいや、今回は普通の地質調査」

「山には登っちょらんのか」

「まあダニッチっていうとこの丘には登ったけど。どうしてそんなことを聞く」

訊くと古賀は私の調書を読んでいるらしく、五年前からピタリと山に登らなくなった為、体を悪くしたのではないかと思ったのだという。

「流石にこの年で本気の登山は無理やろ」

「そう…か。なら今日くらいのが丁度いいかもな」

古賀は微笑にもならない笑みのようなものを下唇を押し上げて作っていた。笑う時は爆ぜるように笑う彼がそんな神妙な面持ちをするので、私は先述の平尾台への評価を喉の奥へ飲み込んだ。


 ドリーネは、山頂を人間でいう顔とすれば肩のあたりにあった。緑の衣の中だ。その縦穴は以前見たことのある新鮮な隕石のクレーターを想起させる。周辺の土が大きな塊に分かれて盛り上がり、明るい寒色系の風景の中に暗い暖色を呈している。中心には不自然に感じるほど急に、傾斜が無く垂直に、真下へと落ちる穴が真っ黒に開いている。自然のグラデーションの中に突如現れる単色の層はまるで天を仰ぐ眼球のようだった。


 古賀は目玉の一歩手前で立ち止まり、瞳孔を指差した。

「縄下ろしてみたっちゃけど、そこまでざっと二十メートルはあったっちゃ」

周りに同化して気がつかなかったが、縦穴の反対側に黒いワイヤーが張ってあった。

「向こうのブルーシートに道具くるんで置いちょるけ」

私たちは黄褐色の層を弧を描くように歩いた。私は穴の中を少し覗いてみようと古賀よりも内側を彼に並ぶようにして歩いた。今考えてみれば危険極まりない行為だ。そもそも、ドリーネがその口を現したのは蓋をしていた岩や土などが取り去られたからに違いない。そんな口の縁を歩くなどあり得ない話である。だが、そんなことを忘れるほどに足元がしっかりしていたのだ。


 まあ勿論、当然のように足元は瓦解した。浅はかな考えの先は深い穴の底だった。私たちは二十メートル、マンション六階にも相当する高さから真っ逆さまに落ちた。私の思考は停止した。突然の崩落に驚いた——からではない。予想だにしなかったドリーネの真の姿を目の当たりにしたからだ。それは、ただの縦穴なんかではなかった。

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